アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

葵祭  昔の写真  葵橋で

2015年12月08日 21時26分37秒 | まち歩き

 

葵祭りが華麗なる王朝時代の絵巻そのままの行粧で、昭和初年、木橋であった葵橋を渡っている。大正7年台風で葵橋の一部陥没したので、この鴨川新出町橋を一時葵橋と命名している。この葵祭は、下から仰いで見るのが最も美しく見えるとあって、葵橋付近の河原には見物人が群集したものである。暑いのか日傘を差していますね。

葵 = 仰 いで見る を兼ねているのではないか

 

加茂街道を進む

 

 

向こうの 橋の欄干の間から 河原の人が見えます

現在の橋

 

 

カモ と アオサギ


右書き看板41  場馬 ぎなう 焼蒲 一本日

2015年12月08日 19時43分15秒 | 右書き看板

 明治41年の創業以来切らすことなく継ぎ足しながら代々受け継がれてきた秘伝のタレと目利きされた新鮮な鰻が自慢の鰻専門店

 

 

前回右書き看板 ➡ 右書き看板40  噌味


廬山寺  圓浄宗  紫式部邸宅址

2015年12月08日 08時12分29秒 | 寺院

 

慶光天皇 廬山寺陵  大阪皇陵巡拝会  昭和8年8月 建立

 

薬医門   紫式部邸宅址  平成20年11月  源氏物語千年紀記念

 

薬医門からみた 境内

 

ポスター  庭園の様子

 

駒札

廬山寺(廬山天台講寺)

天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降北に興願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月三日入滅まで、都に下った時の宿坊とされる。良源入滅後、次第相承の本光禅仙上人(嘉元2年・1304寂)が現船岡山の麓に興願金剛院を再興する。一方、台密、戒淨(顕教)等事相伝承した住心覚揄上人(1158~1235)が京都出雲路に仏閣を建て、廬山寺と号す。

廬山寺第3世並びに第5世明導照源上人(1298~1336)が両上人の廬山、興願師跡を伝領し、興願金剛院師跡に廬山寺を統合し、興願を廃し、廬山寺とし、円密戒淨の四宗兼学道場として天台の別院となる。この明導上人、受法はもとより四宗兼学であったが、特に円に精通し、第4世並びに第6世実導仁空上人(1309~88)が密教と共に淨戒二門にも力を注がれ、両上人によって円密戒淨の四宗兼学道場としての一家の密乗を成し、廬山寺流として経軌を根底とした天台秘密乗の教判を開説されたのである。この廬山寺流は実に伝教大師より南北朝時代における天台教学の全貌を知る手鑑と称すべく、真に日本天台の宝庫であると推奨される。このころより寺号を廬山天台講寺と称し、更に第8世明空玉上人が明の永楽2年(1402)、足利義満の命により明に派遣された時、明の唯実上人より中国の廬山にならって日本廬山と公称されて以後、度々文書等では日本廬山寺天台講寺と明記されることがあった。その後、応仁の乱、永禄12年(1569)にも類焼し、その時の再建勧進に「此の地は洛中の叡山、日本の虎渓なり、誰かこれを帰敬せざらん」と述べ、「洛中の叡山」の気概にあふれていた。

天正元年(1573)に現地に移転、宝永5年(1708)と天明8年(1788) 京都の大火で堂舎類焼するが、代々暦朝の帰依厚く、寛政6年(1794)、禁裏、仙洞、女院の御下賜をもって再建されたのが現今の本堂である。

大師堂にえいて毎年2月の節分会に勤修される「追儺式鬼法楽」

「追儺式鬼法楽」は開祖元三大師が宮中で三百日の護摩供を修せられた時に三匹の鬼(赤鬼=貪欲、青鬼=瞋恚(しんい)、黒鬼=愚痴)が出現し、その三鬼を独鈷、三鈷の法器でもって退散させたという故事による。この独特の節分行事は、京都市の冬の代表的行事でもあまた、この地全域が昭和44年、角田文衛博士によって紫式部の邸宅跡であると考証発表されたのである。紫式部の曽祖父にあたる権中納言藤原兼輔(堤中納言)が此の地に邸宅を構えたのが始まりで、「源氏庭」と称する庭に咲きほこる桔梗が美しく、庭園日を醸し出している。紫式部はこの地で育ち、結婚生活を送り、「源氏物語」を執筆したのである。

