私たちは、天地宇宙の大きな心に見守られ、ご先祖様たちの遺産に寄りそって、いきています。
自分は何一つ持っていないと分かれば、自ずと謙虚になります。
謙虚になると、天地へ心が広がり、清々しい風が吹き抜けます。
大きな感覚にあると、自ずと天地宇宙に対して、喜びと有り難さが湧いてきます。
また、世界中の幾億万のご先祖さまに対しても、感謝と有り難さが湧いてきます。
そうして、心は晴れやかになります。
ただ、私たちは常に天地宇宙や全人類の広がりを感じながら日々を生きているわけではありません。
そこには、いつもの生活や、いつもの人たちが居ます。
いくら天地に心を広げても、この目の前の景色をボンヤリさせてしまっては、結局は意味がありません。
私たちは、日々のこの現実に生きています。
天地宇宙や大自然、神仏、全地球のご先祖さまに感謝の心を送るというのは、ともすれば自己満足
に陥りかねません。
もちろん、それはそれでとても大事なことです。
しかし、その心地よさに浸ってしまうと、なかなか現実に繋がらなくなってしまいます。
なぜならば、それは目の前の日々とは、あまりにもかけ離れたものであるからです。
何となく幸せな気持ちになり、何となく心が軽くなっても、いざ日々の生活に目を戻すと、全く違う
スイッチが入ってしまうものです。
そして、あまりのギャップにガックリしてしまかもしれません。
そのギャップを埋めようと色々なものを探し求めても、その断絶を埋めることは難しいわけです。
私たちは、目の前の現実を見るときに、それに合わて心も変えてしまっています。
つまり、大きなものを見るときは心も大きく、中くらいのものを見るときは心も中くらいに、と。
そして目の前のことを見るときは、自我の意識がまさって、心が自我の枠に収めされてしまっている
のです。
ですから、せっかく大きく広げたならば、心をそのまま放ったままで、目の前の現実を眺めるという
ことです。
すでに、皆さんはそれを実践されてます。
いま目の前に映るすべて、この世界のすべてが、ご先祖様たちの遺産であり、天地宇宙に護られて
いることを、感じられたはずです。
それが、まさに天地の心のままに、目の前の今を眺めた瞬間です。
新たな景色というやつです。
そして、こうも言えるわけです。
ありがたい気持ちに、大きいも小さいもないと。
相手の存在が大きいとか、小さいとかいうのも関係ない。
ただ、自分の中からジンワリ湧き出るものが有るか無いかでしかない、と。
全世界の幾億万のご先祖さまたちに繋がる一番身近な存在は、父母や祖父母です。
また、八百万の神さまに繋がる一番身近な神さまは、氏神さまです。
感謝の対象が、偉かったり大規模だったりすることで有り難さが増すわけではありません。
もしも、それで有り難さが増すようなことがあれば、それは誤った幸福感(満足感)の恐れが
あります。
相手の格や立場を見て価値判断をしてしまい、それによって自分の心を切り替えてしまうのは
我執でしかありません。
それに気がつけたら幸いです。
そのままだったら、下手に大義があるだけに、やればやるほど我執を強めることになってしまう
ところでしょう。
もちろん、世間的に格式が高いとされているような神社で、真っさらな心のまま手を合わせたら、
物凄く爽やかな風が一気に駆け抜けて幸福感に包まれるということはあります。
ただ、それはあくまで結果としてのものなのです。
要は、手を合わせる前から勝手な思い込みで“心を変えて”臨むのがいけないということです。
両親に感謝を示すことは、ご先祖さまに感謝を示すことと同義です。
全世界の幾億万のご先祖さまたちに感謝を伝えることへと繋がります。
いきなり十段飛びに全世界のご先祖さまたちに感謝を思うよりも、身近の存在に伝える方が、その
濃さも電導率もケタ違いです。
もちろん、両親や祖父母に感謝しつつ、さらに全世界のご先祖さまに感謝できれば最高です。
でも、まずは身近な存在に感謝です。
同じように、高いところに坐す神さまに感謝を伝えるのは大切なことですが、まずは身近の氏神
さまです。
氏神さまといっても、近くの神社が廃れてたり雰囲気がピンとこなければ、氏神さまにこだわらず
ピンとくる身近な神さまです。
何となくスッとくるのは、それこそが身近におられる証拠です。
