大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。
尼僧の姿ではない。
大田垣の姓は、花街・三本木の生母と別れ、養女となった知恩院寺侍の家の姓です。実の父は津藩主分家の藤堂金七郎と伝える。養女となった大田垣家では何不自由のない生活だった。
和歌など諸教養のほかなぎなた、剣術、柔術など武芸も身につけている。およそ10年の勤めの後最初の結婚をする。が、長男鉄太郎は生後20日ばかりで死亡した。それに長女・次女も生まれてはすぐに死亡した。そして夫・望古との関係も破局する。
5年後1819年(文政2年)、28歳の誠は、彦根藩家中の石川重二郎と再婚した。だが、夫は結婚4年後に病に亡くなる。2年後、7歳になっていた娘にも先立たれてしまう。
やがて誠は剃髪し蓮月を名乗った。幼いころに身につけた教養が役立った。主な収入源は和歌を歌いこんだ陶器や短冊、画賛だったといわれる。
陶器は「蓮月焼」とまでいわれ、大ヒットする。引っ越しは生涯30回を超えると言われています。一方で、多くの文人や勤王の志士たちとの交流も生み、作家蓮月尼の名声を広めた。
京都市北区にある神光院は蓮月尼の終の棲家、蓮月庵があります。ここに約10年住み、1876年(明治8年)85歳の生涯を終えた。
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