アートプラス京めぐり

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時代祭行列  江戸時代婦人列  大田垣蓮月

2020年10月23日 17時08分25秒 | まち歩き

大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。

尼僧の姿ではない。

大田垣の姓は、花街・三本木の生母と別れ、養女となった知恩院寺侍の家の姓です。実の父は津藩主分家の藤堂金七郎と伝える。養女となった大田垣家では何不自由のない生活だった。

和歌など諸教養のほかなぎなた、剣術、柔術など武芸も身につけている。およそ10年の勤めの後最初の結婚をする。が、長男鉄太郎は生後20日ばかりで死亡した。それに長女・次女も生まれてはすぐに死亡した。そして夫・望古との関係も破局する。

5年後1819年(文政2年)、28歳の誠は、彦根藩家中の石川重二郎と再婚した。だが、夫は結婚4年後に病に亡くなる。2年後、7歳になっていた娘にも先立たれてしまう。

やがて誠は剃髪し蓮月を名乗った。幼いころに身につけた教養が役立った。主な収入源は和歌を歌いこんだ陶器や短冊、画賛だったといわれる。

陶器は「蓮月焼」とまでいわれ、大ヒットする。引っ越しは生涯30回を超えると言われています。一方で、多くの文人や勤王の志士たちとの交流も生み、作家蓮月尼の名声を広めた。

京都市北区にある神光院は蓮月尼の終の棲家、蓮月庵があります。ここに約10年住み、1876年(明治8年)85歳の生涯を終えた。

 

関連記事 ⇒ 身内をすべて失った女性 太田垣蓮月 美人で陶器・「蓮月焼」が人気になった

      

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まち歩き中1401 京の通り・富小路通 NO62  徳正寺

2020年10月23日 06時34分20秒 | 寺院

慶長7年(1602)、二条城の造営にともなって移転してきた。江戸時代、秀吉の「御陣太鼓」をもつことで大いに知られた。

町名の由来になった徳正寺(とくしょうじ) 独創的な茶室「矩庵」がある。 真宗大谷派。本尊は釈迦如来像。

 

 

関連記事 ⇒ 寺院下0034  徳正寺  真宗大谷派

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時代祭行列  江戸時代婦人列  和宮

2020年10月22日 05時56分45秒 | まち歩き

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉- 1877年〈明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第8皇女。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗った。

「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。孝明天皇の異母妹。明治天皇の叔母にあたる。

孝明天皇(こうめいてんのう)の妹で、5才のときに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約します。
しかし、幕府の公武合体(こうぶがったい)策により、1862年、16才で同じ年の第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚することになり、京都を離れて江戸城大奥に入ります。
家茂と仲良く暮らし始めた翌年から、家茂はしばしば上洛する(天皇に会うため京都に行く)ことになり、家茂と離れて過ごすことが多くなりました。

病気の家茂が三度目の上洛をした際は、和宮は心配して何度もお参りをし、京都に手紙や贈り物をしますが、1866年、家茂は病死してしまいます。僅か20歳でした。
家茂の死後、和宮の下に、家茂からのお土産の西陣織が届きます。

家茂の死後、和宮は出家して「静寛院(せいかんいん)」と名乗ります。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)中には朝廷に手紙を送り、天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)と共に、徳川家の存続を訴えました。江戸城開城後は、京都に戻りますが、再び東京で暮らすようになり、1877年、病気のため32歳の若さでその生涯を終えます

関連記事 ⇒ 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  中山忠能(ただやす)

       寺院八幡0659 水月菴

       史跡左036  岩倉具視 旧邸 

       石碑上0120 京都御苑内 貽範碑

       祠下005  花咲稲荷神社  松永貞徳の邸にあった鎮守社

       神社中0007 西院 春日神社  落ち着いた 雰囲気でした 

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まち歩き中1400 京の通り・富小路通 NO61 町名・徳正寺町

2020年10月21日 06時36分49秒 | まち歩き

町名 「寺の字が付く町名」 京都には 百近くある

 

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寺院笠置0729 笠置寺 千手窟  東大寺・お水取り

2020年10月20日 17時38分11秒 | 寺院

 

