アートプラス京めぐり

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紀念碑  日露戦争出征 

2015年12月05日 23時20分44秒 | 石碑

 

明治37年 38年 (1904年、1905年)  戦役 出征者

日露戦争です  修学院尚武義會  明治39年11月 建設  29名の名前が刻されています

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妙心寺塔頭 麟祥院 は 春日局の菩提寺

2015年12月05日 17時06分20秒 | 寺院

 

 

妙心寺塔頭 麟祥院

妙心寺の塔頭で、寛永11年(1634)に徳川三代将軍家光が、乳母である春日局の追福を願って碧翁愚完を開祖とし、木辻菖蒲小路(現在の花園高校付近)に香華所として建立したのが当院の起こりである。幕府より寺領200石を与えられ、歴代住職は黒衣のまま江戸城白書院の出入りを許されたという。明治30年(1897)に本堂・霊屋・庫裡・鎮守等が現在地に移転された。枯山水庭園の奥にある御霊屋は、後水尾天皇が春日局に下賜した仙洞御所の釣殿で、局の逝去後、二条城より移築され、小堀遠州によって局の木像が安置され、御霊屋に改められたものである。方丈には、春日局にゆかりのある海北友松(浅井長政の家臣綱親の子)の息子、友雪によって「雲龍図」「山水図」「瀟湘八景・西湖図」等の水墨画が描かれている。狩野探幽筆の春日局の画をはじめ、手紙、懐剣、朱印状などが今日に伝えられている。京都市

友雪は父友松の亡き後、巷間の絵屋に身をおく境涯となったが、春日局がかつて本能寺の変後、友松夫妻からうけた恩義に報いるため、友雪を将軍家光に引き合わせ、世に出させたという。友雪は腕をふるったに違いない。

 

春日局

京の粟田口に1本の高札が立った。

春日局の本名はおふく。織田信長を本能寺で倒し、三日天下で終わる明智光秀の義弟、斎藤利三の娘として、天正7年(1579)に誕生。利三は近江堅田で捕えられ、6月17日、六条河原で切腹。京都三条河原にその首を晒される。おふく4歳の時であった。やがておふくは、母ほそぼそと暮らし、と京で三条西大納言家に仕えた後、文禄4年(1595)、17歳で母方の親類、小早川秀秋の家老、稲葉正成の後妻になり三男二女を産んだ。長子の正勝は後に小田原8万5千石の城主となっている。秀秋豊臣秀吉の武将として朝鮮出兵などで活躍。正成も従ったが、秀吉没後の関ヶ原の合戦では、石田三成方の西軍につき、家康と対立するものであったが、秀吉の正妻北政所と血を分ける秀秋にとって、秀頼を関白にしようとする淀君より、家康を支持する北政所を慕う。家康に内通した秀秋は、西軍を裏切った。正成は浪々の身となり美濃の国へ。その子だくさんのおふくの母親が夫と子を見捨て乳母を志願した理由ははっきりしない。おふくは京都所司代板倉勝重の推挙で、2代将軍徳川秀忠の長男、竹千代(3代将軍家光)の乳母として江戸城に入る。このいきさつについては、おふくは「粟田口に立つ高札を見て乳母に応募した」とか「京都御所勤めの経験者であったため、推薦された」などあるが、どれが真実かは不明。

家光を3代将軍に、竹千代をわが子のように育てるおふく。正妻お江と対立する。お江は2年後に生まれた2男国松(後の忠長)を3代将軍にと争う。おふくの誘いで駿河から江戸城に入った家康は竹千代を側に呼び、「国松の同席は無用」と下らせる。家康はお江に対しても「国松成人後は、竹千代の家臣として仕えるようにしつけよ」と諭し、おふくの立場は盤石になる。強権のエピソードも多彩で、門限事件(大奥制度の確立のため、局とわかっていても開聞しない門番に従って退去)

寛永6年(1629)9月 紫衣事件(朝廷の勅許であった高僧への紫衣着用を幕府の認可に。怒った後水尾天皇へ元へおふくが伺候、春日局の称号を下賜される) 沢庵和尚らの流罪が言い渡される。

謝金事件(大奥女官への謝金を大老酒井忠勝がカット。局が「上様への献金をなくすとは何事」など数えきれない)

薬を絶ち他界。 寛永20年(1643)9月14日、春日局は65歳で死去。痘瘡にかかった家光の命と引き換えに、薬絶ちを守ったままの最期であったという。麟祥院は、湯島の菩提寺に加えて、京都入りした際の局の香華寺として家光が寛永11年(1634)に創建した。局の御霊屋は、元仙洞女御所御亭。局が後水尾天皇から拝領し、没前まで二条城で能舞台として使われていた。

矢沢山麟祥院は東京都文教区湯島。 寛永元年(1624)、春日局の願いにより家光台命で局の菩提寺として建立。黒谷金界光明寺には、局が建立したといわれる駿河大納言忠長生母・お江の方供養塔、和歌山県の高野山にも局のゆかりの墓石などがある。

 

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石碑  忠成公隠棲地

2015年12月05日 16時59分51秒 | 石碑

忠成公は三条実万(1802~59)の諡号。実万は安政の条約勅許に反対し,島津斉彬(1809~58)らと一橋慶喜(1837~1913)の擁立に尽力し,関白九条尚忠(1798~1871)と対立。安政の大獄で落飾謹慎に処せられ,洛南上津屋村に隠棲し,安政6(1859)年3月27日一乗村のこの地に移った


修学院離宮 

2015年12月05日 07時52分34秒 | 名園

 

この離宮は後水尾上皇のために徳川幕府が造進した山荘で、はじめ修学院の御山荘または御茶屋と称した。上皇は幕府の公家勢力圧迫の政策を不満とし、寛永6年(1629)34歳で退位し、退隠の場として山荘の地を求めてしばしば洛北の地を御幸された。承応4年(1655)修学院村の円照寺で景観に感動され、円照寺を奈良に移し、山荘造営に至った。工事は上皇60歳の明暦2年(1656)頃から開始され、3年後の万治2年(1659)3月にほぼ完成した。はじめ上下2ケ所からなり、上皇自ら設計・監督されたといわれる。上皇はこの山荘を愛され、延宝8年(1680)8月、85歳で崩御されるまでたびたび御幸された。崩御後は荒廃がすすんだ。その後、享保6年(1721)霊元法皇の臨幸によって修理され、文政7年(1824)光格上皇臨幸の際に幕府によって復興された。明治17年(1884)離宮となり、翌18年それまで林丘寺にあった客殿と楽只軒の返還をうけて「中の茶屋」が設けられた。庭園と建物を中心とした上・中・下の3つの茶屋にわかれている。

 

 

入口で

 12月5日 撮影 画像追加   手入れ