アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  姉小路公知 

2020年10月16日 07時34分03秒 | まち歩き

姉小路公知

天保10年12月25日(1840年1月9日)、公卿・姉小路公前の子として誕生。安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美と共に江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。

のちに国事参政となり、三条と共に攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)5月20日の夜半、深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で3人の刺客に襲われる。扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて卒去(朔平門外の変)。享年25(満23歳没)。墓所は京都市上京区の清浄華院。

 

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          清浄華院 浄土宗  松平容保の宿舎・新選組も訪れた

          梨木神社  境内一部がマンションになる

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石碑0229 日露戦没使者鎮霊 

2020年10月15日 18時10分38秒 | まち歩き

 

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  近衛忠煕

2020年10月15日 07時13分17秒 | まち歩き

左大臣・近衛基前の長男として生まれた。安政3年(1856年)には島津氏の篤姫(天璋院)を養女としている。

安政4年(1857年)、左大臣となるが将軍継嗣問題で一橋派に属し戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し落飾謹慎する。

文久2年(1862年)に復帰して九条尚忠に代わり関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞し、鷹司輔煕が後任となった。東京奠都後、ほとんどの公家が東京に移住した後も京都に居住、孫の篤麿を引き取り養育に専念した。明治天皇の度重なる要請に折れ東京に移ったのは、子・忠房没後の明治11年(1878年)のことである。

死後6年経った明治37年(1904年)に正一位を追叙された。江戸幕府の征夷大将軍は代々が死後正一位を追贈されているが、最後の将軍・徳川慶喜は従一位に留め置かれており、また忠煕の後に関白・摂政を務めた各人も何れも従一位止まりであり、2015年の時点では、正一位に昇った人物の中では最も後年まで存命であった人物である。なお、存命中に正一位に叙された最後の人物は三条実美(最後の太政大臣)、最後に没後追叙として正一位に叙せられたのは織田信長(死後300年以上経過した後)である。

 

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まち歩き中1397 京の通り・富小路通 NO58 民家

2020年10月14日 17時34分44秒 | まち歩き

 

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  吉田 松陰

2020年10月14日 06時14分19秒 | まち歩き

ペリーが来た嘉永6(1953)年10月、旅の途中京都に立寄り、勤王思想体現のため御所を遥拝しています。その時、松陰が詠んだといわれる「吉田松陰先生山河襟帯詩碑」が京都府立図書館敷地内に立っています。

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まち歩き中1396 京の通り・富小路通 NO57 ばったり床几 西大文字町

2020年10月13日 17時46分08秒 | まち歩き

 

西大文字町  大文字町 は 他の区にもある。 西大文字町は伏見区にもある。

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  橋本 左内

2020年10月13日 06時32分38秒 | まち歩き


1834〜59
幕末の志士
福井藩士。号は景岳。藩医の家に生まれ,大坂で緒方洪庵に医学・蘭学を学ぶ。将軍継嗣問題がおこると,藩主松平慶永 (よしなが) の命によって,一橋(徳川)慶喜 (よしのぶ) を立てるため京都で運動した。統一国家の樹立や日露提携論を唱えるなど,若年にして名声を得た。1858年安政の大獄で捕らえられ,江戸小塚原で刑死。

 

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       福井藩邸 跡  7月1日 藩士追加

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まち歩き中1395 京の通り・富小路通 NO56 乾物屋

2020年10月12日 17時38分36秒 | まち歩き

昭和10年8月先代社長島本伝二、乾物問屋を開業とある。

 

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  梅田 雲浜

2020年10月12日 06時25分16秒 | まち歩き

文化12年6月7日(1815年7月13日)、小浜藩士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。

はじめ藩校・順造館、天保元年(1830年)には藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んだ。その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、大津に湖南塾を開いた。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。ところが、嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。これが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった。

捕縛後は京都から江戸に送られたが、取調べでも箒尻(ほうきじり)で何度も打たれる拷問においても何一つ口を割らず、安政6年9月14日(1859年10月9日)に獄中で病死した。享年45。流行のコレラに罹ったというが、拷問での傷の悪化による死因説もある。

雲浜の墓は、全国にまたがり、海禅寺(東京都台東区)・安祥院(京都市東山区)・松源寺(福井県小浜市)に置かれている。安祥院近くにある京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられており、今も雲浜を慕い訪れる人が多いという。

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 葉山馬頭観世音 一燈寺 ここに西郷隆盛が梅田雲浜に遇いに来た

梅田雲浜 邸址 安政大獄が始まると真っ先に捕えられた

間部詮勝寓居跡

大福寺  大福帳 梅田雲浜 寓居

女紅場  我が国最初の女学校

橋本左内 寓居 跡

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 頼 三樹三郎 

2020年10月11日 12時28分03秒 | 教育

1825年、儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生した。母は近江商人・疋田藤右衛門の四女・梨影(りえ)。

父・山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。

1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。梁川星巌がコレラで亡くなる際、三樹三郎がその最期を看取ったという。同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の阿部家福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。享年35。墓は京都円山公園の裏にある長楽寺と松蔭神社にある。

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       橋本左内 寓居 跡

       

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まち歩き中1394 京の通り・富小路通 NO55 錦小路通

2020年10月11日 08時51分16秒 | まち歩き

2019年10月26日 撮影

南方向を見る

錦小路通

錦小路通

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まち歩き中1393 京の通り・富小路通 NO54 間口の広い家屋 

2020年10月10日 17時52分03秒 | まち歩き

約築100年の町屋をリノベーション。 最先端のクラフトビールを生み出す醸造所を併設した、“和クラフト”料理が楽しめる「SPRING VALLEY BREWERY KYOTO

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時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 吉村 寅太郎

2020年10月10日 13時17分25秒 | まち歩き

吉村 虎太郎は、幕末の土佐藩出身の志士。諱は重郷。一般には「寅太郎」と記されることが多い。 土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画に参加すべく脱藩するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。

木屋町三条上る35番路地は、幕末の勤王志士吉村寅太郎が文久3年(1863)に仮住まいをしていた場所である。このあたりは、高瀬川の舟運によってにぎわい、幕末の志士たちの絶好のかくれ家となったところで、付近に武市(たけち)瑞山、佐久間象山、桂小五郎などの寓居跡があり、池田屋もほど近い。  吉村寅太郎は土佐(高知県)の人で、庄屋の生まれ、武市半平太の教えをうけて勤王党に加わり、文久2年には土佐を抜けだして入洛、尊王攘夷運動に加わった。寺田屋事件で一たん帰国したが、文久3年3月再び上洛してここに住み、尊王攘夷運動の中心の一人として活躍し、各藩の志士を集めて討幕軍を組織した。同年8月、中山忠光らと天誅組を起して、大和五条(現・奈良県五条市)の幕府代官所を占領した。しかし、京都政界の変化によって討伐をうけ、9月16日、大和鷲家口で戦死した。時に年27才。

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蔵のある風景中0412  京の通り・富小路通 NO53

2020年10月10日 08時57分33秒 | 蔵のある風景

 

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寺院笠置0727 笠置寺 十三重石塔・重要文化財  五輪石塔

2020年10月09日 17時33分15秒 | 寺院

 

鎌倉時代・室町時代 重要文化財

無銘のため建立年代ははっきりしない。寺伝によるともと木造であったが、元弘の乱によって焼失し、乱による戦死者の霊を供養するために石造に改めたという。

 

この五輪石塔は、元弘の役に戦死した石川義純および錦織判官俊政の墓と伝えられる。

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院笠置0726 笠置寺 笠置石

 

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