今出川堀川 付近 なぜ ここにあるのかは 不明
昔からあるのかもしれません
通路のタイルより以前に石はあった
後から石を持ち込んで設置したのではないだろう
今出川堀川 付近 なぜ ここにあるのかは 不明
昔からあるのかもしれません
通路のタイルより以前に石はあった
後から石を持ち込んで設置したのではないだろう
金福寺(こんぷくじ)
洛西の落柿舎とともに俳諧遺蹟として知られる。貞観6年(864)安恵僧都が慈覚大師円仁の遺志によって創建した。もと天台宗であったが、中世荒廃し、江戸時代の貞享年間(1684~88)円光寺の鉄舟和尚によって再興され、臨済宗南禅寺派の寺に改めた。本堂には聖観音像を本尊とし、脇侍に毘沙門天・不動明王像を安置する。
鉄舟和尚は松尾芭蕉と親交があり、芭蕉はこの地にきて一句を残している。
うき我を さびしがらせよ 閑古鳥
これに因んで鉄舟和尚は一宇を芭蕉庵と名づけた。
その後、安永の頃、与謝蕪村が訪れ、荒廃していた芭蕉庵を再興した。蕪村は晩年、京都に永住したが、しばしば当寺を訪れ、門弟たちとここで句会を催した。その時に使われた文台、硯箱が今も保存されている。蕪村は当寺を墳墓の地とさだめ、天明3年(1783)12月25日、68歳で亡くなった。墓の傍らには、俳人江森月居、青木月斗の墓や画家呉春・呉景文兄弟の墓、寺宝に芭蕉行脚姿の木像や蕪村自筆の画像等がある。毎年12月25日には蕪村忌が行われる。
村山たか女 創建の弁天堂
表門の北にある弁天堂は、明治2年(1869)村山たか女が報恩のために奉納した弁天像を安置する。たか女は井伊大老の開国政策を助けるため、隠密となって安政の大獄に一役買ったが、大老の死後、勤王の浪士に襲われ、三条河原で三日三晩の晒しの刑を受けた。後に助けられ、出家して妙寿と名乗り、文久2年(1862)当寺に入り、明治9年(1876)68歳で亡くなった。墓は近くの円光寺にある。
芭蕉庵 入口
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たか女の墓 ➡ 圓光寺 臨済宗南禅寺派
聖水山と号する浄土真宗(西)本願寺派京都四箇別院の1つ。親鸞上人ゆかりの寺として知られています。この地はもと比叡山三千坊の1つ、養源院のあったところといい、青蓮院で得度した親鸞はここで1年余りにわたって修学し、後に叡山へ上ったと云われ、これに因んで御里坊といわれる。その後、建仁元年(1201)上人が六角堂へ参籠の途次、当院境内の井水に身を清めたといわれる。この由縁で、本願寺9世実如上人のときに復興沙汰。はじめ天台宗に属したがのち禅宗南禅寺や浄土宗十念寺の末寺となり、寛文年間(1661~73)にはその所属をめぐって廃寺にもなったことがある。延宝年間(1673~81)幕府の允許により、再興をみとめられ、真宗養源寺と称し、本願寺別院となった。現本堂は昭和56年の再建。本尊阿弥陀如来像を安置する。
鐘楼
本堂 聖水山 の扁額
大正天皇御手植之松
御聖水
御聖水 と 影向石
聖徳太子影向石
親鸞上人がある夜、夢中に聖徳太子が影向し、上人に生極楽の要文をさずけた。これより上人は他力本願の一流をひろめた。この石はそのときの太子影向石だといわれています。
御聖水
この湧出する水を「ご聖水」と名づけています。その由来は、浄土真宗の御開山 親鸞聖人が比叡の山より、六角堂の救世観音に百日間の参籠をなされた際この地に杖をとめられて、往きにはこの水で心身を清められ、帰りにはしばしご休息の後草履の紐を締めなおされて雲母坂の険路に向かわれたという深いご因縁のある井水です。隣接する影向石と共に聖人の求道時代の消息を伝え、若き日の聖人を偲ばせて戴けます。当寺山号の聖水山もこのことに由来するものです。
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