千手窟

「笠置の龍穴」とも呼ばれ、社には龍神を祀る。天平勝宝3年(751)「東大寺 実忠和尚、ここより未未仏 弥勒菩薩の住する世界、都率天に至り、天乗の行ずる修法を伝授され人間界に移した」と縁起に記される。

11面観音悔遇行発祥の場、仏の世界への入り口である。実忠和尚、天平勝宝4年(752)、笠置寺大内に正月堂を建立され天乗より伝授された行法を修法。和尚により同年2月、東大寺に二月堂が建立され、この行法が修された。

これが、今日まで続く二月堂の悔遇行(通称お水取り)である。

゛悔遇゛とは我々が知らず知らずに犯す罪について11面観音の宝前において懺悔いることである。

ちなみに東大寺山内には、二月堂・三月堂・四月堂があるが、正月堂はない。実忠和尚建立の正月堂は、ここ笠置寺にある。

千手窟

1200年来、笠置寺の修行場であり二月堂のお水取りの行法も実忠和尚がこの修行場で行中感得されたものである。東大寺大仏殿建立の用材は木津川を利用し奈良へ送る計画をたてたが日照りつづきで水量少なく計画通り大仏殿の建立があやぶくなったとき実忠和尚がこの場で雨乞いの修法をおこない大雨を降らせ予定通り大仏殿を完成させたと伝う。この故事から以後大仏殿の修理の折りは必ずこの場で無事完成を願っての祈願法要が執り行われたという。

 

 

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寺院笠置0730 笠置寺 伝 虚空蔵磨崖仏

2020年10月20日 17時37分11秒 | 寺院

 

 

 

 

 

伝 虚空蔵磨崖仏

寺伝では弘仁年間(810~824)弘法大師がこの石にのぼり求聞寺法を修し一夜にして彫刻せし虚空蔵菩薩といわれる。

彫刻の様式から中国山西省雲南の磨崖仏に相通じるものがあるところから本尊弥勒磨崖仏と同様奈良時代の渡来人の作と考えられる。先年拓本にとり8m×10mの大掛軸が出来た。

おそらく拓本の掛軸としては最大だろう。

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時代祭行列  徳川城使上洛列   

2020年10月20日 06時17分35秒 | まち歩き

 

 

徳川幕府は、朝廷の大礼などの大切な儀式や年始などの際には必ず城使を上洛させ、皇室に対し礼を厚くしていました。城使には親藩・譜代の諸侯が選ばれ、ことにご即位の大礼には将軍家名代が多数の従者をしたがえ、その服装器具などは非常に華美なものでした。
 本列は普通の場合を模したもので、城使は乗物(本列では騎馬になっています)、目附頭以上の者は騎馬。乗物の駕籠は幕末当時の形式をとったものです。先頭の槍持、傘持、挾箱持の「ヒーサー」の掛け声や動作は当時の面影を偲ばせてくれます。

参勤交代の大名行列は墨染から藤森神社の南鳥居の前を進み、西寺町、谷口町を経て山科の勧修寺前に出ます。そして、山科川を渡り、小野随心院を北に折れて追分けへと大津に向かう道が定められていました。京の町中は通っていません

大名行列は伏見街道をまっすく北へ進んで京の町へ入ることは出来なかった。幕府が大名と天皇の接触を避けさせるためだった。西国の大名は、墨染で伏見街道に入るが、すぐに道を東にとって現在の京都教育大学南門の通りを東に向かい、この西福寺のある場所で左折し北へ向かい就成院前を通って、旧筆坂(大亀谷東久宝寺町)、そして谷口町へ出て、現在の大岩街道を勧修寺の方へ向かった。

これとは別に 徳川幕府は、朝廷の大礼などの大切な儀式や年始などの際には必ず城使を上洛させ、皇室に対し礼を厚くしていました。城使には親藩・譜代の諸侯が選ばれ、ことにご即位の大礼には将軍家名代が多数の従者をしたがえ、その服装器具などは非常に華美なものでした。
 本列は普通の場合を模したもので、城使は乗物(本列では騎馬になっています)、目附頭以上の者は騎馬。乗物の駕籠は幕末当時の形式をとったものです。先頭の槍持、傘持、挾箱持の「ヒーサー」の掛け声や動作は当時の面影を偲ばせてくれます。

