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見えないものへの敬意

2015-04-14 10:51:00 | 国を常しえに立てます
東大寺の南大門や大仏殿に油がまかれたといいます。
その他にも、金峯山寺や当麻寺などあちこちに被害は広がっています。
これは本当に、まったく想像もつかないことです。
理解に苦しむというより、ただ唖然とするばかりです。
ここまで来ると、正直、怒りというよりも恐怖しかありません。
想像するだけで背筋がゾっとし、鳥肌が立ちます。

様々な神様がおられますが、中には本当に怖い神様もいらっしゃいます。
近づことすら怖い存在なのに、何故そんなことができるのでしょうか。
知らないとはいえ、本当に怖ろしいことです。

確かに、天地自然は全てをありのままに受け入れます。
しかし、我が子を思う大御親の心であればこそ、しっかりと教え伝えることもあります。
天地の心とは、私心や我執のない透き通った心です。
透明な心のお叱りほど怖いものはありません。

もちろん、お陰さまに気がつかなかったり、感謝をしないという程度ならば、叱られるようなことも
ないでしょう。
ただ、多くのお陰さまに対して唾を吐くようなことをすると、話が全く変わってきます。
自分一人で生きているという奢りが極まりすぎているからです。

犯人にはそのつもりはなくて、単なる愉快犯かもしれませんし、この国の歴史や文化が嫌いな人
かもしれません。
そのような形でしか他者と関われないというのは、ある意味、孤独とも言えます。

しかし、たとえ理由は何であれ、結果的にお陰さまに対する不敬行為となってしまっていることが
怖いのです。
ほんのわずかでも畏れや謙虚さがあれば、行動を起こすにしても、そこには向かわなかったはず
です。

天地は、こちらの心次第で、色々な姿となって現れます。
それは私たち自身の心の鏡でもあるわけです。
優しさをもって接するのも、厳しさをもって接するのも、元は同じ心です。

古人は、人々の心を救う(=軽やかにする)ために、様々な存在を求めました。

そして、地蔵菩薩や弥勒菩薩のような優しい存在では末法の世の人々の心には届かないとして、
最後に全身が真っ青で怒髪天を衝く憤怒の形相の怖ろしい存在が現れたのでした。

今回の犯罪は、まさにこの存在に触れてしまいました。
現れた経緯からしてそうなのですから、温かく見守るなんてことはありません。

報道があった直後、ほんの少しそこに心を向けただけでも、半端なものではありませんでした。
とても言葉には表現できません。
ただ怖ろしいとしか言いようがないものです。

見えない存在や、お陰さまに対して、必要以上に頭を下げて恐れおののくことはないと思いますが、
謙虚な姿勢をもって敬意を表するのは人として当たり前のことだと思います。
これは相手が人間であっても同じことです。

身近なところでは、神社仏閣への参拝もそうです。
ワイワイ軽やかな気持ちで行くのはいいと思いますが、我欲のおすがりはホドホドがいいということ
です。
自分の我利我利で拝み倒してしまうと、それは不敬行為でしかありません。

またパワースポットだからといって、何でもかんでも行きまくるのは、色々な理由で危険です。
本来パワースポットというのは、自分の心がフルオープンになって我執の呪縛から解きはなたれる
場所です。
ですから、どこがパワースポットになるかは人によってマチマチなのです。
あちこち食い散らかしてしまうと、我執が解かれるどころか、余計にパワーアップさせるだけです。
ましてや、この世もあの世も色々な存在がいるわけです。
人に仇なす存在を、祀ることによって抑えていることもあります。
あるいは、人の我欲に狙いを定めて、利子付き借金として目先のご利益を叶える存在も居ます。

何を心地よく感じるかは、ひたすら自分を信じることです。
知識や情報に頼りすぎるのはよくありません。
それは、その道の有名人が言ったものであっても同じです。
頭でなく、自分の身体感覚、肌の感覚でキャッチするのがいいのです。

すると、そこへ行く前から、それが合う場所か、合わない場所か感じるようになると思います。
そして頭で考えるより先に、次はどの場所へ行くのか、感覚の方からやってくるかもしれません。

我欲や我執というのは、知らず知らずのうちに、見えないものやお陰さまに対して不敬なことをして
しまいます。
といって、それを常に律しようとすると、かえって自分を縛ることになってしまうので、時々ハタと
冷静に振り返るくらいが丁度いいと思います。

逆に、敬いすぎて中心がそちらに行ってしまい、自分を失ってしまうのもいけません。
自分の中心に柱を立てて、天地自然に感謝をしていれば、今ここがパワースポットになります。

一人一人が自分の中心に柱を立てることが、この国、この世界に柱を立てることになります。
柱とはエネルギーであり、天地との紐帯です。

見えるものへの敬意というものは、ともすれば表面的なものになりかねません。
しかし、見えないものへの敬意は、決して表面的なものにはなりません。
見えないということで、必然的に心は外ではなく自分の内側、つまり自分の魂に向くからです。

見えれば信じるとか、見えるといいなぁ、ということではないのです。
見えないからこそ、その心が本物になります。
そして、それは自分を信じることであり、自分のすべてを受け入れることに繋がっていくのです。




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