現代の私たちは、どれだけ進化しているのでしょうか。
さすがに100年くらい前の人たちとは、それほど違わないような気がします。
でも、それが江戸時代となると何だかモヤモヤっとしてきます。
「江戸時代って、あのチョンマゲの?それなら少しくらいは賢くなっているんでは・・・」と。
ましてや弥生時代、縄文時代ともなると、それはもう自信をもって断言してしまうかもしれません。
文明の進んだ華やかな景色に囲まれていると、何となく私たち自身が進化しているように錯覚して
しまいます。
でも、今ここで着ぐるみ剥がされて無人島に放り出されたら、どうなのかということです。
あるいは、このまま縄文時代に放り出されたら、私たちは何ができるのでしょうか。
そこは今どきの素材も道具もない世界です。
必死に知恵を絞り出したところで出来ることといえば、木や枝で家を作ったり、粘土で食器を焼いたり、
ツタや蔓で服を編むくらいではないでしょうか。
そう、結局は同じなのです。
機械も道具も無いところでは、土器を作ったり、竪穴式住居を作ったりするのが精一杯なのです。
そしてその精一杯と思っていることでさえ、いざ、やるとなると、とてつもなく難しいわけです。
ですから、その時代の人たちより、私たちがまさっているということでは決してないのです。
ここのところを、つい私たちは勘違いしてしまいます。
何千年どころか、おそらくこの何万年、私たち人間の基本スペックは、何ひとつ変わっていません。
石器時代の人と、私たち現代人との違いは、ただ知識の違いでしかないのです。
その知識にしても、自力で獲得したものではなく、生まれた時すでに用意されていた借りもので
しかありません。
そして知識ではなく、それが知恵や知能となると、むしろ現代人の方が劣っているかもしれない
わけです。
そもそも、知恵や知能というものは、与えられたものを最大限に活用する能力です。
私たちが、いま知能だと思いこんでいるものは、実は知能ではなく、先人たちが積み上げてきた
膨大な知識や情報でしかありません。
もしも身のまわりのものが、知識も含めて全て無くなったら、イチから作り出せるものは何一つ
ないのです。
ましてや技術者や学者でもない一般人であれば、そんな仮説など立てるまでもなく、すでに今
この時点で、自分が何もできないことに気づくはずです。
今こうして科学文明の中で、不自由のない生活を送れるのも、すべてご先祖さまたちが遺した
財産のおかげです。
まさにそうしたお陰さまによって、私たちは当たり前の日々を過ごしています。
どれ一つとして自分のものなど無いのです。
ですが、それを当たり前なものとして、思考停止のままスルーさせてしまい、感謝もせず平和に
暮らしています。
たとえば、莫大な財産を相続した放蕩息子を想像してみて下さい。
本人はそれを当たり前と思って、贅沢三昧に暮らしています。
数十年間やりたい放題やった結果、一文無しになってしまいました。
そして路頭に迷い、嘆き悲しんでいます。
それを見て、どのように感じるでしょうか。
そんなのは、もとより自分で汗水流すのが当然だと思うのではないでしょうか?
財産があるのが当たり前なのではなく、無いのが当たり前だと。
恵まれた境遇に感謝もせず、アグラをかいていたのだから、そりゃ自業自得だろうと。
それと同じことです。
私たちも、自然災害や天変地異で、身ぐるみ剥がされたらイヤだと思う前に、そもそもそれが
いったい誰のおかげのものなのか、まずそれを噛みしめる方が先なのではないでしょうか。
この街のビルも家も、電気や水道も、電化製品も家具も、洋服や靴すらも、あらゆるものは、
すべて幾千億のご先祖さまたちが積み上げてきたものなのです。
あって当たり前ではなく、それがこうして身のまわりにあることが奇跡なのです。
もしも、あるのが当然だと思いこんで感謝を忘れると、それは目の前から無くなっていきます。
そして無くなってから、その有りがたさを知ります。
遅まきながら、感謝の心が芽生えます。
この世界はそういうものです。
そういう仕組みになっています。
別に嫌がらせではありません。
勘違いや無思考は慢心を生み、自我を増長させてしまうからです。
要は、感謝の心だけです。
モノ自体は、感謝の心を輝かせるための方便でしかありません。
モノが有ろうが無くなろうが、それは大して重要なことではなく、ただ感謝の心が輝けばOKと
いうことになっているのです。
だからこそ今、一つ一つに心を向けた感謝が大事なのです。
天変地異を不安に思うのは当然ですが、その不安の出どころが、文明という「モノ」を失うこと
への憂いにあるならば、起きる可能性は高いと言わざるをえません。
放蕩息子が親の遺産にしがみついているのですから、それが道理です。
しかし実際は、それでもなお天地やご先祖様たちが、そんな子供たちでも文無しにはさせまいと、
必死に汗をかいておられるのです。
繰り返しになりますが、私たちは、もともと自分たちのものではないものを、自分たちのものと
思いこんで、当たり前に日々を過ごしています。
世界のすべての人たちが、世界中のご先祖さまたちの遺した財産によって、生かされています。
それは目に見えないものなどではありません。
むしろ、私たちの目に入る全てのものが、そうなのです。
もっともらしいものを世界遺産として有りがたがる前に、当たり前に日々スルーさせてしまって
