瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

サンシャインシティのダリア展行って来ました。

2021年10月03日 21時09分36秒 | 旅の覚書
本日、池袋サンシャインシティの噴水広場で開催されたダリア展を観に行って来ました。
これは毎年恒例らしく、過去にも何度か観に行ってます。
このブログに確か写真を上げた覚え有るので、良かったら探して御覧頂きたい。(ブログ内検索使えば多分出て来ます)
 
規模は小さいのですが、毎年、趣向を変えて展示するので、結構楽しいのです。
今年は噴水の前にダリアの他、コスモスやススキといった秋の草花を組み合わせ、花の小径が出来ていました。
 
背景の噴水がまるで滝の様で、粋な演出に思いました。
 

 

 
緊急事態宣言解除したばかりの土日という事で、人出は無茶苦茶多かった。
会場入りに人数制限が発動された程ですから。
これ聞いて「東京人はこれだから…まーた感染者数増えるぞ!」と呆れる方も居られるでしょう。
しかしワクチン接種が進んでいる現状で動き出さなきゃ一体いつ動くのか?
そうこうしてる内に経済破綻まっしぐら!
頼りの埼玉県民が来てくれなくて池袋はマルイも東急ハンズも閉店(御免、ハンズは10/31閉店で未だ営業中だわ;汗)、サンシャイン通りがめっきり寂しくなっちゃいましたよ!!
またどうせ暖房入れる冬が来たら感染者数増えるんだから、冷暖房止めて換気良くなるだろう秋に経済動かしとかんと!
 
ダリア展を協賛してるのか、売店ブースでは花木だけでなく、福島米も販売してました。
歩いて来たんじゃなけりゃな〜買いたかった。
イベントでは買い易い様におにぎり等も作って販売してくれると有難い。
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旅の覚書(目次2015年~)

2021年09月26日 16時53分30秒 | 旅の覚書
この目次頁はハウステンボス旅行以外の旅の纏めで、各タイトル横の日付は実際の訪問日です。
何となく旅行地ごとに分けてあり、下に行くほど何となく古い記事になってます。

【~2014年分はこちら

●師走の箱根(2019年12/1~12/2小田急山のホテル泊)…()富士と紅葉 ()箱根神社と紅葉 ()つつじの茶屋で河豚懐石、ヴェル・ボワでモーニング ()箱根ガラスの森美術館
●夏の箱根(2019年7/7~7/8小田急山のホテル泊)…()「ヴェル・ボワ」ディナー ()「つつじの茶屋」朝食膳 ()「ラウンジ・バー」アフタヌーンティー
●冬の箱根(2018年1/14~1/15、2019年2/8~2/9小田急山のホテル泊)…()「サロン・ド・テ・ロザージュ」とラウンジ・バー ()「ヴェル・ボワ」と「つつじの茶屋」
●箱根(2016年12/9~12/10小田急山のホテル泊)…()箱根ガラスの森美術館 ()「つつじの茶屋」の河豚懐石 ()「ヴェル・ボワ」の朝食、鈴廣かまぼこの里

●小田原(2017年春)…()「鈴廣かまぼこの里」・「小田原城」・「和菓子菜の花」

●横浜みなとみらい地区夏祭り「ピカチュウ大量発生チュウ!」…()2017年8/9、()2018年8/10、2019年8/10
●横浜の薔薇(2018年5/12・5/19、2019年5/5~5/6)
)アメリカ山公園・岩崎博物館 ()港の見える丘公園 ()山手イタリア山庭園 ()山下公園・ホテルニューグランド ()マリーンシャトル&シーバスでクルーズ ()横浜土産
●クリスマス山手西洋館巡り(2017年12/2)…() (

●藤子・F・不二雄ミュージアム(2019年5/2)…(

●10月の那須(2017年10/29~10/31ホテルエピナール那須泊)
)メリメランジュの夕食 ()那須どうぶつ王国:前編 ()那須どうぶつ王国:後編 ()ホテルの紅葉観賞ツアー
●6月の那須(2017年6/23~6/25ホテルエピナール那須泊)…()メリメランジュの朝食 ()那須土産

●竜神大吊橋、ひたち海浜公園、茨城県フラワーパーク(2019年10/19)…(
●国営ひたち海浜公園(2019年4/20)…(

●春の神田川橋巡り(2020年春)
)井の頭公園内ひょうたん橋~狛江橋 ()井の頭自然文化園水生物園 ()井の頭弁財天堂、井の頭自然文化園本園 ()井の頭自然文化園本園彫刻館~玉川上水~ジブリ美術館~お茶の水~弁天橋 ()水門橋~神田上水橋 ()あしはら橋~宮下人道橋 ()都橋~やなぎ橋 ()あづま橋~塚山橋 ()鎌倉橋~神田橋 (10)かんな橋~番屋橋 (11)一本橋~睦橋 (12)栄橋~氷川橋 (13)中野新橋~宝橋 (14)菖蒲橋~万亀橋 (15)大東橋~瀧澤橋 (16)落合橋~神高橋 (17)高塚橋~仲之橋 (18)豊橋~江戸川橋 (19)華水橋~船河原橋~小石川後楽園 (20)小石川橋~聖橋~神田明神 (21)昌平橋~和泉橋 (22)美倉橋~柳橋~隅田川テラス
●春の神田川橋巡り(2018年春・2019年春)
)柳橋~美倉橋 ()和泉橋~万世橋 ()昌平橋 ()聖橋~お茶の水橋 ()水道橋~小石川橋 ()船河原橋~石切橋 ()古川橋~大滝橋 ()駒塚橋~曙橋 ()高戸橋~神高橋 (10)清水川橋~瀧澤橋 (11)新堀橋~大東橋 (12)万亀橋~伏見橋 (13)栄橋~菖蒲橋 (14)宝橋~皐月橋 (15)中ノ橋~壽橋 (16)高砂橋~上水橋 (17)方南橋~神泉橋 (18)蔵下橋~弥生橋 (19)睦橋~塚山橋 (20)堂ノ下橋~あづま橋 (21)やなぎ橋~都橋 (22)宮下人道橋~神田上水橋 (23)夕やけ橋~井の頭公園内七井橋 (24)井の頭公園内お茶の水橋~弁天橋 (25)井の頭公園内狛江橋

