ルターを読んでいて思ったのだが、当時のドイツの人に限らず、ヨーロッパの人々は、死後の世界に恐怖して、現世で罪の償いをしておきたいというような考え方をしていたことが分かる。日頃の罪多き行いが、死後に罰せられて業火にかけられるということを本気で恐れていたようだ。そういう恐怖から逃れるために、免罪符を買い求め、心の安心を手にしていた。教会もそういう教育というか、人々の恐怖をあおって集金していたという感じもある。もちろんそれで救われる人はそれなりにハッピーなのかもしれないけど、現代人の目か見ると、なんだかなあ、という気もするのだが、いや、現代においても、似たようなことは民間では、普通に信じられているということもあるかもしれないな、とも思ったりするわけだ。
牛にひかれて善光寺というが、日本でも善光寺のようにお血脈というような、いわゆる免罪符のようなものを売るということがあったようだ。これはほとんどヨーロッパと共通な考え方を基にしているようで、言い方は違うが、地獄から逃れるために人々はお血脈を買い求めたものらしい。文化が違うとはいえ、しかしながら驚くほど人間の考え方は似ているということが言えるのではあるまいか。
しかしながらルターにしても、さかのぼってお釈迦さまにしても、実際はそんなものは無いと否定しているようにも見える。死後の世界は想像上では恐ろしいものであるようだが、しかしやはりそれは想像上のものだ。人間はいつかは死ぬわけだが、たぶん死んだらそれで終わりということしかわかりえない。それがなんだかさびしいという思いもあるのかもしれないが、それ以外に確かそうなことが無いのだから仕方ないじゃないか。
ところが、死後の世界はあんがい良いところらしいというのは、これもよく聞き話である。それには根拠があって、死んだ人が戻ってくることは無いから。こちらに戻ってくる気にならないほど、いいところに違いないのである。真に受けて死に急ぐ必要はないのだけれど、少なくとも死を必要以上に恐れることもないということらしい。
何より死そのものが恐ろしいのは、やはり本能的なものでもあるだろう。そういう本能的な感覚に、さまざまな思考が絡み合って、死後の世界は形成されてしまうのだろう。怖いところであれ、よいところであれ、考えているのは今の自分だ。死後の楽しみは、その時にならないとわからないものの代表だろう。