大正時代は銀行の建物だった
山口銀行の京都支店として大正5年(1916)に建てられた。鉄筋コンクリート造2階建て。
設計は辰野・片岡建築事務所。山口銀行が撤退した後、北国銀行京都支店として使われていたが、
現在はレトロな雰囲気を生かし、喫茶・レストランが営まれている。
大正時代は銀行の建物だった
山口銀行の京都支店として大正5年(1916)に建てられた。鉄筋コンクリート造2階建て。
設計は辰野・片岡建築事務所。山口銀行が撤退した後、北国銀行京都支店として使われていたが、
現在はレトロな雰囲気を生かし、喫茶・レストランが営まれている。
拝観入口
曼殊院門跡
延暦年間(782~802)、最澄が比叡山に建立した一坊を起こりとする天台宗の寺院で、青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂と並ぶ天台宗五箇室門跡の一つに数えられる。門跡とは皇族や摂関家の子弟が代々門主となる寺院のことで、天仁年間(1108~10)8世忠尋僧正のときに曼殊院と改めた。当寺では明応4年(1495)に、伏見宮貞常親王の子、慈運大僧正が入手したことに始まる。初代門主の是算国師が菅原家の出身であったことから、菅原道真を祭神とする北野天満宮との関係が深く、平安時代以降、明治維新に至るまで、曼殊院門主は北野天満宮の別当職を歴任した。数度の移転を経た後、天台座主(天台宗最高地位)を務めた良尚法親王により、江戸初期の明暦2年(1656)に現在地に移された。良尚法親王は桂離宮を造った八条宮智仁親王の子で父宮に似て、茶道、華道、書道、造園等に優れ大書院や小書院(ともに重要文化財)の棚や欄間、金具など、建築物や庭園の随所にその美意識が反映されている。表門、勅使門ともいい細部にわたって渦や唐草などの桃山風の彫刻が見られる。大玄関内部には
狩野永徳筆と伝える「竹虎図」11面、岸駒筆の「孔雀図」の襖絵がある。
渡り廊下
枯山水庭園
優雅な枯山水庭園は鶴島には樹齢400年におよぶという五葉の松があり、その根元には曼殊院型とよばれるキリシタン灯籠があり。深山渓谷と海洋の景色を巧みにあらわしている。国の名勝に指定されている
杉戸の引手には巻物・扇子・瓢箪・矢などの金具が使われている。桂離宮と似ている。
釘隠し 富士山の形になっています
この向こうは 八窓軒の茶室
小書院の北側には、8つの窓を持つ明るい茶室、八窓軒(重要文化財)がある。「曼殊院棚」と呼ばれるしょうしゃな違い棚がある。
谷崎潤一郎氏 寄贈の 鐘
黄不動
寺宝として「黄不動」の名で知られる不動明王像(国宝)を蔵するが、現在は京都国立博物館に寄託している。「古今和歌集」など多数ある。京都市
三大不動、青蓮院の青不動、高野山の赤不動と共に三大不動といわれる。承和5年(838)円珍(後の智証大師)が25歳の時洞窟にこもって修業していると金色の不動さんが現れ「私を信ずる者は助けよう」といわれました。円珍はさっそくその姿を絵師に描かせたと伝えます。息災延命、福徳増益、国家安泰に霊験あらたかと信仰されてきました
本堂の欄間 卍崩の欄間
大書院(本堂)の仏間には本尊の阿弥陀如来立像が安置され、床には慈恵大師坐像を安置する。
勅使門前の紅葉
平成27年12月5日 撮影
石鳥居 平成12年(2000)2月 の建立
音羽川 この上流は 雲母坂(きららざか) を通って 比叡山への道
「不動坂」ともいわれるのは、登り口近くに不動明王を祀った雲母寺があったからで、「勅使坂」「表坂」(おもてさか)ともよばれ、昔は朝廷より延暦寺に勅使参向のさいには、この坂道を利用された。古来、比叡山への最短路としてもっとも利用されたが、道幅は狭く険しく、今は利用する人は少ない。