●東京スカイツリー(2020年9月)…(
●東京旅(2020年9月:品川プリンスホテル泊)…()隅田川クルーズ ()リュクス・ダイニング・ハプナ ()マクセルアクアパーク品川
●池袋西武デパート屋上:食と緑の空中庭園(2020年初夏)…(
●旧前田家本邸、迎賓館赤坂離宮を訪ねるポケカルバスツアー(2018年12/22)…(
●ポケモンカフェ(2018年11/10&2019年6/2)…()(2019年10/5)…(
●ポケモンカフェスタンド(2020年1~2月頃)…(
●関東東海「花の展覧会」…2015年()()、2017年、2020
●世界らん展…2019年、2020

●川越(2019年4/7)…(
●越生の梅祭(2019年早春)…(

記事上の写真は元町商店街に在る老舗洋菓子店「喜久家」のラムボールと、日本大通りに在る老舗「横浜かをり」のレーズンサンド。
どちらも長く横浜の住人に愛される銘菓です。
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桜橋~神田川を下る旅~その22

2021年08月03日 23時54分14秒 | 旅の覚書
前回「桜橋~神田川を下る旅~その21」に引き続き、今回は上流から数えて140番目の美倉橋~143番目の柳橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。
夏まで引っ張って来た春の桜の記事も今回で最終回!…何とか秋が来るまでに終わらせられた~!(汗)

源流から数えて140番目の橋…「美倉橋」
昔この付近に三つの倉が在った為、「三倉橋」と呼ばれていたのが、転じて「美倉橋」に変わったとか。
現在、名前の由来である三つの倉をイメージした公衆トイレが、この橋の上流側袂に建っています。
更に橋の三方の袂に児童遊園が造られており、周辺は明るく開放的な雰囲気です。
上流側のガス管はユリカモメ達にとっての「止まり木」、晴れた日など大抵数十羽留まってる光景を目にします。
しかし2020年春に訪れた際はまるで夏みたいな陽気で、直射日光が強過ぎたせいか一羽も見掛けませんでした。
その為、別の日に再度撮影しに行ったのです。
 

 
↑同じ美倉橋上より上流側を向いた風景なのに、ガス管にユリカモメが留まってるのと留まってない写真が混じってるのは、そういう理由です。

↑美倉橋上より下流側を向いた風景…一筋の小川が流れを集めて下って行く内に、こんなに大きく育ちました!

☆美倉橋~左衛門橋間に在る立ち寄りスポット…「清水扇稲荷神社
迂回路として選んだ柳原通りの途中、角に隠れる様に建っていました。

千代田区観光サイトの記事によると、祭神は宇賀霊尊——日本神話に登場する「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」ですな。
古来は穀物神として祀られ、中世以降は福の神、お稲荷さんに呼び方が変わり、農民や町民・商人から広く信仰を集めた神様です。
元は相模国鎌倉の「扇か谷
」に社殿を構えていたのが、応仁二年戌子(1466年)の八月の大洪水で社殿が破損した為、武州豊嶋郡清水村の「太郎兵衛」所有の地内に仮遷座する事になったらしい。
以降この神祠は「清水扇稲荷大明神」の名で呼ばれる様になったとか。
現在の真新しい社殿を見る限り、比較的近年にリニューアルしたと思われます。

 
源流から数えて141番目の橋…「左衛門橋」
橋名は江戸時代に荷揚げの河岸として知られた「左衛門河岸」が由来だそう。
美倉橋と同じく橋の両袂には樹木が植えられ、特に下流側は児童向けの遊具を設置した小公園が設けられています。
美倉橋とこの左衛門橋までは両岸とも千代田区、これより先の下流に架かる橋は台東区と中央区の境に架かります。
上流側と下流側、同じ橋の上なのに、観える景色がガラリと違ってて興味深い。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、左衛門橋上より上流側を向いた風景…この写真だと違いが解り難いでしょうが(汗)、
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、左衛門橋上より下流側を向いた風景…上流側に一つも無い屋形船が、この橋の下流側より道路を埋める車の如く係留されてるという。
上流側は船が係留されていないのは、千代田区の条例で禁止されている為だとか。
つまり左衛門橋の上流側までは千代田区管轄で、下流側から先は中央区、或いは台東区の管轄ではないかと。
橋の下流側に在った案内看板によると、江戸時代この付近には関東郡代の役宅が建てられてたらしい。

「江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した、関東郡代の役宅が在った場所です。
 関東郡代は、天正十八(1590)年、徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の次男忠治が、寛永十九(1642)年に関東諸代官の統括などを命じられた事により事実上始まるとされます。
 元禄年間(1688~1704年)には『関東郡代』と言う名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
 その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内に在りましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、『馬喰町郡代屋敷』と称されました。
 寛政四(1792)年に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねる事となり、この地に居住しました。
 文化三(1806)年に関東郡代制が廃止され、更に屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、『馬喰町御用屋敷』と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く『郡代屋敷』と呼んでいました。」(←現地案内書きより)

