いま、海外から、日本のサブカルチャーやポップカルチャーが注目されています。
未知のものには好奇心がくすぐられ、憧れを抱くものです。
新しいことや知らない世界に触れると、心に爽やかな風が吹き抜けます。
そして囚われに染まった夕闇に、光が差し込むようにして、新たな景色が輝き出します。
これは私たちの日常にも言えることです。
同じ作業を繰り返していると、心や頭は硬くなりやすいものです。
会社などでは、それを避けるためローテーションで仕事を変えさせたりするほどです。
わざわざ不慣れなことをさせるよりも、同じことを続けさせたほうが効率的なのではないかと思いますが、
心が硬直してしまうリスクの方が高いと考えるわけです。
ルーチン作業でこなせるようになってくると、心や頭はラクをして、中心を通さずに反射的に処理して
しまうことがあります。
そのように半自動化してしまうと、頭や心が徐々に硬くなり、視野が狭くなってきてしまいます。
筋肉を使わないでいると、細く硬くなってしまうのと同じことです。
自分でそれと気づかず、薄暗い景色が絶対だと疑わなくなってしまうと、色々な弊害が生じてしまうのです。
一方で、一流の職人というものは、たとえ同じ作業であっても、決して機械的にこなしたりせず、真剣に
心を使います。
真っさらのクリアな状態で、心を縦横無尽に広げます。
真剣とは、新鮮と同じことなのです。
だから、同じ作業の繰り返しであっても、決して心が硬くなったり狭くなったりすることがありません。
しかし、会社の事務処理にそこまで求めるのもなかなか難しいので、企業としては硬直させないために
周辺環境の方を変えさせているわけです。
そもそも営利企業というのは、個々人の豊かさなどではなく、結果や効果の最大化を目指すものです。
そのような視点であっても、意識の硬直というものがいかに不利益であるか、明らかだということです。
発展と存続という企業の大目的は、天地自然の生き物たちと全く同じものです。
その企業というものが、感情論や理想論からではなく経験則から、ドライにそのような判断をしている
わけです。
こうしたことは、日頃の生活にも当てはまります。
いつのまにか半自動化すると、意識が散漫になって、視野が狭くなってしまいます。
そして、その景色が絶対的なものだと思い込んでしまうと、正常な状態に変化することすらも、必死に
阻むようになってしまうのです。
私たちもそうした半自動化による硬直を防ぐためには、職人のように素直な心で一つ一つに集中するか、
企業のように環境そのものを変化させるか、ということになります。
環境変化といっても、ヨソの家庭と入れ替わるわけにもいきませんので、そこは工夫次第です。
要は、心や頭が停止してしまうような状況を無くせばいいわけです。
ルーチン作業の順番を変えたり、やり方を少し変えたり、と。
もちろん今までより効率は落ちるでしょうが、それは企業でも見られることです。
企業でも、多少効率が落ちてもトータルメリットは高いと考えています。
そして、どうしてもやり方を変えられないようなものは、そこに真剣に集中するだけです。
とにかく中心を通すためには何が有効かということになります。
そうなると、凝り固まってしまった心や頭をほぐすために、全く異質の世界に触れるというのも一つの
手になるわけです。
趣味というものもそうですし、未知の世界への好奇心もそうです。
私たちの日常に当てはまることは、会社にも当てはまることですし、それはまた今日の日本ブームのような
趣味や興味にも繋がってくるものであるわけです。
それにしても異国ブームというのは、馴染みのなかった国の文化に触れた時に起きるものなのに、何故
いま日本なのかです。
たとえば、江戸時代のゴッホやモネに見られるようなジャポニズムだったり、高度成長期の日本食ブーム
にしても、未知のものへの知的好奇心があればこそ注目されたわけです。
でも今の、アイドルにしてもファッションにしても、マンガやアニメにしても、あるいは食文化や下町文化に
しても、みんな昔からあるものですし、それなりに世界にも知られてたものです。
そうなると、知的好奇心ではなく何か別の衝動がそこにあるということになります。
つまり、発信側というよりも受信側に変化が起きたということです。
今まで気にも止めずにスルーしていたものが、目に止まるようになったということです。
では、いったいそうしたものの何に惹かれたのでしょうか。
