カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

無宗教は困惑されるだろうか

2018-06-04 | culture

 外国人から宗教は何かと聞かれて、返答に窮したという話は聞いたことがある。又は無宗教だと答えて、怪訝な顔をされたという事も。実は僕は、何度かそのような質問を複数の国の外国人から問われたことはある。しかしながら特に信仰は無いと答えたところで、怪訝な顔をされたことは無いし、まあ、そうか、という感じですんなり済んだ。正確に相手が何を考えていたのかまでは分かりえないけれど、困ったことにはなっていない。だから先にある困惑というものを、あまり考えてもいなかった。
 外国人といっても、やはり恐らくこれは西洋人のことを指していて、そうして恐らくキリスト教のことを言っているのだろう。キリスト教である前提が先ずあって、宗教とは宗派を指しているのだ、という話もある。カトリックやプロテスタントというだけでなく、さまざまな宗派があるのだという。まあ、そういうこともあるかもしれないが、要するに信仰してない人というのが、彼らの前提には無いかのような気分があるのだろうと思う。
 しかしながらである。外国人の大多数をやはり知らないまでも、僕は外国人が無宗教であると答えている場面を何度も見ているのである。ある人は西海岸の人だったと思うが、特に信仰してないとはっきり言っていた。子供のころには親と一緒に教会には行っていたが、その後は特に熱心では無いという事かもしれないが、その時に、アメリカにおいてもそんなに信仰に厚い人ばかりでは無いという話をしていた。日本人の僕にあわせてそういう話をしたのかもしれないけれど、まあ、そんな感じである。
 僕の知っている外国人は、圧倒的に中国の人が多いけれど、彼らにしたって、信仰というのは世代的に親以上の習慣だという話は普通にされていた。祖先を大切に思う気持ちはあるにせよ、何かそれが一神教的な信仰であるというような感覚では無いという事のように思う。韓国ではキリスト教が盛んらしいが、アジア的にはそこまで宗教があるかどうかにこだわっていない気もする。もっともやはりタイに行ったときは、仏教だとはっきり言っていたけれど。
 無宗教である日本人は、世界の中で特殊であるという言説は、だからだろうか、少し感覚的に僕には怪しいもののように思える。一神教的な信仰が、紛争の種になっていることは分かっているが、やはり最終的には個人に帰するものだという感覚は、ある程度の国際的な許容としてはあるのではないか。確かに身近にイスラム系の人々に対しての知識が少ないとは思うものの、イスラムにしたって、一般的には自分らと違う宗教の人に(または無宗教に)そこまで関心を抱いてはいないのではないか。
 もちろん原理主義になりすぎると、ちょっと厄介だな、とは感じる。遠くにいるから関係が無いだけのことで、隣人問題としては、共存の問題としては、もう少し踏み込んだ理解は必要だろうけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする