子供の頃、どうして世界はあんなにキラキラしていたのでしょうか。
私たちにとって大人になっていくというのは成長していくことであったわけですが、ではその成長というのが何を指すのか、実はとても曖昧な
ものでしかありません。
物事をたくさん知ること、色々な経験をして学習していくこと、落ち着いていくこと…
それはこの世界を安心無事に生きられるようになることだったと言えるかもしれません。
実際、私たちは年とともに冷静にあれこれ対処できるようになりましたし、年相応に落ち着いてもいきました。
それこそは子供の頃に見上げた、いわゆる大人の姿だと言えるでしょう。
ただその結果として、自分はそこそこ知っていると思うようになり、気づいてみれば世界は輝きを無くしていました。
しかし、本当に世界は私たちの知っていることばかりなのでしょうか。
私たちはそれほど知っている状態にあるのでしょうか。
単に安心して生きていくための知識や経験を得ただけで、この世界に対して勝手な線引きをしては居ないでしょうか。
私たちは「ただ生きるために生きている」のではありません。
安心して生きられることが目的になってしまうと、世界はたちまち狭いものとなり、途端に目新しいものはなくなってしまいます。
この世界というのは知らないことだらけです。
生きるために必要か必要でないか、そんなつまらない線引きを解いた瞬間、膨大な未知に満ち溢れた世界が目の前に現れます。
そのスケールは、私たちはほとんど何も知っていなかったと言いたくなるくらいのものでしょう。
私たちは、ただ「自分たちが知っていない」ということを知っていないだけなのです。
世界は知らないことに溢れています。
知っていることの何億倍もの未知に満ち満ちています。
子どもの頃のキラキラは、今でも初めての土地へ旅行する時のワクワクに近いかもしれません。
それはそこに未知が広がっているという事実と、受け手の私たちの認識とがピタリと合致したことによって現れるものです。
未知を味わえることを「知っている」がゆえのワクワク感であるわけです。
逆に、内的な認識がズレてしまっている場面、例えば「未知の経験なんて期待できない」と思い込んでしまうと、そこにいくら外的な事実が
存在していようとも、キラキラもウキウキも現れることはないということです。
自分はかなり知っているなどと思い込んでしまうと、そこにあるものが何も目に入らず何も聞こえなくなってしまいます。
これは身近なところでもある話で、習い事ひとつ取っても、いくら師範が多くのことを伝えようとしても弟子が勝手な一人ガッテンをして
しまうと、事実の10分の1も伝わらないのも同じ理屈です。
結局は私たち一人一人が、何を見ようとしているか、どこに心が広がっているか、外に向いてるか内に向いているかということで決まって
しまうわけです。
伝統の世界では師匠が弟子に物を教える時、全てが空っぽになるまでは何も教えないと言います。
親方は言葉で何かを説明したり教えるようなことはしない、何年も黙って雑用だけを命じる。
というのも、私たちというのは知らず知らずのうちに、自分の経験や知識、価値観を軸に置いて、目の前の物事を理解しようとするからです。
新しい情報に触れると、自分の中からそれに近いものを引き合いに出して、そこに新たに肉付けしたり比較したりする方が効率的だからです。
進化の歴史の中で、日ごろから私たちは本能的にそのような選択をするようになりました。
しかしその結果が、事実の10分の1の理解だったり、あるいは思い込みにより明後日の方向に行ってしまい全く誤った理解になってしまう
こともあるということです。
ですから、伝統の世界では物凄く効率の悪いことを大事にしています。
何も考えず愚直にゼロから積み上げていくのは時間も手間もかかって極めて非効率なことです。
でも、空っぽにしないと10の事実が10として伝わらないのです。
そして私たちが子供の頃はまさしく、この空っぽの状態でした。
自分は何も知らない。
そのことを当たり前に、素直に、受け入れていました。
この世は、私たちの知らないことが詰まり詰まっているのが真実です。
自分が何も知らないということを受け入れた瞬間、この世界はキラキラとした輝きに満ち溢れるでしょう。
子供の頃は無邪気で良かったなぁと遠くを見るのは間違いです。
私たちは、今だって何も知らないのです。
それは謙遜でもなければ謙虚さでもありません。
単なる事実です。
子供の心は今ココにあります。
どこか遠くへ行ってしまったというのは、単なる思い込みでしかありません。
汚れちまった悲しみも、私たちがそうだと決めつけたものでしかありません。
何一つ汚れることなく、その心は同じまま今ココに在り続けているのです。
