アートプラス京めぐり

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本禅寺  法華宗陣門派  大久保彦左衛門や岸駒の墓所

2015年12月09日 17時24分13秒 | 寺院

 左の石柱は 大正10年2月16日の建立   正面に本堂

本禅寺   法華宗(陣門流)

応永13年(1406)本圀寺の僧日陣上人が、法兄日伝と法論の末、分立して本禅寺と号し、四条堀川(中京区)に一宇を建立したのが起こりといわれ、光了山と号する法華宗陣門派の大本山である。天文5年(1536)の法華の乱で焼失したが、同9年(1540)5世日覚上人によって西陣桜井町に再建された。次いで天正19年(1591)豊臣秀吉の市街地整理によって現在の地に移ったが、宝永・天明の大火に類焼した。今の建物はその後の再建で、本堂には本尊法華題目・釈迦・多宝仏を安置し、釈迦堂には日蓮上人の念持仏とつたえる金銅釈迦立像を安置する。また鐘楼にかかげる銅鐘(桃山)は、慶長11年(1606)豊臣秀頼が大阪の法安寺に寄進したものといわれ、徳川家康が大阪の陣に陣鐘として用い、のちに大久保彦左衛門忠教に与え、忠教はまた当寺に寄進したと伝わる。この鐘は四方に撞座を設け、百八箇の乳を配して百八の煩悩に擬しているのを特徴としている。

大久保家を檀越とし、今も境内墓地には忠教とその一族の墓がある。また虎の画の名手として知られる画家の岸駒とその一族の墓もある。

 

 

案内板が設置されていたのだろうか

 

鐘楼 と 道場

 

 

道場

 

本堂の扁額   立像釈迦佛

 

本堂に続く 蔵

 

大久保彦左衛門の墓は五輪石塔である。高さ約2メートル地輪の表面右方に「大久保彦左衛門尉」 左に「寛永16年(1639)2月晦日」

とある。彦左衛門とは俗称で、正しくは忠教といい三河国(愛知県)大久保の生まれ、天正4年(1567)17歳で初陣してより、徳川家康・秀忠・家光三代に仕え、旗本中にあって重きをなしていた。あるとき、旧友井伊直政が病気をしたとき、見舞いに小さな鰹節2,3本を持参し「貴殿はむかしの苦労を忘れ、今は大名となって美食生活をするから病気になるのだ。それに引きかえ、自分はこんなかつおぶしなのような粗末なものばかりを喰っているから、至ってたっしゃだ」とおくめんもなくいったと伝えられている。

「翁草」の著者神沢杜口は、彦左衛門は人に勝れたる気ままの人にて、無礼過言、敢えてかぞへがたしといえども、理に於いては尤もなりといふべし云々。と高く評した。この生まれつきの無欲活淡さや奇行に富んだ行動が、のちに講談に取り上げられ、いろいろな逸話を生むに至ったが、ほとんど事実ではないといわれる。彦左衛門の墓は東京芝白金町の立行寺にもあるということだが、そこは分骨でという。

 

 

塔頭  心誠院   岸駒の墓はここにあります

関連記事 ➡  岸駒について と住居址

        神沢杜口の墓所・慈眼寺


大文字  妙 法  比叡山  の眺め

2015年12月09日 16時06分35秒 | まち歩き

 

大文字  妙 です

少し 近づきました

 

比叡山  と  大文字  法  の  左から

少し 拡大 しました

 

比叡山に 少し 近づきました

平成27年12月5日  撮影  

 


北大路橋 からの 北西と南東の眺め

2015年12月09日 11時55分08秒 | まち歩き

川上  北西方向になります  12月5日  暖かかったです

 

川下  南東方向になります

散歩 や ランニング などを 楽しんでいるいる人が 写っています

 

 


ラジオ塔  萩児童公園

2015年12月09日 09時54分13秒 | まち歩き

 

ラジオ塔です

 

 

紀元2601年 建之 あります  昭和16年です

 

下の穴

正面 上の穴

 

JOOK  の文字

 

何かまずいことが書かれていたのか 塗り固めてあります

 

近くに謎の石柱がありました

推測  国旗を掲揚していたのではないだろうか

 関連記事 ➔ まとめ014 ラジオ塔 京都で8基

 

                  


鴨川の とんび 河原で食事中の弁当を急降下して取っていくこともあります

2015年12月09日 06時52分11秒 | まち歩き

 

何かを狙っているのでしょう   他の鳥は一斉にいなくなっています

 