…世襲制の高級官僚とは時代劇なら悪役間違い無の配役(笑)、現に途中で罪を罰され失脚してるし。
つっても失脚した伊奈忠尊さんを検索してみたら、仕事しない無能ではなく、「在任中に関東水害の対策や江戸打毀し騒動を収拾、窮民救済、米穀払底対策に敏腕を振るい、心学の普及などで活躍」した有能な方だったもよう。
しかし「養子忠善の出奔による家事不行届その他の理由で罷免」されたそうな…己の罪ではなく、お家のゴタゴタ&養子の罪の責を背負って辞めさせられたとは気の毒な。(涙)
この機会に名前と墓の場所覚えといて、機会が有ったら墓参りにでも行こう。 


源流から数えて142番目の橋…「浅草橋」
都営地下鉄&JR総武線の駅名に使われてる事情から、橋名の知名度は非常に高いと思われ。
名前の由来は江戸城「浅草御門」に由来するそう…上流側に設けられた台東区立「浅草橋公園」には、「江戸城浅草見附跡」が在ります。
側に立ってた案内看板によると、浅草観音への道筋に当たる事から「浅草御門」が築かれ、警護役が詰めてた場所は「浅草見附」と呼ばれたそうです。
寛永十三(1636)年、ここに初めて橋が架けられた時は、浅草御門前に在った事から「浅草御門橋」と呼ばれてたそう。
その名前が時を経てく内に縮められて、「浅草橋」に変わったらしい。
…「江戸城浅草見附跡」は寄るのを忘れ、写真を撮り損なったのですが(汗)、同じく上流側に在る江戸城所縁スポット、「出土した江戸時代の石垣石」は観て来ました。

☆浅草橋側の立ち寄りスポット…「出土した江戸時代の石垣石」
上流から下った場合、柳原通りを歩いて行き、浅草橋に到る前の開智日本橋学園中学・高等学校前に、案内書きと共に置かれています。

「この石が出土した場所は、ここから西へ約50~60m先へ行った所になります。
 そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った『柳原土手』と言う土手でした。
 神田川は江戸城の防御の為の堀の役割も果たし、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東を護る浅草橋御門と呼ばれる城門が在り、この一帯は江戸城内でも重要な位置に当たります。
 この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行われた発掘調査において、地下1m程で発見されました。
 伊豆半島辺りから運ばれて来た安山岩質の石です。
 こうした石が6段前後、高さ3~4mに数十個積まれた状態で見付かりました。
 これは江戸城の防御を固める石垣です。
 土手の南側を補強する意味も有ったかもしれません。
 土手の形に沿って東西に長く築かれていました。
 今回の発掘調査で、初めてここに石垣が築かれていた事が判った新発見の資料で、正にこの一帯が江戸城の一角を成していた事が解る貴重な出土遺物です。
   — 開智日本橋学園中学・高等学校 —」
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、浅草橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、浅草橋上より下流側を向いた風景。
…上流側、下流側とも、屋形船が密集しています。
いつもは日が傾く頃に屋形船が出航して川面はもぬけの殻になるのですが、御存じの通り2020年初めに屋形船内で起きた新型コロナのクラスターの影響により、客がめっきり居なくなって営業停止する船が相次いだのです。
その後起きた豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号でのクラスター騒ぎと相まって、船その物に危険なイメージを世間から抱かれたのが痛かった。
真実は人が密集して換気の悪い場所が危険なんであって、船が危険な訳じゃないのにね…晴れた日に屋形船で数人、窓を開放して川辺の景色を眺めるツアーだったら、寧ろ危険は少ないだろうと思う。

浅草橋~柳橋間のみ、川沿いの遊歩道が復活します。
歩けば海から吹く潮風の匂いに川の終着を実感するでしょう。

☆浅草橋~柳橋間に在る立ち寄りスポット…「初音森神社
遊歩道から外れますが、付近のパワースポットを幾つか紹介——1カ所目は柳橋方向へ歩く途中の、両国郵便局通りに面したビルの中に在る稲荷神社です。
「馬喰町・横山町・東日本橋の鎮守、初音森神社は、元弘2(1332)年、藤原大納言師賢公が東国に配流の時、初音の森に参篭し、その草庵に稲荷大明神を勧請し白峯宮と共に奉斎したのが創祀であると云われる。
 初音之里に住んでいた源兵衛の幼児が重傷で命も危なかった時、母が初音森の神祠に七日の願をかけた。
 満願の夜、一人の女性が現れて病児に乳を与える夢を見た母が目を覚ますと、病児は女性の後を追い嬉々として声を上げ、病気は忽ち良くなったと人々が伝え聞き、願をかけて皆御利益を得た。
 そして里人の信仰するところとなり、氏神と敬われたと伝えられる。」(←神社のHPより抜粋)
 

 
↑2階外宮に鎮座するお稲荷さん…丸っこくて可愛い親子狐像ですね。(笑)

☆浅草橋~柳橋間に在る立ち寄りスポット…「篠塚稲荷神社
こちらは対岸の、柳橋篠塚通り途中の角に在る神社です。
 
「当社の創起年代は詳らかではないが、古記に『大川辺に高き丘在り篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る』とあれば、悠久の昔より奉斎し奉りあり。
 正平年間(室町南北朝時代の1346~1370年間)新田義貞の家臣、篠塚伊賀守重廣、主家再興の祈請をなし、来国光の刃を神前に捧げ、社傍に庵を結びて出家し、日夜参篭怠うす(参籠=祈願の為籠る事、恐らくは籠って祈願怠らずという意味かと)為に、いつしか『篠塚稲荷大明神』と尊称するに至った。
 延宝九(1681)年三月、神社別当僧たる伊賀守子孫に、醍醐寺三宝院御門跡より、『篠塚山玉蔵院宗林寺』の称号を賜り、元禄六(1693)年二月、本多紀伊守殿寺社奉行の折には、御府内古跡地と定められたが、明治初(1868)年、神佛分離の際、玉蔵院は廃せられた。
 古来より商売繁盛、火防(ひよけ)神として、厚く尊崇奉る。」(←御社側に記された社歴より)
…江戸時代、道を歩けば即突き当たるほど、数多くの稲荷神社が建っていたとの事。
明治時代にかなり御社の数を減らされたものの、ひっそりと鳥居だけが残されたり、隠れキリシタンの如く物陰に小さな御社が設けられてたり、目立たなくなっただけで信仰は土地に残されてる例が多いです。
特に商人が多い町での信仰は篤い…また本来農耕神だった由来から、水場に多く見られるんだとか。