改めて比べて見ますと、過去の日本ブームが、寿司や着物、浮世絵といった見た目も特徴的なものだった
のに対し、現代のポップカルチャーは取り立てて際立ってもなく、どちらかというと日常に近いものです。
そうすると、海外の人たちは見た目の姿形ではなく、中味に惹かれているということになります。
生活に近いものというのは、私たちの素の感性が露わになっているものです。
彼らは、見た目の鮮やかさに刺激を受けたのではなく、その中身に新鮮な風を感じたわけです。
例えば、マンガには日常とは異なる世界が広がっています。
架空の世界に身を投じることによって、日頃の凝り固まった固定観念や社会通念から解放されます。
また、感情移入することで登場人物に自分を重ね、その気持ちを我がことのように感じることもできます。
いつもの自分の思考パターンから離れて、登場人物の心に沿って考えたり感じたりするのです。
映画や小説、あるいは海外のマンガと比べても、そうした感覚や感情の部分に関して日本のマンガは
際立っていると言えるかもしれません。
もともとマンガは、内面描写や感覚描写を自由自在に表現するものです。
そして日本の感性が、その部分をさらに深化させていったということでしょう。
私たちはスッと自然にその世界の中に同化し、知らないうちに深く溶け込んでいきます。
それにも増して、人物の心情や感覚が非常に細やかです。
これは特に私たち日本人が、もともと相手の気持ちを推し量って、無意識のうちに情報を補完しながら
自分の中で膨らましていることも大きいと思います。
そのような読み手の素地があって、書き手もそれを最大限に活かす表現をするわけです。
私たちは、それが当たり前になっているので気がつけませんが、実は大変に緻密なものだと言えます。
マンガを読むのは、頭ではなく、感覚です。
それをスムーズにできるための工夫が、時間をかけて作り上げられました。
実際、私たちの祖父母の世代は、マンガを読めない人が多く居ました。
それは単なる偏見というだけではなく、全く新しい表現スタイルであるために、取っ付きにくかったのだ
と思います。
感覚でもって読むということに、馴染めなかったのではないかと思います。
それほど、マンガというのは独特のスタイルであるわけです。
私たちは、マンガの中に我が身を深く投影させて味わいます。
それはCTスキャンでこの世界に我が身を投影させていることと、相似形を成しています。
このことは映画や小説でも同じことが言えます。
ただ、映画とマンガの違いは、登場人物が俳優ではなくその本人そのものであることです。
つまり、その世界がその人物にとってはリアルそのものなわけです。
喜んだり悲しんだり一喜一憂が、演技ではなく本物なのです。
生死や生活感が、登場人物にとっては本物であるわけです。
死に直面して恐怖するのも本物ですし、かろうじて生き残ってホッとするのも本物です。
だから、私たちが感情移入する場合も、映画の俳優よりもマンガの人物の方が、より深く同化し、その
体験も気持ちも肌身に感じるのです。
それは小説の登場人物でも同じなのですが、小説は周辺描写が客観的で写実的であるのに対して、
マンガは主観的で感覚的です。
そもそも登場人物に成り切る疾走感がマンガの主軸にあるため、そこの差が出てしまいます。
つまり、感覚や感性という点においては、マンガは映画や小説以上に真っさらな状態で他者の疑似
体験をしているといえます。
そのことは、私たちがこの世界に我が身を投影させていることと全く同じものです。
様々な体験をしたいという欲求があるからこそ、マンガも楽しく感じるわけです。
一方でそれは、私たちのこの世界も、頭ではなく感覚で味わうものであることも示唆しています。
疑似体験というのは、他者のことをおもんばかる心を育てることにもなります。
自分の世界だけに固執せず、他の世界に身を置き換えられる柔軟性というものが、知らず知らずの
うちに鍛えられるわけです。
つまり、相手を取り巻く環境を踏まえ、相手の立場に立って、その心情をおもんばかることができる
心です。
それは、優しさであり、寛容さであります。
逆に、ある種の固定観念を植え付けたければ、映画の疑似体験を利用することも可能なわけです。
特定の固定観念を持つ主人公や世界を設定すれば、それが刷り込まれることになります。
いずれ機会があれば触れたいと思いますが、これは大変に重要なことです。