首は きょろきょろ させています

 

 

急旋回 か

 

乱舞  1.2.3.4.5.6.・・・・・19.20   

 

さらに 増えていた 1.2.3.4.・・・・・20.21.22.23.24.25  すごいな

  


清浄華院 浄土宗  松平容保の宿舎・新選組も訪れた

2015年12月09日 00時04分30秒 | 寺院

 

墓地は本堂の背後にあり、後陽成・後水尾各天皇の皇子皇女の墓、織田信長に密旨をつたえた立入宗継、信長の皇居造営に協力した山科言継、猿が辻で倒れた姉小路公知および幕末に奔走した玉松操 の墓がある。

 

2013年4月25日   境内で畳供養が行われている。

 

 

 

浄土宗八総大本山の1つ。浄華院ともいう。貞観2年(860)清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建した禁裏内道場に始まる。後に後白河・高倉・後鳥羽の三天皇から帰依を得た法然上人が、この道場を賜り浄土宗寺院に改めたとされる。室町時代には皇室や公家・将軍家の帰依を得、浄土宗の筆頭寺院としての地位を築いたが、応仁の乱により一時荒廃、天正年間に現在地へ移転した。その後も皇室の帰依を受け、境内墓地には東山天皇母君敬法門院の他、皇子・皇女の墓が多数営まれている。

 幕末には、御所警備を担当した会津藩・薩摩藩・徳島藩・熊本藩の宿所の1つとなり、会津藩主で京都守護職となった松平容保が半年間過ごしている。山科言継、姉小路公知などの著名人の墓も多い。寺宝として普悦筆「阿弥陀三尊像」(国宝)や「泣不動縁起」絵巻(重文)がある。大殿には法然上人像を安置、また境内の不動堂には「泣不動縁起」に由来する泣不動尊像を安置する。 京都市

 

 

松林院

松林院は、伏見天皇皇孫清浄華院第8世敬法上人が正親町室町の昭慶門院御所の敷地を賜り、法然上人の遺跡である白川禅房松林坊を移して創建されたと伝える由緒ある寺院である。清浄華院の筆頭塔頭として皇室や公家の帰依を受け、勅願別院とも称された。幕末には御所警備を担当した会津藩が文久3年末から寄宿し、藩主で京都守護職の松平容保公も池田屋事件の寸前まで半年ほどここに逗留した。会津藩の寄宿は慶応3年まで続き、寄宿者の中には後に京都府顧問として活躍する山本覚馬も居たとされる。会津藩預かりであった新選組隊士も容保公に召されて度々ここを訪れたとみられる。昭和以降本坊と兼帯が続き、平成15年になって本坊へ統合した。

現存する旧本堂は大正天皇御大典の饗応所の一部を下賜されたもので、法然上人800年大遠忌にあたって阿弥陀堂に改修された。平成25年4月 大本山 清浄華院

 

 

 

本堂

右 大方丈

石碑

 

 

天明の大火  横死者の墓 と 石柱

 

 

 

天明大火焼亡横死百五十人之墓

花崗岩製 高さ約3メートル 江戸時代 天明8年(1788)

天明8年(1788)正月30日、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の四条川端下ル付近)で発生した火事は、おりからの強風に煽られて鴨川を越え、京都市街の大半を焼き尽くす大火災になった。二条城や御所も類焼し、後世これを「天明の大火」と呼んだ。清浄華院もこの大火で伽藍のほとんどを焼失させてしまったが、同年3月24日から7日間、大火の犠牲者の供養のため、別時念仏と施餓鬼会をとり行った。この五輪塔はその際に建立されたもので、傍らにはその旨を記した石碑も建てられている。「150人」は幕府発表の死者数であるが、実際にはもっと多かったようである。清浄華院の記録には、2600人が焼死したという風聞が記されている。幕末に起きた蛤御門の変(1864)に伴う元治の大火の際にも、この五輪塔の前で天明の大火77回忌を兼ねた犠牲者供養法要が執り行われた。

 

石柱

南面

西面

東面

 

北面

 

墓  東から

西から

 

山王権現社

 

 

本堂

 

篤姫の 曽祖母の墓

実父 忠剛の曽母になる

 

 

十三重塔

 

塔頭  龍泉院

 

河原町通の門に通じる道

 

塔頭  良樹院

 

河原町通に面した 東門

 

東門から 本堂を見る

関連記事  ➡    京都の大火・兵火の歴史

                 新選組 ゆかりの地