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鐘楼門には解脱山と掲げられている
解脱山と号する臨済宗大徳寺派の寺、寛永年間(1624~44)清巌和尚の創建といわれ、本堂には本尊釈迦如来像を安置し、脇壇には円通観音像や夢見大黒天像を安置する。
阿弥陀・地蔵石仏 高さ1.7m、1.3m 鎌倉時代後期の写実性に富んだ石仏、もと修学院離宮の田圃のなかにあったのを移したと伝える。
雲母坂石仏 高さ65㎝、80㎝ 背面に「大治元年(1126)5月8日」の銘がある。もと比叡山へ登る雲母坂にあったのを昭和52年(1977)に移したと伝える。
他に鎌倉時代から室町時代におよぶ石仏が多数ある。
重要文化財
総丹塗り、桧皮葺の三重塔(江戸時代)で泰産寺と号し、千手観音像を安置する。寺伝によれば光明皇后は当観音に祈って孝謙天皇を安産され、その報恩のために建てられたという。一説には桓武天皇の宮人坂上春子(田村麿女)の本願にて、皇子葛井親王の生誕を報賽して建立されたものといわれる。このような縁起により、後世女人安産祈願の信仰がうまれ、世に子安観音とあがめられ、洛陽観音第14番札所となった。
ここは 長刀鉾保存会 この建物に 長刀鉾が分解されてしまってある
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ポスター 前回の記事 ➡ ポスター0060 聖護院 特別公開
石鳥居
赤山禅院 天台宗
平安時代の仁和4年(888)に天台座主(延暦寺の住職)安慧が、師の慈覚大師円仁の遺命によって比叡山東麓の日吉神社とともに天台の鎮守神として創建した天台宗の寺院である。本尊の赤山明神は、慈覚大師が中国の赤山にある泰山府君(陰陽道祖神)を勧請したものので、御神体は、毘沙門天に似た武将を象る神像、延命富貴の神とされている。後水尾上皇の修学院離宮御幸の際には、上皇より社殿の修築及び赤山大明神の勅額を賜った。拝殿、地蔵堂、弁天堂、社務所、末社等がある。不動堂はもと雲母寺にあった不動尊を祀る。この地は、京都の特に御所の東北表鬼門に当たることから、方除けの神として人々の崇敬を集めている。拝殿と水屋の屋根にすわっているサルの像は、「災難がさる」といわれ参詣者の心をなごませている。木彫のサルは京都御所の築地東北角とこの赤山にあって、たがいに向き合っています。また、赤山明神の祭日に当たる5日に当院に参詣して懸取に回ると、よく集金ができるといわれ、商人たちの信仰も厚く、このことから「5日払い」といわれる商慣習ができたと伝えられている。閑静なこと地には、松や楓が多く、秋には紅葉の名所として多くの人々でにぎわう。別名「もみじ寺」 京都市
福禄寿殿には京都七福神めぐりの1つとされる福禄寿神を祀っている。
寺合標 大正15年11月 建立 是より 六町 が 一町に 彫ったところが埋められ 訂正されている
ひょっとして この 寺号標 場所を移転したかもしれない
我邦尚歯会発祥之地 昭和51年3月18日 建立
十六羅漢
地蔵堂
赤山大明神
陰陽道祖神
皇城表鬼門
弁財天堂
雲母不動堂
名物住職、叡南覚照大阿闍梨も、千日回峰の701日目から800日目までの赤山苦行で、真夜中にこの険しい行者道を百日間下り、赤山明神にお参りした。仲秋の名月の日のへちま加持がハイライト。千日回峰行者の大阿闍梨が護摩をたき、祈願の札とへちまのおつゆを三年続けていただけば、ぜんそくを封じることができるという行事。阿闍梨・内海俊照師は叡南覚照師の弟子にあたる人です
拝殿 屋根の上にサルが守っています
狛犬 お尻を持ち上げています
撮影場所が確保できなかったため 後ろから撮影
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