いるものにこそ、心からの感謝を思いましょう。
もちろん、いちいち手を合わせる必要はありません。
そんなことをしてたら、まともに生活できません。
ただそういうものだと意識を変えるだけで十分です。
いま目に入るものは、製造会社が作ったものだとか建築会社が作ったものだとか、そういう次元
のものではありません。
それはほんの氷山の一角。上っ面の薄皮一枚でしかありません。
すべては先人の知恵と知識の集積なのです。
この瞬間、目にとまったものに思いを巡らせてみて下さい。
ほんの少しだけ、その奥にまで心を向けてみて下さい。
目に映るものが、どんな些細なものでも、すべてがご先祖さまたちの遺した結晶であることを
感じられるはずです。
それは、今こうして使っている言語もそうですし、そもそもこの私たちの身体自体もそうなのです。
私たちが、当たり前と思って見過ごしているものは、何一つ、自分のモノではないわけです。
だからといって、決して自分たちが弱々しい小さい存在だということではありません。
むしろ「何も無い」というところに私たちの無限性があるわけです。
そのことを芯から受け入れて、初めて、本当の謙虚さが芽生えます。
そして、そうであればこそ、あらゆるものが有りがたく感じられるようになります。
感謝というものは、謙虚さから生じます。
囚われた心からは、かりそめの感謝しか生まれません。
この世界は、先人の遺産そのものです。
私たちは、先人たちの「おかげさま」の中で、こうして生かして頂いています。
それは、もともと無くて当たり前のものかもしれません。
だからこそ、あらためて、本当にありがたいと感じるのです。
無くて当たり前のものが、こうして世界中に何千年も残り続けていること自体が、「有り難い」
ことなのです。
当たり前のことだと流せてしまうほどに、自然であるということが、本当に凄いことなのです。
私たちは、数限りないお蔭さまに包まれています。
そして絶え間なく、温かい心に見守られています。
失うことを心配するよりも、まずは、今この恩恵を心から噛みしめてみませんか?
シミジミとありがたさを感じたあとに、フワーッと幸せな気持ちがやってくると思いますよ。
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さすがに100年くらい前の人たちとは、それほど違わないような気がします。
でも、それが江戸時代となると何だかモヤモヤっとしてきます。
「江戸時代って、あのチョンマゲの?それなら少しくらいは賢くなっているんでは・・・」と。
ましてや弥生時代、縄文時代ともなると、それはもう自信をもって断言してしまうかもしれません。
文明の進んだ華やかな景色に囲まれていると、何となく私たち自身が進化しているように錯覚して
しまいます。
でも、今ここで着ぐるみ剥がされて無人島に放り出されたら、どうなのかということです。
あるいは、このまま縄文時代に放り出されたら、私たちは何ができるのでしょうか。
そこは今どきの素材も道具もない世界です。
必死に知恵を絞り出したところで出来ることといえば、木や枝で家を作ったり、粘土で食器を焼いたり、
ツタや蔓で服を編むくらいではないでしょうか。
そう、結局は同じなのです。
機械も道具も無いところでは、土器を作ったり、竪穴式住居を作ったりするのが精一杯なのです。
そしてその精一杯と思っていることでさえ、いざ、やるとなると、とてつもなく難しいわけです。
ですから、その時代の人たちより、私たちがまさっているということでは決してないのです。
ここのところを、つい私たちは勘違いしてしまいます。
何千年どころか、おそらくこの何万年、私たち人間の基本スペックは、何ひとつ変わっていません。
石器時代の人と、私たち現代人との違いは、ただ知識の違いでしかないのです。
その知識にしても、自力で獲得したものではなく、生まれた時すでに用意されていた借りもので
しかありません。
そして知識ではなく、それが知恵や知能となると、むしろ現代人の方が劣っているかもしれない
わけです。
そもそも、知恵や知能というものは、与えられたものを最大限に活用する能力です。
私たちが、いま知能だと思いこんでいるものは、実は知能ではなく、先人たちが積み上げてきた
膨大な知識や情報でしかありません。
もしも身のまわりのものが、知識も含めて全て無くなったら、イチから作り出せるものは何一つ
ないのです。
ましてや技術者や学者でもない一般人であれば、そんな仮説など立てるまでもなく、すでに今
この時点で、自分が何もできないことに気づくはずです。
今こうして科学文明の中で、不自由のない生活を送れるのも、すべてご先祖さまたちが遺した
財産のおかげです。
まさにそうしたお陰さまによって、私たちは当たり前の日々を過ごしています。
どれ一つとして自分のものなど無いのです。
ですが、それを当たり前なものとして、思考停止のままスルーさせてしまい、感謝もせず平和に
暮らしています。
たとえば、莫大な財産を相続した放蕩息子を想像してみて下さい。
本人はそれを当たり前と思って、贅沢三昧に暮らしています。
数十年間やりたい放題やった結果、一文無しになってしまいました。
そして路頭に迷い、嘆き悲しんでいます。
それを見て、どのように感じるでしょうか。
そんなのは、もとより自分で汗水流すのが当然だと思うのではないでしょうか?
