今回は 衣笠山を目指します。 その途中に仁和寺を通り抜けました。 赤の線が歩いたルート
仁和寺
真言宗御室派の総本山で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。平安時代前期に光孝天皇が創建に着手した後、仁和4年(888)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名づけた。宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊を営み、30余年間修行に専心したため、法皇が御座する室(僧坊)ということから、「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双ヶ岡西麓に仮御所を設けた時期もあった。現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸殿を移した金堂(国宝)をはじめ、御影堂・観音堂・鐘楼・五重塔・経蔵・仁王門などは当時の建物である。仁和寺境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。西門から成就山の麓にかけて、四国の八十八ケ所霊場を縮小した「御室八十八ケ所巡りの霊場」があり、中門の左手には、遅咲きの桜の名所として有名な「御室桜」が見られる。京都市
早朝だったため 散歩ぐらいの人だけでした
仁王門
仁王門から 中門を見る
大玄関への入口 本坊表門
左が 大玄関 右は 皇族御門
勅使門
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八百三
精進料理に欠かせない調味料として支持される柚味噌
愛宕山の南西に、嵯峨水尾と呼ばれる谷沿いの小さな集落がある。水尾は、古くから知られる柚子の産地であり、秋になると、山の斜面に黄色い柚子の実がたわわに実る光景を見ることができる。ここで収穫される上質の柚子を用いた「柚味噌」を専門に製造、販売しているのが、宝永五年(1708年)創業と伝わる八百三。
創業から大正時代まで、八百三は精進料理(仕出し)を生業とし、御所や知恩院をはじめとする社寺に出入りしていた。独自の製法による柚味噌を創案したのは初代・八幡屋三四郎で、以来、精進料理には欠かせない調味料として、八百三の料理に使用されてきたという。やがて、京の名物として柚味噌の評判が高まり、需要も増加したことから、柚味噌を専門に商うようになったとのことである。
八百三の柚味噌は、一子相伝の製法によってつくられる。そのため、詳しいつくり方は明らかにされないが、柚子を味噌に合わせる際、さらに数種類の材料を調合することによって、独特の濃厚な香りや味が醸し出されるという。滋養が高く、自然食品でもあることから、昔からの常連ばかりでなく、若い世代の需要も伸びつつあるとのこと。二百九十余年の歴史を越えて、柚味噌の魅力は衰えることを知らない。
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[南] 明治天皇行幸所上京第廿九組小学【以下埋没】
[北] 昭和十四年三月 京都府
[東] 明治十年六月二十八日 行幸
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。その折5月には下京十八組(修徳)小学校,6月28日には上京二十九組(初音)小学校・下京二十四組(尚徳)小学校の各小学校に上京下京の生徒を集めて授業を視察。
高倉宮趾 公爵鷹司熙通書
[北東] 大正三年八月建之 初音学区 有志者
高倉宮は,平安京左京三条四坊四町にあった後白河天皇の皇子以仁王(1151~80)の御所。高倉小路に面していたため高倉宮と呼ばれた。「以仁王の変」の際,平氏追討の令旨を諸源氏に下した所。
翔びたとう初音 記念碑
京都市立初音中学校が平成5年3月に閉校した際の記念事業の表題である。124年の歴史に幕を閉じるのは断腸の思いであったが、この機を新たな出発と捉え、比翼を伸ばす発展を祈念した言葉である。平安時代後期、以仁王の高倉宮御所はこの地にあった。室町時代に建てられた曇華院は栄枯盛衰の末、明治4年嵯峨に移り、境内の「初音の森」が「初音」の名称の起こりである。初音校は明治2年京都の町衆の力により、14の番組小学校の1つとして柊町にて開校し、明治26年、この地に移転する。初音校は明治天皇御臨幸や大正天皇侍従御差遺等の歴史のある小学校であったが、昭和18年初音国民學校高等科(女子)設置に伴い学童の通学は、南は日影校へ北は竹間校へと分かれた。昭和22年初音中学校となるも生徒減少により冒頭の如く閉校し隣接中学校へ統合、その後京都御池中学校に継承され今日に到る。平成18年4月 京都市教育委員会、初音自治連合会
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