たとえば、夏祭りや初詣をするような、暮らしに近い神社がいいと思います。
とにかく、いきなり大きな存在ではなく、より近くの存在に感謝ということです。
すると、天地へ向ける心と、日々の身近なことに向ける心の断絶が、少しずつ薄れていきます。
断絶させていたのは、自分の心の方なのです。
一つ一つを切り替えてしまっているために、一つ一つに断絶を生んでしまっています。
近くであろうと遠くであろうと、みんな繋がった一つのものです。
ですから、こちらの心も変える必要はありません。
伊勢の神さまは有り難いからと真剣に手を合わせて、近所の神さまは見慣れてるからとそこそこに
手を合わせるというものではありません。
どちらも同じ心境のままに、軽やかに手を合わせるだけです。
そして、それは両親に対しても同じなのです。
ただ両親という存在は、あまりにも身近すぎて、物心ついた時から刷り込まれ続けた感覚もあります
ので、なかなか素直になれないかもしれません。
安心している部分や甘えている部分があって当然だと思いますし、親は親でそれが嬉しいものです。
ですから、いきなり最初からスッキリ透き通った心で感謝を向けようなんて思わずに、まずは照れくさ
がりながらでも、小さな感謝から少しずつというのがいいと思います。
突然かしこまって感謝を伝えても、親のほうだって面食らうでしょうし、逆に心配するかもしれません(笑)
小さなことから、小さな感謝を。
できることから、無理なく少しずつです。
そうして一つ一つ重ねていくことで、いつしか透き通った感謝へと繋がっていくことでしょう。
そして、それが天地宇宙に対しても、素直な感謝となっていくのです。
身近な存在に対して素直に感謝できないうちは、天地宇宙にも素直な感謝ができていないということ
です。
それでは、猫をかぶったヨソ行きの姿でしかないということです。
家でリラックスして気楽に過ごしているのと、神社で背筋を伸ばして真面目に過ごしているのと
本当の自分はどちらなのでしょうか。
心を変えてしまっているというのは、そういうことです。
家でも神社でもリラックスして、同じ感覚で軽やかにニコやかに、同じように感謝を向けられるのが、
自分でも気持ちがいいと思います。
いかにも大層なことをやればキッチリやったような感覚(錯覚)に浸ることができる、というのは
もう卒業です。
天地に、地味も派手もありません。
すべて一つです。
天地宇宙の全ての存在に感謝を向けることと、両親や氏神様に感謝を向けることは同じものです。
そして、身近なものほど、より自分自身の心を明らかに映します。
だからこそ、何となく気恥ずかしい気持ちになるとも言えます。
その最たるものは、鏡に映った自分に感謝を伝えることではないでしょうか。
少しずつでも自分を直視し、少しずつでも感謝を伝えていければ、いつしか透き通った心のままで
素直に自分に感謝を思えるでしょう。
それが、自分の全てを本当にそのままに受け入れられた瞬間かもしれません。
身近な存在というのは、人によってそれぞれです。
その身近な存在こそが、自分にとっての一番近くの天地宇宙です。
遥か遠くにある天地宇宙も、一番近くにある天地宇宙も、同じものです。
そこに大小はありません。
誰の近くにも、天地宇宙が開いているのです。
すべては自分の心次第です。
そして身近の天地宇宙こそが、もっとも自分のことを見守り、もっとも自分に心を向けているのです。
だからこそ、そこに私たちの方から心を開くことが、何にも増して効果絶大になるわけです。
それは、まさに天地と一体となることです。
親孝行とは、神ながらの道なのです。
そして自分に感謝して、自分を受け入れるのも、神ながらの道ということです。
身近なことや、身近な存在に感謝を思うことが、この世で一番の功徳であるというのはそのためです。
私たちは何をするために生まれてきたのか、何をするために生きているのかと問われれば、それは
身近なものごとや人々に感謝を思うためだと言ってもいいのです。
ここにおいて、ようやく断絶することなく、天地宇宙と目の前の現実とが合致するのではないでしょうか。
大それたものは遠くにあるというのは、私たちの勝手な思い込みです。
最も身近なものこそ、最も大それたものなのです。