(つづく)
私たちにとって大人になっていくというのは成長していくことであったわけですが、ではその成長というのが何を指すのか、実はとても曖昧な
ものでしかありません。
物事をたくさん知ること、色々な経験をして学習していくこと、落ち着いていくこと…
それはこの世界を安心無事に生きられるようになることだったと言えるかもしれません。
実際、私たちは年とともに冷静にあれこれ対処できるようになりましたし、年相応に落ち着いてもいきました。
それこそは子供の頃に見上げた、いわゆる大人の姿だと言えるでしょう。
ただその結果として、自分はそこそこ知っていると思うようになり、気づいてみれば世界は輝きを無くしていました。
しかし、本当に世界は私たちの知っていることばかりなのでしょうか。
私たちはそれほど知っている状態にあるのでしょうか。
単に安心して生きていくための知識や経験を得ただけで、この世界に対して勝手な線引きをしては居ないでしょうか。
私たちは「ただ生きるために生きている」のではありません。
安心して生きられることが目的になってしまうと、世界はたちまち狭いものとなり、途端に目新しいものはなくなってしまいます。
この世界というのは知らないことだらけです。
生きるために必要か必要でないか、そんなつまらない線引きを解いた瞬間、膨大な未知に満ち溢れた世界が目の前に現れます。
そのスケールは、私たちはほとんど何も知っていなかったと言いたくなるくらいのものでしょう。
私たちは、ただ「自分たちが知っていない」ということを知っていないだけなのです。
世界は知らないことに溢れています。
知っていることの何億倍もの未知に満ち満ちています。
子どもの頃のキラキラは、今でも初めての土地へ旅行する時のワクワクに近いかもしれません。
それはそこに未知が広がっているという事実と、受け手の私たちの認識とがピタリと合致したことによって現れるものです。
未知を味わえることを「知っている」がゆえのワクワク感であるわけです。
逆に、内的な認識がズレてしまっている場面、例えば「未知の経験なんて期待できない」と思い込んでしまうと、そこにいくら外的な事実が
存在していようとも、キラキラもウキウキも現れることはないということです。
自分はかなり知っているなどと思い込んでしまうと、そこにあるものが何も目に入らず何も聞こえなくなってしまいます。
これは身近なところでもある話で、習い事ひとつ取っても、いくら師範が多くのことを伝えようとしても弟子が勝手な一人ガッテンをして
しまうと、事実の10分の1も伝わらないのも同じ理屈です。
結局は私たち一人一人が、何を見ようとしているか、どこに心が広がっているか、外に向いてるか内に向いているかということで決まって
しまうわけです。
伝統の世界では師匠が弟子に物を教える時、全てが空っぽになるまでは何も教えないと言います。
親方は言葉で何かを説明したり教えるようなことはしない、何年も黙って雑用だけを命じる。
というのも、私たちというのは知らず知らずのうちに、自分の経験や知識、価値観を軸に置いて、目の前の物事を理解しようとするからです。
新しい情報に触れると、自分の中からそれに近いものを引き合いに出して、そこに新たに肉付けしたり比較したりする方が効率的だからです。
進化の歴史の中で、日ごろから私たちは本能的にそのような選択をするようになりました。
しかしその結果が、事実の10分の1の理解だったり、あるいは思い込みにより明後日の方向に行ってしまい全く誤った理解になってしまう
こともあるということです。
ですから、伝統の世界では物凄く効率の悪いことを大事にしています。
何も考えず愚直にゼロから積み上げていくのは時間も手間もかかって極めて非効率なことです。
でも、空っぽにしないと10の事実が10として伝わらないのです。
そして私たちが子供の頃はまさしく、この空っぽの状態でした。
自分は何も知らない。
そのことを当たり前に、素直に、受け入れていました。
この世は、私たちの知らないことが詰まり詰まっているのが真実です。
自分が何も知らないということを受け入れた瞬間、この世界はキラキラとした輝きに満ち溢れるでしょう。
子供の頃は無邪気で良かったなぁと遠くを見るのは間違いです。
私たちは、今だって何も知らないのです。
それは謙遜でもなければ謙虚さでもありません。
単なる事実です。
子供の心は今ココにあります。
どこか遠くへ行ってしまったというのは、単なる思い込みでしかありません。
汚れちまった悲しみも、私たちがそうだと決めつけたものでしかありません。
何一つ汚れることなく、その心は同じまま今ココに在り続けているのです。
(つづく)