ここは 廬山寺
墓地の方へすすんでいきます
墓地の 東端に土手の盛り上がりがあります
これが 御土居の名残です 北大路方面にある 御土居とは 規模が全然違いますが 貴重な 史蹟です
昭和12年に指定されています
関連記事 ➡ 秀吉が造らせた御土居堀
ここは 廬山寺
墓地の方へすすんでいきます
墓地の 東端に土手の盛り上がりがあります
これが 御土居の名残です 北大路方面にある 御土居とは 規模が全然違いますが 貴重な 史蹟です
昭和12年に指定されています
関連記事 ➡ 秀吉が造らせた御土居堀
西方寺 さいほうじ
当寺は入逢山と号し、浄土宗西山派粟生光明寺に属する。この常盤の地は嵯峨野の入口に当たり、王朝時代から多くの貴族の別業が営まれた所である。三條天皇の長子・敦明親王は後一條天皇の皇太子であった。しかし、この頃は摂政藤原道長の全盛時代であり、道長は一條天皇の中宮、彰子(道長の長女)の第3子敦良親王(のち後朱雀天皇)を春宮(皇太子)とするため圧力を加えた。そのために親王は、長和5年(1016)後一條天皇の皇太子となられたが、寛仁元年(1017)8月、皇太子を辞し、太政天皇に準じ、小一條院の名を与えられてこの地に隠棲し、のち出家した。親王は永承6年(1051)正月8日、58歳で亡くなられた墓はいまだ判明していない。その後、ここは寺となっていたが、鎌倉時代、法然の弟子、宇都宮頼綱入道蓮生が建永元年(1206)、寺内に念仏堂を建て、西院門跡の名を西方寺と称するようになった。応仁の乱の頃、仁和寺が消失し、寛永11年(1634)に再建されるまで170年の間、仁和寺の寺基がここなどに移してあったという。
敦明親王御歌
雲居まで立昇るべき煙かと みえしに思いのほかにもあるかな
京都市
他に貝多羅経と付近から出土した遺瓦数個を什宝として有する。
京都御苑内は自転車の乗り入れができます
中はもちろん信号はありませんし、車に気をつかわなくて済むので 気楽に 行き来できます
そんな 御苑は 砂利が敷き詰められているので 自転車は 走りにくいのですが
自然と自転車道が出来て そこを自転車を走らせると
砂利の上を走るよりはるかに楽にこげます そんな 自転車道です
交差しているところ です
社号標は 明治32年10月 建立
鳥居の後ろは 新築のマンション
梨木神社 なしのきじんじゃ
当社は、明治18年(1885)に創建された旧別格官幣社で、明治維新の功労者三条実萬公・実美公父子を祀り、後に猿が辻の凶変で倒れた姉小路公知卿をも配祀している。三條家旧邸が、梨木町にあったことにちなんで名付けられた。
実萬公は、文化9年(1812)以来47年間、光格、仁孝、孝明の三代の天皇に仕え、皇室の中興に尽くしたため、幕府と対立し、その圧迫により一乗寺に幽居したが、翌年の安政6年(1859)に58歳で逝去し、「忠成公」の諡名を賜った。実美公は、幕末期に尊王攘夷運動の先頭に立ち活躍、しかし文久3年8月18日の政変で頓挫し、同士の公卿と共に長州西国に赴かれ、艱難辛苦を経て維新の大業を達成せられた。明治維新後は右大臣・太政大臣・内大臣に任ぜられたが、明治24年(1891)に逝去し、正一位を贈られ、大正4年(1915)大正天皇即位御大典の折に父を祀る当社に合祀された。旧茶室は、京都御所春興殿(賢処所)の神饌殿を改装したもので、境内手手水の井戸「染井」の水は京の三名水の一つとして有名である。また、当社は萩の名所として知られ、毎年9月の中旬から下旬に催される「萩まつり」の頃は多くの参詣者でにぎわう。 京都市
第2鳥居
参道は萩が植えられています
修復中の建物
手水舎
手水舎
「染井」 当社境内は、9世紀後半に栄えた藤原良房の娘、明子(清和天皇の御母染殿皇后)の里御所の址で、この良房の屋敷を染殿と称し、宮中御用の染所として染井の水が用いられたと云われている。京都三名水の内現存する唯一の名水として知られる。
御所三名水 祐井、染井、縣井
京都三名水 醒ヶ井、縣井、染井
梨木神社 ここは 平安京の頃には
蔵
中門から 拝殿と 本殿
拝殿と その奥に 本殿
本殿です
石碑
ハギ
湯川秀樹博士の歌碑
湯川秀樹博士 歌碑
当社の「萩の会」初代会長である。
千年の昔の園も かくやありし 木の下かげに 乱れさく萩
関連記事 ➡ 石碑 忠成公隠棲地