財産があるのが当たり前なのではなく、無いのが当たり前だと。
恵まれた境遇に感謝もせず、アグラをかいていたのだから、そりゃ自業自得だろうと。
それと同じことです。
私たちも、自然災害や天変地異で、身ぐるみ剥がされたらイヤだと思う前に、そもそもそれが
いったい誰のおかげのものなのか、まずそれを噛みしめる方が先なのではないでしょうか。
この街のビルも家も、電気や水道も、電化製品も家具も、洋服や靴すらも、あらゆるものは、
すべて幾千億のご先祖さまたちが積み上げてきたものなのです。
あって当たり前ではなく、それがこうして身のまわりにあることが奇跡なのです。
もしも、あるのが当然だと思いこんで感謝を忘れると、それは目の前から無くなっていきます。
そして無くなってから、その有りがたさを知ります。
遅まきながら、感謝の心が芽生えます。
この世界はそういうものです。
そういう仕組みになっています。
別に嫌がらせではありません。
勘違いや無思考は慢心を生み、自我を増長させてしまうからです。
要は、感謝の心だけです。
モノ自体は、感謝の心を輝かせるための方便でしかありません。
モノが有ろうが無くなろうが、それは大して重要なことではなく、ただ感謝の心が輝けばOKと
いうことになっているのです。
だからこそ今、一つ一つに心を向けた感謝が大事なのです。
天変地異を不安に思うのは当然ですが、その不安の出どころが、文明という「モノ」を失うこと
への憂いにあるならば、起きる可能性は高いと言わざるをえません。
放蕩息子が親の遺産にしがみついているのですから、それが道理です。
しかし実際は、それでもなお天地やご先祖様たちが、そんな子供たちでも文無しにはさせまいと、
必死に汗をかいておられるのです。
繰り返しになりますが、私たちは、もともと自分たちのものではないものを、自分たちのものと
思いこんで、当たり前に日々を過ごしています。
世界のすべての人たちが、世界中のご先祖さまたちの遺した財産によって、生かされています。
それは目に見えないものなどではありません。
むしろ、私たちの目に入る全てのものが、そうなのです。
もっともらしいものを世界遺産として有りがたがる前に、当たり前に日々スルーさせてしまって
いるものにこそ、心からの感謝を思いましょう。
もちろん、いちいち手を合わせる必要はありません。
そんなことをしてたら、まともに生活できません。
ただそういうものだと意識を変えるだけで十分です。
いま目に入るものは、製造会社が作ったものだとか建築会社が作ったものだとか、そういう次元
のものではありません。
それはほんの氷山の一角。上っ面の薄皮一枚でしかありません。
すべては先人の知恵と知識の集積なのです。
この瞬間、目にとまったものに思いを巡らせてみて下さい。
ほんの少しだけ、その奥にまで心を向けてみて下さい。
目に映るものが、どんな些細なものでも、すべてがご先祖さまたちの遺した結晶であることを
感じられるはずです。
それは、今こうして使っている言語もそうですし、そもそもこの私たちの身体自体もそうなのです。
私たちが、当たり前と思って見過ごしているものは、何一つ、自分のモノではないわけです。
だからといって、決して自分たちが弱々しい小さい存在だということではありません。
むしろ「何も無い」というところに私たちの無限性があるわけです。
そのことを芯から受け入れて、初めて、本当の謙虚さが芽生えます。
そして、そうであればこそ、あらゆるものが有りがたく感じられるようになります。
感謝というものは、謙虚さから生じます。
囚われた心からは、かりそめの感謝しか生まれません。
この世界は、先人の遺産そのものです。
私たちは、先人たちの「おかげさま」の中で、こうして生かして頂いています。
それは、もともと無くて当たり前のものかもしれません。
だからこそ、あらためて、本当にありがたいと感じるのです。
無くて当たり前のものが、こうして世界中に何千年も残り続けていること自体が、「有り難い」
ことなのです。
当たり前のことだと流せてしまうほどに、自然であるということが、本当に凄いことなのです。
私たちは、数限りないお蔭さまに包まれています。
そして絶え間なく、温かい心に見守られています。
失うことを心配するよりも、まずは、今この恩恵を心から噛みしめてみませんか?
シミジミとありがたさを感じたあとに、フワーッと幸せな気持ちがやってくると思いますよ。
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