ですから疑似体験する時は、決して中心をそこに置かないことです。
中心は今に置いたままで、心を広げましょう。
ちなみにハリウッド映画や、子ども向けカートゥーンも、現実の固定観念とは違う世界を描きますが、
代わりの固定観念を用意しています。
それはもう、道路標識のようにハッキリと表示されます。
おそらくそのようにしないと、観る側が不安になるのでしょう。
登場人物の置かれた環境設定や立ち位置、善悪などのカラー、そして人生の目的が分かりやすいほど
分かりやすくなっています。
分かりやすいぶん、安心して見ていられるわけですが、それ以外の自由度がないということになります。
観る側が感覚を膨らませるような、行間が無いわけです。
まさに、カートに乗って、ただレールを進むだけの状態です。
この差の出どころは、やはり社会規範にあるのではないかと思います。
端的に言えば、宗教観です。
世界では、まず行動規範となる金型があって、それによって自らを律するというのが大勢を占めています。
キリスト教もイスラム教も教義や経典というものがあって、それが規範となって善悪や価値観が成立して
います。
つまり、自分の外部に道路標識やマニュアルがあることが当たり前なのです。
常にそれに照らしながら、自らを正しているわけです。
それに対して日本には、教義や経典などありません。
規範はそれぞれ個々の中にあります。
お互いに相手のことをおもんばかって、言わずもがなのバランスで成り立っています。
自らの心に照らし、相手の立場に立って考えるわけです。
まさに思いやりです。
だから、教義や経典がないのです。
そんなものが無くても、自然に仲良くやってきたわけです。
日本では、自分の外部に指図書はありません。
そういう発想が無いのです。
明治時代には、そのように教義経典が無いことを、野蛮で低俗な国だとけなされました。
彼ら西洋人の常識からすれば、外部に強烈な行動規範が無ければ、人間は好き勝手をする生き物であり、
それを野放しにしている日本は野蛮で幼稚だとなるわけです。
今ならば、どちらが低俗で幼稚かは、火を見るよりも明らかです。
しかし、普通に当たり前だったことを改めて指摘された当時の人たちは、慌てふためき、無理やり
『武士道』(新渡戸稲造)のようなものを持ってきて、日本人の行動規範を説明しようとしました。
しかし、そんなものは結果としての規範でしかなく、表層的なものでしかありません。
いくら研究したところで、日本人というものを理解するには程遠いものだったわけです。
そして、こうした社会規範の差は、心の投影である文化の中にこそハッキリと現われます。
とりわけ、日々の生活により近い庶民文化の中に、色濃く現われてきます。
ですから、日本ではマンガにせよ芸術にせよ、本当に自由自在なわけです。
世界では、社会通念や固定観念のベースとなる宗教的規範があるため、観る側も作る側も、そこから自由
自在になることを無意識のうちに制限してしまっています。
それが日本では、どんな好き勝手をやっても誰にも咎められないのです。
ましてやマンガやアニメ、あるいはサブカルチャーともなると、価値観を壊すほどカッ飛んでいてこそ面白い
となるわけですから尚更です。
このボーダレスぶりを、私たち日本人は自覚なく自然に受け入れていますが、それこそが海外の人が
もっとも驚くことであり、スコーンと目が開かれる快感になるわけです。
それだけ、海外のほうが、無意識の囚われや自縛が根深いということです。
もちろん、日本人も同じく囚われや縛りの世界に浸かっています。
それでも庶民文化においては、きっちり切り替えて、好き勝手をやっているわけです。
それは、お祭りの時に、全て放りだして無邪気になる感覚と近いものかもしれません。
自分の見えない世界を体感することは、新たな景色が広がりワクワクします。
漫画のブッ飛んだ世界や、繊細な心情変化を観ると、心が洗われスッキリします。
そして、海外の人にとって、その新鮮度合いは日本人の比ではないということです。
それこそが「クール」の正体です。
目薬をさしてスコーンと突き抜ける爽快感。
視界がクリアになって世界が明るくなるようなスッキリ感です。
それはある意味、囚われの心が祓われた瞬間でもあるわけです。
漫画やアニメに限らず、ファッションでもアイドルでも庶民文化でも、そうした日本ならではの開放的な
感性に接した時、彼らは自分たちの自縛から解放されて「クール」になるのです。