 
源流から数えて143番目の橋…「柳橋」
神田川最下流に架かる橋——遂に辿り着きました!!
爽やかな緑色をした、独特な形状のアーチ橋です。
側に立ってた案内看板によると、関東大震災からの復興のシンボルとして架けた橋梁という事で、中央区民文化財に指定されてるそうです。

「柳橋は神田川が墨田区に流入する河口部に位置する第一橋梁です。
 その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十(1697)年に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、『柳橋川へ蒲団をほうり込み』と川柳に見られる様な賑わい振りでした。
 明治二十(1887)年に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二(1923)年の関東大震災で落ちてしまいました。
 復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて、各々デザインを変化させる工夫をしています。
 柳橋はドイツ、ライン川の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四(1929)年に完成しました。
 現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三(1991)年に整備し、平成十一(1999)年に区民有形文化財に登録されています。」(←現地案内看板より)

↑案内看板と共に側に在った「復興記念碑」。
尚、橋名の由来は——
「この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一(1698)年の事で、『川口出口之橋』或いは近くに幕府の矢の倉が在った事から『矢の倉橋』と呼ばれていました。
 柳橋の由来については、
 1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、更に柳橋となる。
 2)柳原堤の末に在った事に由来する。
 3)橋の袂に柳の樹が在った事に由来する。
 この様に諸説有りますが、真説は不明です。
 明治維新後、柳橋は新橋と共に花街として東京を代表する様な場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であった様です。
 区では、平成三(1991)年度に、優美な形をしたこの橋を後世に伝える為、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで『かんざし』を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。
 また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる『柳橋』の存在感をもたせました。
  橋梁の諸元…形式:タイド・アーチ橋 橋長:37.9m 有効幅員:11m(車道6m、歩道2.5m×2) 建設年次:昭和四(1929)年12月(復興局施行)」(←現地案内看板より)
 
「幾つかの町が整理統合され、昭和九(1934 )年に誕生した。
 旧『浅草柳橋』と言う町名の由来は、神田川の隅田川合流地点近くに『柳橋』と称する橋が在ったのに因んだ。
 柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋の畔には船宿が並んで賑わっていた。
 一頃は、料亭及び芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。」(←現地案内看板より)

↑柳橋上流側の袂に在る舟宿「小松屋」…江戸時代の雰囲気を醸した小料理屋です。
後ろの八重桜は、神田川沿いに咲く最下流の桜という事になるんではないかと。
 
↑柳橋上より上流側を向いた風景…屋根に留まるユリカモメ達が、新型コロナ流行の今、「閑古鳥」を表してる様で涙を誘います。
屋形船を経営している会社の内、クラスター発生の影響から潰れた所も在るでしょう。
新型コロナ流行さえ起きなければ、東京五輪を機に訪れた外国人客相手に商売繁盛、我が世の春を迎えていたでしょうに…収束したら政治家は屋形船で連夜どんちゃん騒ぎをして、イメージアップに努めて頂きたい。
マスコミは叩いても私が許す、田中角栄ばりにそうやって金を遣う事も、政治家や芸能人の役目だと考えてる。

↑柳橋上より下流側を向いた風景…目の前に海の如く広がるそこは隅田川。
井の頭公園より流れ出た神田川は、この隅田川と合流する事で、終着を迎えます。
写真に写る橋はかの有名な「両国橋」、渡った先の対岸には相撲で知られる「両国国技館」が在ります。

☆柳橋側の立ち寄りスポット…「両国稲荷神社」
最後に紹介するパワースポットは、両国郵便局通りの端、ビルの隙間に隠れる様に在る為、かなり見付け難いでしょう。

↑写真の通りビルの隙間の階段裏に、小さな御社が設けられてます。
付近に社記などの掲示が一切無い為、詳しい事は全くの不明。
ネットで検索したところ、両国稲荷神社について紹介している記事がヒットしましたので、お読み頂きたい。(→https://sanpo-nikki.com/shrine/ryougokuinarijinja/)
こちらの記事によると、昔は柳橋が架かる東日本橋エリアを、「両国」の名で呼んでいたそうで、神社名は旧町名の名残を伝えてるんだろうとの事…成る程と納得致しました。
言われてみれば今、「両国」は隅田川向うの対岸の町を指しますもんね。

☆柳橋下流側の立ち寄りスポット…「隅田川テラス
隅田川の堤防を補強する護岸基礎を親水施設として開放した場所で、約28㎞区間に渡り続くテラスです。
こちらも春は桜の花見の名所として知られてます。
 