元三大師良源( 慈恵)

良源延喜12年(912)9月3日、近江国(滋賀県)浅井郡虎姫で生まれる。父は饗場重頼、母は物部憲興の娘月子といい、幼名を日吉丸あるいは観音丸という。延長元年(923)12歳の時仏門に入り理仙大徳に師事する。良源は得度し、正式の僧となる時期目前に来て、師理仙の突然の死に遭遇し、後に伊勢国朝明ぐんの郡領船木良見の尽力により得度を許されたため良見の一字を得て僧名を良源し名乗り、修行を重ねる。良源55歳で第18世天台座主となり叡山の諸堂を復興し、山侶2700人に及び中興の祖と号せられる。その間累進して僧正に任ぜられ、つづいて行基以来の大僧正に任ぜられる。名声は高く当時並ぶ者がなかったといわれる。

後世元三大師という俗称が一般的であるが、摩滅大師(豆大師)、角大師、鬼大師で知られ、また「おみくじ」の創始者として広く知り渡、信仰され親しまれている。

 

大師堂

本堂前の「源氏の庭」には「紫式部邸宅址」の石碑が立っている。

本堂には、恵心僧都の作と伝えられる阿弥陀三尊等が安置されている。そのほか、国宝の慈恵大師自筆遺告状、また、重要文化財として、鎌倉時代の如意輪観音半跏像、後伏見天皇及び正親町天皇の宸翰、法然上人選択集などを蔵し、境内には光格天皇の父閑院宮典仁親王(慶光天皇)陵などがある。良源が修行の邪魔をする悪鬼を退散させたという故事に由来する2月3日の節分会は「鬼の法楽」の名で知られ、悪疫退散を祈願する行事が行われる。

境内から 薬医門を見る

 

鐘楼

 

大師堂南入口

 

 

 

 

墓地への入口

 

墓地には 慶光天皇をはじめ歴代天皇の后妃皇子皇女の墓、中山・中院等の旧堂上公卿の墓、

土佐派の画家住吉如慶・具慶父子、仏師・定朝等の墓がある

 

 

石碑

 

 

墓地と本堂の間の所 

  ここに 雲井の井 の跡があるはずなのだが 気が付かなかった

 

 

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        紫式部 供養塔 千本閻魔堂

       紫式部の娘

       紫式部墓所・小野篁墓所

       雲林院

       寺院東0367  尊勝院  庚申堂

       道標東0111  元三大師 

 


陵墓  慶光天皇 他

2015年12月08日 06時44分56秒 | 陵墓

陵墓は廬山寺の中にあります

慶光天皇陵   

 

寺内の南の端を すすみます

仁考天皇 皇子   〇 宮墓

孝明天皇 皇女  壽萬宮 墓

 

これより 北に  慶光天皇の陵墓  1733~1794  江戸中期の追尊天皇 生前 子の光格天皇が太上天皇の尊号を贈ろうとしたが幕府に拒否された(尊号一件) 90年忌にあたる明治17年 明治天皇によって 追尊された

 

慶光天皇

慶光天皇 妃 成子内親王

東山天皇 後宮新崇賢門院藤原賀子

東山天皇 皇子 直仁親王 、妃脩子

東山天皇 曽孫 美仁親王、妃因子

東山天皇 玄孫 孝仁親王、妃吉子

東山天皇 五世皇孫 致宮

東山天皇 五世皇孫 愛仁親王

光格天皇 皇子 俊宮、猗宮

光格天皇 皇女 多祉宮、治宮

仁考天皇 皇子 胤宮

16人の墓

 

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