また、自分の価値観や固定観念をリセットして、完全に別のものに浸ろうとする衝動の一つが、あの
コスプレなのではないかと思います。
今や日本より、海外の方が盛り上がっていると言います。
変身願望というのは、人間には昔からあるものです。
新たな景色を観たいがために、外の形を変えようとするわけです。
「目に見えない心を変えるために、まず目に見える形を変える」という理屈です。
もともとファッションというのは、そういうものでしょう。
着るものや髪型を変えて気分を変えようとするのは、自分の空気感を変えることによって心の状態も変え
ようというアプローチです。
本来は、心の状態が自分の雰囲気となって外へ現れるわけですが、そこを逆手に取っているわけです。
実際、気分が変われば、心が変わります。
ですから、感覚や感性が鋭い女性たちがそれをするわけです。
男は残念ながら理屈で考えようとする生き物なので、この点では全くかないません。
ただゴルフやスキーなど、ファッションから入ろうとするのは、ある意味、的を得ていると言えるでしょう。
そう考えると、日本のアイドルやファッションが注目されているのも、雰囲気や感覚から自分の心を
変えようとする無意識の衝動によるものなのかもしません。
そして、マンガにせよファッションにせよ、そこには日本独特の感性があります。
それは柔軟さ、寛容さ、自由さ、明るさという、母性的なものです。
海外の人が、昔のような自国の固定観念に固まったままならば、クールジャパンは絶対に起きなかった
でしょう。
自分たちの景色、感性、観念に絶対の自信を持っていたら、せいぜい軽い好奇心どまりです。
ですから、見た目に分かりやすい、歌舞伎や着物、寿司が注目されたとも言えます。
しかし今は、明らかに海外の人たちの心が変わってきました。
それは日本のことを文明的にも文化的にも自分たちと同等と見なすようになったということもあるでしょうが、
それ以上に、自分たちの観る景色に翳りを感じ、閉塞感を覚え始めたからではないかと思うのです。
彼らは、長年、父性に価値観を置いてきました。
自分の考えを先鋭化させて、他を従属させるスタイルです。
これはまさに西洋の家庭教育そのものです。
これまでは、国も経済もそのスタイルで発展を遂げてきましたので、そこに絶対の自信がありました。
しかし経済が成熟し、暮らしも安定した先に、同じやり方では心を満たすものが見つからなかったのです。
そうして、今、母性を欲する気持ちに変わってきたということではないでしょうか。
彼らは何に惹かれているのか、自分でもいまいち分かっていないかもしれません。
理屈ではなく感覚的なものですから、なおさら訳が分からないといったところだと思います。
でも彼らは、何か分からないから排除するということはもう止めて、分からないけど気持ちいいからそこに
飛びこむようになったわけです。
とはいえ、それは諸刃の剣であることも強調しておきます。
現実から離れてそっちの世界に中心を置いてしまうと、それは単なる現実逃避になってしまいます。
せっかく囚われを祓ってスッキリクールになったのに、今度はそっちに囚われてしまうのでは元の木阿弥です。
あくまで現実に中心を置いて、心を広げた自由自在だからこそ、豊かになれるのです。
日本はアマテラス様の国です。
まさに、母性の国です。
世界的に見れば、私たちの国は女神の国なのです。
ガツガツせず、フワッとした優しい感覚。
すべてを受け入れる温かさ。
そして、縦横無尽な心の自由さ。
私たちは、普段そのことを全く忘れて暮らしていますが、それは本当に凄いことです。
女神を頂く国など、世界のどこにもありません。
そして母性とは、全てをそのままで受け入れて包み込む寛容性です。
何をやってはいけないという縛りはありません。
どんなことをしても絶対に見放さない、絶対に守り続けるという心です。
そして、誤ったことに対して西洋の神のように罰をもって正すのではなく、悲しみをもって見守ります。
実際、子どもには、その方が堪えます。
頭で考える損得勘定ではなく、自分の良心が痛むからです。
良心とは、天地の心です。
だからこそダイレクトに響きます。
そのことを知っている私たち日本人は、戒律や教義などで縛ることなく、お互いを信じきれるのです。
私たちは、そうした素晴らしい環境のなかに暮らしています。
海外の人が日本に来ると、その温かい空気と優しい風に、この世の天国と見まがうかもしれません。