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自分は何一つ持っていないと分かれば、自ずと謙虚になります。
謙虚になると、天地へ心が広がり、清々しい風が吹き抜けます。
大きな感覚にあると、自ずと天地宇宙に対して、喜びと有り難さが湧いてきます。
また、世界中の幾億万のご先祖さまに対しても、感謝と有り難さが湧いてきます。
そうして、心は晴れやかになります。
ただ、私たちは常に天地宇宙や全人類の広がりを感じながら日々を生きているわけではありません。
そこには、いつもの生活や、いつもの人たちが居ます。
いくら天地に心を広げても、この目の前の景色をボンヤリさせてしまっては、結局は意味がありません。
私たちは、日々のこの現実に生きています。
天地宇宙や大自然、神仏、全地球のご先祖さまに感謝の心を送るというのは、ともすれば自己満足
に陥りかねません。
もちろん、それはそれでとても大事なことです。
しかし、その心地よさに浸ってしまうと、なかなか現実に繋がらなくなってしまいます。
なぜならば、それは目の前の日々とは、あまりにもかけ離れたものであるからです。
何となく幸せな気持ちになり、何となく心が軽くなっても、いざ日々の生活に目を戻すと、全く違う
スイッチが入ってしまうものです。
そして、あまりのギャップにガックリしてしまかもしれません。
そのギャップを埋めようと色々なものを探し求めても、その断絶を埋めることは難しいわけです。
私たちは、目の前の現実を見るときに、それに合わて心も変えてしまっています。
つまり、大きなものを見るときは心も大きく、中くらいのものを見るときは心も中くらいに、と。
そして目の前のことを見るときは、自我の意識がまさって、心が自我の枠に収めされてしまっている
のです。
ですから、せっかく大きく広げたならば、心をそのまま放ったままで、目の前の現実を眺めるという
ことです。
すでに、皆さんはそれを実践されてます。
いま目の前に映るすべて、この世界のすべてが、ご先祖様たちの遺産であり、天地宇宙に護られて
いることを、感じられたはずです。
それが、まさに天地の心のままに、目の前の今を眺めた瞬間です。
新たな景色というやつです。
そして、こうも言えるわけです。
ありがたい気持ちに、大きいも小さいもないと。
相手の存在が大きいとか、小さいとかいうのも関係ない。
ただ、自分の中からジンワリ湧き出るものが有るか無いかでしかない、と。
全世界の幾億万のご先祖さまたちに繋がる一番身近な存在は、父母や祖父母です。
また、八百万の神さまに繋がる一番身近な神さまは、氏神さまです。
感謝の対象が、偉かったり大規模だったりすることで有り難さが増すわけではありません。
もしも、それで有り難さが増すようなことがあれば、それは誤った幸福感(満足感)の恐れが
あります。
相手の格や立場を見て価値判断をしてしまい、それによって自分の心を切り替えてしまうのは
我執でしかありません。
それに気がつけたら幸いです。
そのままだったら、下手に大義があるだけに、やればやるほど我執を強めることになってしまう
ところでしょう。
もちろん、世間的に格式が高いとされているような神社で、真っさらな心のまま手を合わせたら、
物凄く爽やかな風が一気に駆け抜けて幸福感に包まれるということはあります。
ただ、それはあくまで結果としてのものなのです。
要は、手を合わせる前から勝手な思い込みで“心を変えて”臨むのがいけないということです。
両親に感謝を示すことは、ご先祖さまに感謝を示すことと同義です。
全世界の幾億万のご先祖さまたちに感謝を伝えることへと繋がります。
いきなり十段飛びに全世界のご先祖さまたちに感謝を思うよりも、身近の存在に伝える方が、その
濃さも電導率もケタ違いです。
もちろん、両親や祖父母に感謝しつつ、さらに全世界のご先祖さまに感謝できれば最高です。
でも、まずは身近な存在に感謝です。
同じように、高いところに坐す神さまに感謝を伝えるのは大切なことですが、まずは身近の氏神
さまです。
氏神さまといっても、近くの神社が廃れてたり雰囲気がピンとこなければ、氏神さまにこだわらず
ピンとくる身近な神さまです。
何となくスッとくるのは、それこそが身近におられる証拠です。
たとえば、夏祭りや初詣をするような、暮らしに近い神社がいいと思います。
とにかく、いきなり大きな存在ではなく、より近くの存在に感謝ということです。
すると、天地へ向ける心と、日々の身近なことに向ける心の断絶が、少しずつ薄れていきます。
断絶させていたのは、自分の心の方なのです。
一つ一つを切り替えてしまっているために、一つ一つに断絶を生んでしまっています。
近くであろうと遠くであろうと、みんな繋がった一つのものです。
ですから、こちらの心も変える必要はありません。
伊勢の神さまは有り難いからと真剣に手を合わせて、近所の神さまは見慣れてるからとそこそこに
手を合わせるというものではありません。
どちらも同じ心境のままに、軽やかに手を合わせるだけです。
そして、それは両親に対しても同じなのです。
ただ両親という存在は、あまりにも身近すぎて、物心ついた時から刷り込まれ続けた感覚もあります
ので、なかなか素直になれないかもしれません。
安心している部分や甘えている部分があって当然だと思いますし、親は親でそれが嬉しいものです。
ですから、いきなり最初からスッキリ透き通った心で感謝を向けようなんて思わずに、まずは照れくさ
がりながらでも、小さな感謝から少しずつというのがいいと思います。
突然かしこまって感謝を伝えても、親のほうだって面食らうでしょうし、逆に心配するかもしれません(笑)
小さなことから、小さな感謝を。
できることから、無理なく少しずつです。
そうして一つ一つ重ねていくことで、いつしか透き通った感謝へと繋がっていくことでしょう。
そして、それが天地宇宙に対しても、素直な感謝となっていくのです。
身近な存在に対して素直に感謝できないうちは、天地宇宙にも素直な感謝ができていないということ
です。
それでは、猫をかぶったヨソ行きの姿でしかないということです。
家でリラックスして気楽に過ごしているのと、神社で背筋を伸ばして真面目に過ごしているのと
本当の自分はどちらなのでしょうか。
心を変えてしまっているというのは、そういうことです。
家でも神社でもリラックスして、同じ感覚で軽やかにニコやかに、同じように感謝を向けられるのが、
自分でも気持ちがいいと思います。
いかにも大層なことをやればキッチリやったような感覚(錯覚)に浸ることができる、というのは
もう卒業です。
天地に、地味も派手もありません。
すべて一つです。
天地宇宙の全ての存在に感謝を向けることと、両親や氏神様に感謝を向けることは同じものです。
そして、身近なものほど、より自分自身の心を明らかに映します。
だからこそ、何となく気恥ずかしい気持ちになるとも言えます。
その最たるものは、鏡に映った自分に感謝を伝えることではないでしょうか。
少しずつでも自分を直視し、少しずつでも感謝を伝えていければ、いつしか透き通った心のままで
素直に自分に感謝を思えるでしょう。
それが、自分の全てを本当にそのままに受け入れられた瞬間かもしれません。
身近な存在というのは、人によってそれぞれです。
その身近な存在こそが、自分にとっての一番近くの天地宇宙です。
遥か遠くにある天地宇宙も、一番近くにある天地宇宙も、同じものです。
そこに大小はありません。
誰の近くにも、天地宇宙が開いているのです。
すべては自分の心次第です。
そして身近の天地宇宙こそが、もっとも自分のことを見守り、もっとも自分に心を向けているのです。
だからこそ、そこに私たちの方から心を開くことが、何にも増して効果絶大になるわけです。
それは、まさに天地と一体となることです。
親孝行とは、神ながらの道なのです。
そして自分に感謝して、自分を受け入れるのも、神ながらの道ということです。
身近なことや、身近な存在に感謝を思うことが、この世で一番の功徳であるというのはそのためです。
私たちは何をするために生まれてきたのか、何をするために生きているのかと問われれば、それは
身近なものごとや人々に感謝を思うためだと言ってもいいのです。
ここにおいて、ようやく断絶することなく、天地宇宙と目の前の現実とが合致するのではないでしょうか。
大それたものは遠くにあるというのは、私たちの勝手な思い込みです。
最も身近なものこそ、最も大それたものなのです。
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