マルティン・ルター ―ことばに生きた改革者/徳善義和著(岩浪新書)
世界遺産になっているヴァルトブルク城というところがあって、そこにルターがかくまわれている間に聖書のドイツ語訳を成し遂げたという話をテレビで観たことがあった。宗教改革がどんなものかよく知らなかったのだが、そのようにして命からがら逃げていたというイメージが僕の中にあったようだ。実際にルターの関わった宗教改革というのは大変なものだったとはいえ、最初の頃から流血騒ぎになるようなものでは無かったようだ。しかしながら現代の目からは少しばかり奇異に映るような常識的な宗教的態度というものは、ルターが成し遂げた功績が大きいと改めて知ることになる。キリスト教とかかわりのない人にとっても、なかなか興味深いお話なのではあるまいか。
とにかくまじめで勤勉で、実際に頭も良かったらしい。そういう人が聖書を読んで、そしてその内容を忠実に人々に話して聞かせる行為そのものが、すさまじい改革につながっていくことになる。それは何故かということになると、ルター前のキリスト教というのは、いわゆる免罪符をめぐって集金する国の税金のシステムの様なところがあったものらしい。死後や現在の罪を許してもらうためにお金を払って免罪符を買うというシステムによって、ローマ・カトリック教会は絶大な力を手にしていた。宗教というものと国の成り立ちにも大きな関係があって、そのようにして人々を治めるということも大切な要素だったのだろう。しかしながらルターのように、聖書に立ち返ってその内容を誰もが知ることができるとしたら、基本的にその課金システムが働かなくなってしまう。聖書にはお金を払ったものに免罪符を与えることなど書いていないからである。根本がひっくり返るのだからこれはたまらない。たちまちルターは敵対する存在に自然になってしまう訳だ。
それでもルターが守られたという事実は、ルターの考え方に大きな支持が伴っていたからに他ならない。ラテン語で書かれている暗号のような言葉を一部の人が独占する宗教から、誰もが平易なドイツ語で読める、いわば神と身近に接することができるという事実の力が人々を実際に突き動かしていくのである。
ルターは教皇から破門を受けたのだが、実は現在においても解かれていないらしい。なかなかまっすぐな人らしいことは分かるのだが、それが頑固なところでもあって、敵対するととことん喧嘩してしまうという感じもある。なんと言っても総本山の様なところに楯突くのであるから、まわりの人間も困ったことだろう。さらにその宗教者としての信念から修道者でありながら結婚したりなど、批判を受けることも平気そうにやってしまう。楽器をつま弾いて歌ったりもするらしく、肖像画を見るとジャック・ホワイトに何となく似ていたりする。いまだに歌い継がれるルター作曲の讃美歌も多いという。膨大な著書はすべて大ベストセラーだったようだし、まさに壮絶なスターだったということにもなりそうだ。とことん聖書を読みこみ、翻訳し、また解説書を書きまくり、歌も作って自ら演奏する。説教も遠くから多くの人を集めるほど上手かったようだし、まさに時代の寵児を越える存在感の人物だったようだ。後の歴史ではその名声を利用されるような不幸な側面はあったものの、いまだにその偉大な足跡は忘れられることも無いのである。
それにしても、実は聖書に向き合う態度として実直だっただけでなく、この本の副題の通り、言葉を大切にするという行為自体が、ルター自体をゆるぎない巨人にしたのである。翻訳においても言葉の意味を踏み込んで解釈し、読んだだけでその意味が分かるように心を砕いている。そういう作業を若いころから死に到るまで、綿々と続けるということを行うことで、人々から絶大な支持を広げていく。そのような邪念の無い素直な力強さというものは、やはり簡単なようでそうではないということなのだろう。継続は力だというそのままの人だったという、歴史的事実の人だということができるのかもしれない。