ヤノマミの事を書いた訳だが、しかし同じようにヤノマミを見た人が僕のように感じたかというのは、あえて少しばかり違うだろうな、ということは前提にあったように思う。制作した側の視点そのものもそうだったし、共感を持って描いている半面、やはりヤノマミの不思議な文化というか、現代人と対比させて原初の人間を考えるという視点があったようにも思うからだ。しかしそれでもそれを見た僕は、恐らく製作者側とは違うものを受け止めてしまうということになってしまった、というのが正確なところなのではなかろうか。
それというのも恐らくそれは、僕の留学経験というのが何より大きいのだろうし、書いていてふと思い出したのだが、同じく最近録画しているものを見た安野光雅という画家のいっていたような事なのではないかと思うのだ。
安野光雅は日本を代表する絵本画家というか、まあ、そういう画家だが、彼もさまざまな国を渡り歩く旅をしたものらしい。そうして異国の地で暮らす人々を見て、まずこんな遠くに来ても、なんと異国の人々が日本人と似ているのだろう、という感想を漏らすのである。
これは一見不思議に聞こえることかもしれないが、実はたぶん普通に感じる正直な感覚なのではないかと思う。異国に行ったというと、日本の人からまず聞かれることは、日本とはどのように違うのかという興味と言っていいと思う。そうであるからご要望にこたえて、異国の不思議なところ、我々と違うところばかり紹介することになる訳だが、そうして確かに違うところというのは子細に語ると語り尽くせないくらいたくさんあることも確かなのだが、実は海外に行ってみてあんがい普通に感じることは、いろいろ言うけど、基本的に日本人と変わらないところが結構あるもんだな、ということなのではなかろうか。むしろ慣れていない頃は、些細な違いが気になるものなのだけれど、慣れてくるとその文化に親しんでいるということは言えるのかもしれないが、しかしそれでも、基本的な人間の感情も含めて理解できるところがたくさん生まれてきて、やっぱり人間的には、何の違いも無いじゃないかと思うような事に至るのである。見た目は大きく違っても、似ていることの方が実はたくさんあるんじゃないか。逆の立場になると、日本人の多くも彼らとおんなじような感覚を持つにいたるのではないか、などと思ったりするのである。
もちろん見た目の生活は、特にヤノマミのような人々は、僕らのそれとは大きく違うことは明らかだ。しかしながら服を着ていないということは見て分かるが、その服の下の体の形は、いったい僕らと何が違うというのだろう。つまり、ヤノマミという意味が人間であるのと同じで、言葉の音として違うだけのことで同じ対象を指しているということであって、極めて根本的に同じことだということと一緒なのである。
そういう視点や体験があって、このドキュメンタリーを見たという個人の感想がそのようになるということではあるのだけど、しかしそれはだから、僕の極めて個人的な感想なのではないだろうと思う訳だ。正しいとか間違っているということではなく、そういう視点でヤノマミのことを考えてみることは、たぶん僕らという存在を素直に見る味方になるんじゃないかと思ったということだ。言い訳じみてしまったけれど、誤解があるとしたら残念なので、ちょっとだけ付記してみたということなのである。