外国では、厳しく縛られるのが当たり前だからです。
そしてそれが紳士のたしなみ、真っ当な家庭の情操教育だったからこそ、日本をさげずんできました。
しかし事実は全く逆で、そらこそが天地の心を100%表現したものだったわけです。
我が子を信じきり、全てを本人に委ねて見守る大御心です。
その大きな愛に包まれて、私たちは、自分たちで当たり前に自らを律してきたのです。
天地が私たちを信じるままに、私たちも私たち自身を信じているのです。
クリアであるほどに、良心が響くのです。
しかしそれを、外から律してしまうと、規則や戒律にたがわなければOKという発想になってしまいます。
つまり、自分の中にはそれを律するものがないわけです。
そして、良心の響きを感じることができなくなるのです。
それが、昨今のテロに見られるように、過激な行動も正当化される原因となってしまいます。
そのような現状にあって、感性の豊かな若い世代は、父性優位の価値観に疑問や限界を感じだしたとしても
不思議ではありません。
母性の国は、人間を信じきっています。
だからこそ人々は、自分の心に中心を置いて暮らしています。
それが、正月は神社で、結婚式は教会で、葬式はお寺、というのを自然にできることに繋がります。
あくまで、自分なのです。
それぞれに我が身を置くのではなく、それぞれの大切な部分を掴んで自分の中心で楽しむのです。
どれか一つに限定して自分を縛ることはありません。
もちろん、それぞれに対しては100%の心を向けます。
楽しみきり、味わいきっています。
しかし、それが海外の人には理解できないわけです。
何故100%切り替えられるのか分からず、結局、彼らの世界観の中ではそれは単に自分というものがない
節操のない行為だと断罪するしかなくなるのです。
実際は、全く逆で、自分があればこそできることであって、それができないのは自分がないからなのです。
そして、庶民文化にはそんな自由自在が無限に広がっています。
趣味の世界というのは、私たちの心がフルオープンに解放されます。
サブカルチャーやポップカルチャーというのは、それが結実したものであるわけです。
そんな自由な心、大らかな母性に、海外の人たちは、輝き溢れる世界を見るのだと思います。
そしてそれはサブカルチャーだけでなく、カルチャーすなわち伝統文化にも現れるものであり、学問や科学、
技術といった文明の中にもシッカリと流れているわけです。
マンガやファッションといったポップカルチャーは、ともすれば表層的な軽いものだと思われがちです。
決してそれを持ち上げるつもりはありませんが、そのような思い込みがあると、世のクールジャパンも、
ただ上っ面だけの流行りものだと切り捨てられてしまいます。
しかし見方を変えれば、軽やかだからこそ、素の心が素直に出ているとも考えられるわけです。
そうすると、世界の潮目が変わってきたのではないかということが見えてくるのです。
サブカルチャーという極めて敷居の低いジャンルだからこそ、外国人も警戒することなく心の求めるまま
正直に飛び込むことができます。
素っ裸の心は、核心の部分をダイレクトに感じ取ります。
そうして母性の心に触れて、日本人の感性に浸ることで、それまで頭では理解できなかった景色を、
感覚的に感じ取れるようになってくるのではないでしょうか。
その証拠に、アニメやアイドルの歌を通して日本語を覚える外国人が非常に増えているそうです。
頭ではなく、感覚を開放して接しているから、あっという間に体得するのでしょう。
昔のような片言ガイジンではなく、流暢に喋る人が非常に多くなりました。
そして日本語を覚えていくほどに、ますます日本の感性を分かるようになるのです。
日本語というものは感性の言語であるため、これまで学ぶに難しいものだったわけです。
そうして敷居が解かれれば、あとは伝統文化や価値観へと容易く近づくことができるようになります。
サブカルチャーやポップカルチャーは、そのための入門編と言えます。
父性が幅を利かせている世界にあって、日本は数少ない母性の国です。
かたや、力で押さえつけるものであり、かたや、受け入れ調和するものです。
もしかしたらクールジャパンは、その夜明けを告げる、長鳴鶏の一声なのかもしれません。
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