↑テラスへの出入口は階段…直接対岸に渡れない点が若干不便ですが、だからって歩道橋造ったら川の景観悪くなるから、諦めて回り道するしかないね。
 
↑展望の良さは御覧の通り、東京スカイツリーに両国橋、対岸の首都高速道を眺めます。
夜は街の照明が瞬いて綺麗でしょうねぇ。
テラスを暫く歩けば、隅田川遊覧船が発着する「東京水辺ライン発着場」に着きます。
以前乗船した際の記事を上げていますので、宜しければ御覧ください。
ついでにスカイツリーに訪れた際の記事も併せてどうぞ。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、隅田川テラスより両国橋を望んだもの。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、隅田川テラスより柳橋を望んだもの。
 
↑隅田川テラスより、隅田川・総武線鉄橋・スカイツリーを望んだもの。
川下り終盤の道連れ総武線とは、ここでお別れです。

↑隅田川テラスに係留されてた警視庁巡視船。
付近に在る東京湾岸警察署隅田川水上派出所の船らしい。
川を使って逃げる犯人をこの船で追うんだろうか?…想像したら格好良い。
 


↑人が近付いても動じない、ふてぶてしい面構えのユリカモメ。
しかし隅田川にプカプカ浮かぶ姿は可愛かった。

…これにて2020年、神田川を下る旅のレポ、無事終了~!
ここまでお読み頂いた方、お疲れ様&有難う御座いましたー!!
尚、しつこい性質なんで、来年春も川下り記事を上げる予定——次は神田川支流の1本、妙正寺川だ!!

【完】
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桜橋~神田川を下る旅~その21

2021年08月02日 00時40分16秒 | 旅の覚書
前回「桜橋~神田川を下る旅~その20」に引き続き、今回は上流から数えて136番目の昌平橋~139番目の和泉橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は主に一年前の2020年3月末頃です(一部、今年撮影した写真も含みます;)。
で、前回「今回で終わり」とか言いましたが…済みません、後もう1回続けさせて頂きます。(汗)

 

 
源流から数えて136番目の橋…「昌平橋」
「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1624~1644年(寛永年間)に架けられたと伝えられています。
 橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷(現在の太田姫稲荷神社)が在り、一口(いもあらい)橋とも呼ばれました。
 他にも、相生橋と言う呼称も有りました。
 その後、1691(元禄4)年に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷に因んで『昌平(しょうへい)橋』と呼ばれるようになりました。
 少し下流に在った筋違(すじかい)門と共に、中山道・日光御成道(おなりみち)の主要道路として利用されており、橋の南側は『八つ小路(やつこうじ)』と呼ばれる広場として賑わいました。」

「御成道とは、徳川将軍が参詣等で通る道筋の事を言います。
 江戸時代、この場所には江戸城外郭門の一つ『筋違門』が在り、上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいました。
 『筋違門』の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と御成道が筋違に交差していた為です。
 門内には火除けの広小路が在り、八つの口に通じていた為、俗に『八つ小路』と呼ばれていました。」
                  ↑昌平橋側に立ってた案内看板より。

…現在の橋名は、前回紹介した聖橋の袂に建つ湯島聖堂内の孔子廟が由来になってるのですね。
重厚で精巧なデザインの親柱は、古くから主要道に架かる橋として利用されて来た歴史を暗示しています。
外堀通りと旧中山道が交わるこの場所は現在も交通の要、車両だけでなく複数の鉄道がこの橋の周囲を行き交います。
 


↑昌平橋上より上流側を向いた風景…中央線と総武線が——聖橋の方へ目を向けると地下鉄丸ノ内線が走る風景…コアな鉄道ファンになると、3本同時に写真に収める為、時刻表を元にシャッターチャンスを狙うのだそう。
鉄道ファンじゃない自分は、あっさり諦め、別々に収めました。

↑昌平橋上より下流側を向いた風景…右側の建物は旧万世橋駅の遺構。
 
↑下流側左岸に在る駐車場付近は、ユリカモメの休憩所になってました。(渡り鳥なんで、季節によっては観られない風景です)
…海に近付いてるのを実感する光景です。

↑昌平橋から次の万世橋まで、高架橋下に飲食店が続いており、食欲が刺激されます。
古い煉瓦造りがお洒落ですが、この造りは単なるデザインではなく、嘗ての旧駅の歴史に関わっています。
その話は下記にて——

 
源流から数えて137番目の橋…「万世橋」
これまた時代がかった重厚な親柱、背景にはそんな古式ゆかしい親柱のデザインにそぐわぬ近代的な秋葉原のメインストリート——最新のオタク文化を世界に発信するこの場所で、嘗て中央線の神田~御茶ノ水間に在った「萬世橋駅」の遺構が発見されました。
 
↑万世橋上より上流側を向いた風景…左側の煉瓦造りの古い建物が、嘗て中央線の神田~御茶ノ水間に在った、「萬世橋駅」の遺構です。
明治45(1912)年に開業し昭和18(1943)年に休業となった旧駅のホームや階段が、現万世橋付近の高架橋の中に一部発見されたのを機に、旧万世橋駅の遺構を「交通博物館」として再生したのです。

☆万世橋側の立ち寄りスポット…「旧万世橋駅(&マーチエキュート神田万世橋)」
施設の見所は、旧万世橋駅の開業時のホームを蘇らせた「2013プラットホーム」。
硝子で仕切られた展望カフェデッキに座り、中央線が両脇を行き交う様子を眺めれば、萬世橋駅が現代に蘇ったかの様に錯覚するでしょう。
現駅と旧駅の歴史が交差する浪漫溢れるスポット、SFと鉄道が好きな松本零士先生なら、作品を思い付いてくれるかもしれません。
 
…あいにく自分が訪れた日は、新型コロナ流行の影響で、交通博物館内を見学する事は叶わず、ライブラリー内の萬世橋駅周辺を再現したジオラマ模型のみ見学して来ました。
高架橋下に造られたショッピングストリート、「マーチエキュート神田万世橋」も覗いて来ましたが、こちらも新型コロナ流行の影響か、レストラン・バーが閉店してたりして、以前観た時より大分寂しい風景になってました。
閉店したフロアは無料で開放されてた為、周囲の風景を撮影するには有難かったですが。
 