 

 

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ポスター0138 仮面展  朏(みかづき)健之助氏のコレクション

2020年10月19日 17時33分25秒 | 掲示ポスター

昭和5年(1930)頃から、平成2年(1990)に亡くなるまで生涯かけて郷土玩具の蒐集をした人。

 

ポスター 前回の記事 ⇒ ポスター0137 佐竹本 三十六歌仙 

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  平野国臣

2020年10月19日 07時56分16秒 | まち歩き

攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。

 

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          石碑中0019-12 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

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まち歩き中1399 京の通り・富小路通 NO60 四条下ル 付近

2020年10月18日 17時11分53秒 | まち歩き

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  中山忠能(ただやす)

2020年10月18日 06時40分06秒 | まち歩き

中山忠能(ただやす)

天保11年(1840年)、参議となる。この年亡くなった光格上皇に対する諡号復帰の問題で、1人反対論を唱えて注目される(ただし、この反対論は諡号復活に対してではなく、退位した天皇に「天皇号」を贈ることに対しての疑問であり、在位中の天皇が崩御した場合に限るべきというものであった)。

弘化4年(1847年)、権大納言となる。嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して通商を求めた際には攘夷論を主張し、条約締結を巡り、関白の九条尚忠を批判する。安政5年(1858年)、江戸幕府老中の堀田正睦が上洛して条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共にこれに反対した。

その後、議奏となる。公武合体派の公家として万延元年(1860年)、孝明天皇から和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられた。その経緯から翌文久元年(1861年)、和宮の江戸下向に随行するが、これが一部の過激な尊皇攘夷派からの憤激を生み、文久3年(1863年)に議奏を辞職して失脚した。また同年には、子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。

元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能孝明天皇の怒りを買って処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると復帰を許される。

慶応3年(1867年)、中御門経之正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当。明治21年(1888年)、80歳で薨去。薨去直前に大勲位菊花大綬章を受章した。

 

 

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       陵墓伏013  伏見桃山陵  明治天皇・昭憲皇后 陵墓

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  三条実萬

2020年10月17日 06時11分48秒 | まち歩き

さんじょう さねつむ、三條實萬

嘉永元年(1848年)に武家伝奏となり、たびたび江戸に下って対米政策について江戸幕府と交渉した。安政5年(1858年)には日米修好通商条約への勅許を巡り関白・九条尚忠と対立して、3月7日には左大臣・近衛忠煕と共に参内停止を命じられる。これに激怒した孝明天皇によって2日後に右大臣・鷹司輔煕と権大納言・二条斉敬を勅使として近衛・三条両邸に派遣して両名に参内の勅命を下した。これは長年朝廷の全権を握っていた摂関家が勅使となり、政治的に非力であった清華家出身の三条を出仕させるという公家社会始まって以来の出来事として衝撃を与えた。

安政6年(1859年)4月に安政の大獄で謹慎の処分を受け、出家して澹空と号した。同年、病気危篤となり、従一位に叙され、10月に謹慎していた一条寺村で薨去。享年58。薨後の文久2年(1862年)に右大臣が追贈され、明治2年(1869年)には明治天皇より「忠成公」の諡を与えた。さらに、1899年(明治32年)には贈正一位に追陞された。三条実美の父

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まち歩き中1398 京の通り・富小路通 NO59 四条通

2020年10月16日 17時31分33秒 | まち歩き

2019年10月26日 撮影

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寺院笠置0728  笠置寺 弥勒磨崖仏

2020年10月16日 15時55分19秒 | 寺院

 

 

本尊弥勒磨崖仏

笠置寺本尊仏

古来より天人彫刻50尺の仏といわれているが調査の結果では奈良時代中期には彫刻されていたようで天人とは中国大陸から来た人たちのようである。

磨崖仏前の礼堂が創建から三度火災にあいその都度本尊磨崖仏も火をあび彫刻された表面は焼け崩れてしまった。しかし、平成22年秋特殊カメラとその技術で残った線を探したところいたるところから最初の彫刻線がみつかりその線をつなぎ合わせ完成されたのが堂内の画像で1300年前の本尊50尺の弥勒磨崖仏のお姿である。

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