海外誌の「今年の顔」に10代の女性活動家が選ばれました。
世の大人たちに対して激しい口調で地球温暖化を訴える姿が印象的でした。
「正しさ」というのは、喩えるなら夜道を照らす懐中電灯のようなものと言えます。
私たちは今この瞬間だけが見えていて、一歩先は何も見えません。
一寸先は闇の中。
実際どこへ向かっているのか皆目、見当もつかないわけです。
歴史上どの部分を切り取ってもそれは同じで、目に見えるのは常に足元だけでした。
しかし生きることは進むことです。
流動の世界に生きるかぎり、立ち止まることはありません。
そのためわずかでも照らせる明かりを私たちは求めてきました。
人によっては、その一つが「正しさ」であるわけです。
それは一歩先へと差し出す、杖に喩えることも出来ます。
その杖を信じればこそ、決して奈落の底へ落ちることはないと安心し、目の前の一歩を大きく踏み出せる。
そうして一歩先の不安を忘れ、真っ暗闇であることも忘れ、今ここに集中できているということです。
怖がって前へ進めないのに比べれば、今に集中できるというのは大変に良いことなのですが、反面、危うさを合わせ持っていることも忘れてはなりません。
「正しさ」というのは、どこまでいっても人間が決めたものです。
そもそも天地宇宙には正しさなど存在していません。
そこを勘違いしてしまうと、過信が生じ、無思考へと身を落とすことになります。
一番恐ろしいのは、知らず知らずのうちにその正しさというものに自ら縛られてしまうことです。
天地宇宙の視点に立てば、正しいも間違いも無い、それは言い換えれば、全てのものは正しいということになります。
どこを照らしても「正しい」
どの方向に向かおうと「正しい」
もちろん、そうした先の展開は様々です。
ただ何をもって幸福と見るか、不幸と見るか、それは私たちが貼るレッテルでしかありません。
そして私たち人間が決める「正しさ」というのはそうしたレッテルで決められたりしています。
ただ何をもって幸福と見るか、不幸と見るか、それは私たちが貼るレッテルでしかありません。
そして私たち人間が決める「正しさ」というのはそうしたレッテルで決められたりしています。
では、私たちは一件一件そこまでレッテルをチェックして「正しさ」を決めているかというとそんなことはなく、実際のところは、みんなが受け入れている「正しさ」を自分も受け入れているだけです。
ですからそんなものは、時代や場所、立場が変わればコロコロ変わる、真逆にもなるということです。
そうなると、大切なのは「正しさというものはその程度のものだ」という冷静さになります。
そうした認識があれば、暴走にひきづられることも無くなります。
もちろん秩序を保つために、ある程度の指標は必要です。
正論にしても正義にしても、全てを否定したり軽んじたりするものではありません。
ただ、指標というのはどこまでいっても指標に過ぎない。
それが私たちの中で絶対的なものとなってしまうとマズいということです。
道路標識というのも一つだけでなく、場所と状況によって様々なものが存在します。
どこであろうとこれ一つだけ守っていればいいというものはありません。
たとえ同じ場所であっても道路事情が変われば標識も差し替えられます。
この標識は絶対に変わらない、どこまで行ってもこの標識が正しい、というのはおかしな話です。
世の中の常識もまた情勢によって変化するものです。
正義や正論だってもともと変幻自在であるわけです。
これだけが絶対正しいなんてことは有り得ない。
事情が異なれば、標識は通用しなくなります。
それは個人同士にも当てはまることです。
いま目の前の標識が絶対のもので、それ以外は駄目という思い込みは極めて危ういことだと言えます。
いやいや現実を変えるために理想・理念は必要ではないかと問われれば、それはその通りでしょう。
ただ、それは月をさす指のようなものです。
しかし理想・理念を追うあまり、その理想や理念自体が月になってしまう(目的化してしまう)と、妄想に囚われた自縄自縛でしかありません。
現実をしっかり受け入れ、自らの理想へと繋がる糸口を探し、そこへ向けた具体策を考え抜いていく。
それが本気で現実を変えようとする大人の行動です。
お花畑というのは、誰が見ても美しいに決まっています。
でも都会のコンクリート全てをお花畑に出来るはずがありません。
美しさと現実をどのように折り合いつけていくか模索するのが責任ある大人というものです。
理想に囚われ、正義や正論を盲信し、自己正当化の暴走が始まると、まずは現実をけなし、その現実を受け入れている人たちを非難し出します。
解決策も何も無い。非難するだけ非難して終わり。
解決も思考も相手に押し付けるというのは、思考停止に他なりません。
それは、檻の中に入って回転車を走りながらワーワー叫んでる姿そのものです。
理想に囚われるのは危険です。
正義や正論に囚われるのも危険です。
大切なものほど適切な距離感が必要となります。
たまたまその時その場所において秩序を保つための方便、我欲の暴走を防ぐための規範として設けられたものが正義・正論です。
どこまで行っても私たちが主体であって、標識というのはあくまで参考程度のものでしかありません。
「こうあるべきだ」「この正しさは絶対のもの」という信念を持ってしまうと、主客が入れ替わってもそれに気が付けなくなります。
明らかにおかしくてもその異常事態に気がつかない。
それが信念の怖いところです。
人間は自分の信じるものしか見えません。
「こうあるべき」というのはまさに「理想」という言葉に置き換えられます。
理想というのは価値観の現れですから、「こうあるべき」「これが正しい」というのも人の数だけ存在することになります。
正義や正論が理想と結びついてしまうと、お互いの理想、お互いの信じるものがぶつかり合うことになります。
つまり、正義あるところ必ず対立が生じるということです。
間違いや過ちが対立を生むのではなく、正義や正論が対立を生むのです。
「これが正しい」
「これこそが正しい」
「これしか無いのだ!」
自分が正しいと思うものを追いすぎると、それは信念を通り越して信仰となります。
それ以外が見えなくなる。
それ以外は目に入れたくなくなる。
視野の狭い見方をすると排他的になります。
自分を縛ると他人も縛りたくなるのです。
この世の中には、正しい正しくない、なんてものは存在しません。
存在しているのは「私たちの決めごと」だけです。
現実というのはオールOK。
ポジティブもネガティブも、善も悪も、全て私たちが勝手に決めた価値観です。
すべての存在が許される。
もとより、この世というのは完全なる寛容の世界であるわけです。
(つづく)