↑万世橋上より下流側を向いた風景…次に架かる橋との間にはJR線鉄橋が架かります。
鉄橋を通る鉄道は、山手線、宇都宮線(東北本線)、高崎線、京浜東北線、北陸・上越・秋田・東北新幹線とバラエティー豊か、地図で線路を数えたら10線程有りました。

「明治5(1872)年に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。
 この橋は、当時東京府知事の大久保忠寛が『萬世橋(よろずばし)』と命名したが、次第に『まんせいばし』という音読みが一般化した。
 更に明治29(1896)年に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
 明治36(1903)年に現在の位置に新しい萬世橋が架け直され、元萬世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は後に撤去された。(勿体無い…)
 この新しい萬世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12(1923)年の関東大震災で被災し、昭和5(1930)年に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。
 現在、神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正年末から昭和初期に架けられた物で、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたと云う。
 トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川に架かる震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見出せる。」(←万世橋側の案内看板より)

…神田川下流に架かる各橋が、それぞれ異なるデザインなのは、震災復興のシンボルとして建造されたからなのですね~。

 

 
源流から数えて138番目の橋…「神田ふれあい橋」
道の切れ込みからひっそりと続く歩行者専用橋です。
出入口を見落としがちなせいか、側の街灯に表示看板が吊り下がってる…それでも見落とす人が居そうな程、道の死角に隠れる様に在ります。
元は新幹線工事用の作業橋だったのを、新幹線開業前の1988年、一般に開放したのが始まりとか…これは新幹線東京駅乗り入れに反対していた神田地区の住人との交渉から、妥協策として導かれたらしい。
江戸町火消しの纏をモチーフにした親柱が洒落てる、実は左岸と右岸で親柱のデザインが違ってる事に、去年初めて気が付いたという。(汗)
 
↑橋の上流側は写真の通り新幹線の防音壁が築かれ風景が望めないので、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の下流側を向いた風景のみ上げます。
右岸に見える柳森神社には、「秋葉原」の地名に纏わる神様が祀られています。

☆神田ふれあい橋側の立ち寄りスポット…「柳森神社
狭い社内に小さな境内社が肩を寄せ合う様に集合してる神社です。
明治時代の神社合祀政策に因るものかな?
 
↑「福寿神(徳川桂昌院殿)」——柳森神社内で最大の境内社、参拝時、緑色の桜(ウコン?)が咲いてて綺麗でした。

「江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍綱吉公の御代、将軍の御生母『桂昌院』様によって、江戸城内に『福寿稲荷』と称して創建された。
 桂昌院様は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍家光公の側室となり、五代将軍綱吉公の御生母となる。
 大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと挙って御狸様を崇拝したと云う。
 後世、元倉前甚内橋際、向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祀されました。
 開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上等に御利益が有ると信奉されております。
 尚、当社において頒与する『おたぬきさん』と呼ばれる土製の親子狸の御守りは、素朴で、大変愛されております。」(←案内看板より)

↑後方、少し離れた所に建つ「おたぬきさん」の小社。
…なかなか可愛いじゃないか「おたぬきさん」!こんな愛嬌有る御守りなら、確かに人気を呼ぶだろう。

↑他に、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本宮とする、海運業者や商人から信仰を集めた「金刀比羅神社」や、

↑広島県宮島厳島神社と神奈川県江の島の江島神社と所縁が在るかもしれない「水神厳島大明神・江島大明神」や、

↑江戸時代に火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰を集めた「秋葉大神」を祀る小社が建っています。
説明の必要無いでしょうが、こちらの「秋葉大神」様こそ、「秋葉原」の地名の由来になった神様です。

↑更に商人からの信仰を集めた明徳稲荷神社、

↑同じくお稲荷様が祀られてる幸神社も建っています。

↑更に更に境内の一角には、丸くて大き目な謎の石が、ゴロゴロ積まれていました。
案内看板によると、これらは「力石群」と呼ばれる、千代田区指定文化財だそうです。
「江戸時代には、若者達の間で、重量の有る石を持ち上げて力自慢を競う事が流行しました。
 明治時代の中頃から次第に衰退しましたが、大正時代になると再び盛り上がりを見せます。
 柳森神社の境内に在る力石の一群は、当時の力士で大関として名を上げた『神田川徳蔵』こと飯田徳蔵と、その一派が生前使った石の一部で、彼らの業績を記念し後世に伝える為に集められた物です。」
 
↑更に更に更に、境内の出入口側には、富士講所縁の石碑群も保存されてました。
こちらも同じく千代田区指定文化財だとの事。
「5つの石碑群は、柳森神社周辺に存在した富士講の名残を今日に伝える物です。
 富士講とは、富士山信仰を元に成立した民間信仰の一種で、江戸時代、特に町民や農民の間で流行しました。
 柳森神社は、1680(延宝8)年に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を合殿・合祀した経緯から、富士講と深い関わりを持つ場所でした。
 『東都歳事記』には、天保年間(1830~1844年)頃の『富士参(富士浅間神社への参詣)』の例として柳森神社の事が採り上げられています。
 1930(昭和5)年には、境内に富士塚と呼ばれる、富士の溶岩石を積み上げて富士山に模した塚も築かれましたが、1960(昭和35)年に取り壊され現存していません。
 石碑群の銘文には、富士塚が築かれた時期に近い、大正や昭和の文字が在り、この頃に富士講を再興させようという動きが有った事が解ります。」
 
