カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

大切なことは外からやってくるのではない

2012-11-12 | 感涙記

 インドに「裸足の大学」というのがあるらしい。動画は検索して簡単に観ることができるので、ぜひ見てほしい。
 なんでこういうことができるのか、ということはとうぜん色々考える。インド人が素晴らしいからというのは当然そうだと思うが、のちのアフリカでも素晴らしいことは可能なようだ。ひるがえって日本も素晴らしいじゃないかという意見もあるわけで、しかし日本の田舎で同じようなことが起こるかといえば、どうなのだろう。いや、起こりうるとは考えられるのだが、しかし同時にやはりちょっと難しそうだというのも分かるはずだ。人間の能力の違いではないことは明らかだが、しかし、これが能力の違いを生みだしてしまっているらしいことも事実らしい。
 実際にはインドの方が困難が多いだろうことは明らかだ。平たく言うと恵まれていない。そのままだと餓死する人も出るかもしれないし、このような素晴らしい学校があっても、その素晴らしさに触れることもできない人が、さらに居る可能性もある。悪循環はおそらく現在だって続いているはずで、根本的に貧困の解決に至っているとはいえないのではなかろうか。しかし大きく貢献しているし、その鍵も握っている。そうしてこの成功は必ず将来にも続いているだろう。
 日本において一番問題らしいのは、実はこの段階はすでに脱してしまっていることだろう。衰退する田舎は存在するが、その上ほとんどの場合再生などはたぶん不可能だが、しかしそれでもこの状態まで将来的に落ちていくまでは、やはりそれなりに時間稼ぎはできそうだ。もちろんそこまで来たら、単に取り返しのつかないということは言えるだろうが。
 さらに一番大きな問題は、激しい危機にありながら、ある意味で本当に放っておかれていないという逆説的な問題があるのだと思う。インドはいくら声を張り上げても助ける人に声が届きはしない。そういう冷たさが、自分の力を磨かせているのかもしれない。だからごくごく弱い立場にいるおばあさんのような存在が、一番重要だったりする。少なくともその場で出稼ぎなどができずに縛られている女性が、大きなカギを握っている。また、政府や意識も含めて、がんじがらめの規制がうまく働いてもいない。歯の治療を字の読めないおばあさんが行っていたようだが、そういうことは、日本ではおそらくどう転んでも不可能だ。実際に確かな技術が認められたとしても、逮捕されるのがオチだろう。
 夢物語に思えるようなものが現実に存在するのは、実は存在できるだけの自由がそこに存在するからだ。自分の力以外頼るものが無いからこそ、自分の力を大いに伸ばすことが可能なのだ。もちろん分野においては恵まれた環境下でなければならない問題は数多くあるだろう。そのようなものには大いに助成なりの公的な援助が必要なことは間違いが無い。しかしながらそうでないものが必ずしもすべてダメだということではない。そのやり方は必死になって自分たちで考えるよりほかにない。外の世界を知ることは重要だとは思うものの、外の世界から助けを借りるだけでは根本の解決など最初から望めない。
 裸足の学校の存在が、裸足の学校以外の人にも大きな希望を与えるとしたら、それはやはり自分自身への勇気につながっているからに他ならない。今立っている自分の周りこそ、本当に見つめなおすことから始める必要があるということなのだろう。


 追記:「裸足の学校」じゃなくて「裸足の大学」でしたね。本文は訂正しておきます。先に読んだ方ごめんなさい。
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