↑手水舎には浅間神社の札(?)が貼ってありました。
…総合するに、江戸時代のパワースポットを纏めてお祀りしたのが、「柳森神社」という事らしい。
そんな江戸庶民からの信仰を集めた神様達の御社に居付いてるのが、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真のデブ猫——撮影出来なかったけど2018、2019年にも見掛けたので、本格的に居付いてるもよう。
休憩中のサラリーマンから餌を貰い可愛がられてるせいか、丸々と肥えていました。
「おたぬきさん」に因み、「おねこさん」とお呼びしよう。


源流から数えて139番目の橋…「和泉橋」
橋の上を昭和通りが走る大きな橋、昭和通りの上には首都高速が走っています。
今回紹介した昌平橋から和泉橋までは、両岸とも千代田区に架かります。

↑和泉橋上より上流側を向いた風景…写真、右岸には防災用の船着き場が整備されています。
ユリカモメが羽を休めてる光景をよく見掛けるのですが、残念ながら訪れた日は一羽も居ませんでした。
目線を奥に移すと、先に紹介した神田ふれあい橋と鉄道橋——タイミング良く東北新幹線が通過して行きました。
 
↑橋の下流側へ向かうには、歩道橋を使います。
 

 


↑歩道橋上から撮った橋の写真…高速道の振動が常に歩道橋を揺らすので、結構スリル有ります。
 
↑和泉橋下流側に植えられた桜(河津桜?)と、和泉橋上より下流側を向いた風景。
次の橋までは結構距離有るのを感じますね~。
おまけに下流域に入ると川に沿って歩く事が叶わず、迂回続きになるので疲れるのです。

↑…という訳で、次の美倉橋までは、「柳原通り」を歩いて向かいます。
この付近は側に立つ案内看板によると「既製服問屋街発祥の地」だそうです。

「江戸時代後期、昌平橋から浅草橋の間に在った柳原土手に沿って、古着を扱う床店(とこみせ=露店の意味)が設けられ、日本橋富沢町と共に、江戸市中の古着を扱うマーケットの一つとして知られました。
 明治維新後の1881(明治14)年、岩本町古着市場が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
 日常衣類として洋服が普及し、一般の人々の需要の中心が既製服へ代わると、この地域でも既製服を扱う店舗が増加し、洋服の町へと変貌して行きました。」

「江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木が在った事から『柳原土手』と呼ばれていました。
 (付近の町名の)岩本町周辺は、江戸城から見れば鬼門(東北方面)に当たります。
 柳森神社の社伝によれば、太田道灌が鬼門避けに稲荷を祀り、柳を植えたのが始まりと云われています。
 そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士達でした。
 江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄え始めます。
 更に土手の周辺では、古着を扱う露店が集まる様になりました。
 その伝統は、明治維新後も引き継がれました。
 明治14(1881)年、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。
 『岩本町古着市場』と呼ばれたこの市場には、多い時には四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。
 更に昭和に入ると、町内には4階建てのビルまで登場し、『和泉橋ダンスホール』が併設されました。
 この様に洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形も無く焼き尽くされてしまいました。
 それでも戦後、この地は『服の町』として蘇ります。
 紳士服や婦人服の製造を手掛ける繊維メーカーが集まって来て、この町で作られた洋服が全国のデパートのショーウィンドゥを飾る様になりました。
 現在、数こそ減って来ましたが、岩本町三丁目を支え、町の礎を築いて来たのは、こうした繊維業者です。
 日本の繊維産業と共に発展して来た町、それが『岩本町三丁目』なのです。」
          ↑和泉橋下流側に立ってた案内看板より。

…何もかも跡形無く消し去る戦争は嫌だねえ…時期的に戦争に纏わる昔話は、読んでてしんみり致します。
それと柳森神社の社伝にさり気無く触れてますね。
始まりは「狸」より「狐」を主に信奉していた神社だったって事でしょうか?
現在でも柳森神社の前には柳が植えられていて趣き有ります。
古来、柳を解熱鎮痛薬として用いたのだとか…そこから鬼門封じに使われる様になったのかもしれません。

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桜橋~神田川を下る旅~その20

2021年07月24日 16時57分45秒 | 旅の覚書
前回「桜橋~神田川を下る旅~その19」に引き続き、今回は上流から数えて130番目の小石川橋~135番目の聖橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は主に一年前の2020年3月末頃です…この始め方もそろそろ飽きたなぁ。(汗)

源流から数えて130番目の橋…「小石川橋」
橋名の由来は付近の旧地名との事、嘗ては「小石川」と呼ばれる川が流れていたそうです。
上流から数えて117番目の江戸川橋から、ずーーーっと頭上に被さってた首都高速5号池袋線と、漸くここで縁が切れます。
いや~すっっきりしたぁ~~~!!
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、小石川橋上より上流側を向いた風景…川の右側で口を開けてるのは、水道橋分水路の吐口です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、小石川橋上より下流側を向いた風景…前の船は、千代田区・文京区・台東区の不燃ゴミを収集する船です。
船着き場が在る場所は「千代田区清掃事務所三崎町中継所」と呼ばれ、集めた不燃ゴミを「中央防波堤外側埋立処分場」へ水路を使い運ぶのだそうです。
水運を選ぶ理由は、陸からトラックで運ぶより、CO2排出量を抑えられるからとの事、エコな精神素晴らしい。
下流側の写真を見ると、右折する流れが確認出来るでしょう?…ここは神田川の分流、「日本橋川」の起点です。
神田川より分岐した日本橋川は、日本橋・江戸橋等を通過した後、永代橋付近で隅田川と合流します。
更にこの辺り、江戸時代には「小石川門」が在ったとの事で、案内看板が立ってました。(立っているのは上流側)

「小石川門跡…江戸城外郭門の一つである小石川門は、1636(寛永13)年、岡山藩(現在の岡山県)藩主、池田光政によって築造されました。
 明治維新後、枡形石垣は1872(明治5)年に取り壊され、その石材を利用して1877(明治10)年に日本橋川下流の常盤橋の石橋が建造されました。
 江戸時代の橋は門と共に架けられ、城門撤去と共に木橋が架け直されました。
 1895(明治28)年に甲武鉄道飯田町駅が近くに出来ると、橋も修繕されました。
 この橋は関東大震災で被災し、1927(昭和2)年に鋼橋に架け替えられましたが、老朽化の為2012(平成24)年に改修されました。」(←案内看板より抜粋)

…明治政府は江戸幕府に関わる建物一切合切取り壊してしまったからな~、残してれば今頃貴重な文化財になってたものを勿体無い。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真が日本橋川の起点、その後ろには総武線・中央線の鉄橋が架かってます。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、日本橋川の最初に架かる「三崎橋」を、神田川の上流向いて撮影したものです。
三崎橋と小石川橋は、上から観ると直角になるような位置に架かっています。


源流から数えて131番目の橋…「後楽橋」
旧「後楽園球場&遊園地」こと現「東京ドームシティ」前に架かる橋。
しかし橋名の由来は球場でも遊園地でもなく、前回紹介した「小石川後楽園」の方です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、後楽橋上より上流側を向いた風景…前方見える船は、上で紹介したゴミ収集船です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、後楽橋上より下流側を向いた風景…目の前に架かる橋は次に紹介する後楽園ブリッジ、写真で判る通り後楽橋とは極近い距離間で架かります。

 
源流から数えて132番目の橋…「後楽園ブリッジ」
東京ドームシティの施設橋で、JR「水道橋」駅西口と東京ドームシティを繋ぐ目的から架けられた物です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、東京ドームシティに背を向け、後楽園ブリッジ上から見たJR「水道橋」駅西口。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、後楽園ブリッジ上より上流側を向いた風景…隣に架かる後楽橋の後方に見えるのは首都高速道。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、後楽園ブリッジ上より下流側を向いた風景…枝垂桜が1本だけ咲いてました。
車両も渡る後楽橋とは違い、後楽園ブリッジは歩行者専用、信号を待たずに東京ドームシティへ行けるのが有難い。
だから東京ドームを目指す歩行者の大半は、こちらの方の橋を渡ります。

☆後楽園ブリッジ~水道橋間(JR水道橋駅裏)に在る立ち寄りスポット…「三崎稲荷神社
JR「水道橋」駅東口側、駅舎の裏にひっそり佇んでる神社です。
御祭神が須佐之男神始め日本神話に登場する神々な事を考えると、かなり古くから祀られていたのでしょう。
江戸時代は「清めの稲荷」と呼ばれ、参勤交代で訪れた諸大名が、旅の安全を祈願して行き帰りに参拝したとの由来から、現在まで旅行客に信仰されてるそうです。
 
面白いなと思ったのが、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)写真の「百度石」。
古い慣習として知られる「お百度踏み」に纏わる石なのだそう。
「古来より度重ねて祈る事により、願い事の成就を祈る信仰が在りました。
 参詣の往復の起点として参道の入口に立てられた物です。
 本来は百日間に渡り参詣するもので、『百日詣』と云われてましたが、今日では一日で百度参詣する意味に変わりました。
 その際、数を間違えないよう、予めこより箸を百用意して、祈願する度に置いてくのが一般的な参詣方法です。」(←境内の案内書きより)
百日もちんたら詣でられるか!しんどいのは一日で御免だぜ!!――そんな江戸っ子の短気な性分から、一日で百度詣でる形式に変わったに違いない。(笑)


源流から数えて133番目の橋…「水道橋」
ここまで来ると川幅がかなり広がる。
JR「水道橋」駅東口方面に架かり、橋上で白山通りと外堀通りが交差する為、車も人も往来が活発です。
凝った親柱のデザインから、特別な橋である事を察せるかと…実はこの橋の付近で、江戸時代に神田川の上に懸けられた、神田上水の水を渡す為の水道橋跡が発見されたのだそう。
「神田上水懸樋(かんだじょうすいかけひ)」と呼ばれ、木や石で造られてたとか…木製の水道橋ってのが、当時腕の良い大工が揃ってた江戸の町らしいなと感じた。
そんな水道の歴史的発見から、この橋は「水道橋」と名付けられたそうな。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、水道橋上より上流側を向いた風景…右側、水路の切れ込みと共に階段が在るの確認出来るでしょうか?
江戸時代、ここは「小石川大下水」なる下水道の出口になってたそうで、現在は災害時用の船着場として整備されてるんだとか。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、水道橋上より下流側を向いた風景…橋の欄干には神田上水懸樋のイメージ絵がデザインとして組み込まれています。
明らかにスマホで撮った写真と解りますね——済みません、今回の写真の一部は、今年の春に撮影しました。(汗)
それはさて置き、水道橋下流側下には「お茶の水分水路呑口」が在るのですが、撮影し忘れました。(汗)
ここから下流方面、川沿いに歩ける道が無くなり、川に近付いての撮影が難しくなります。

☆水道橋側の立ち寄りスポット…「お茶の水分水路の事業記念碑」と「神田上水懸樋跡の碑」

水道橋の下流側は川沿いに公園が造られていて、神田川に纏わる記念碑が2つ、点々と鎮座しています。
 
↑こちらが「お茶の水分水路の事業記念碑」、隣には神田川分水路の案内図が在ります。

↑少し坂を登った所に「神田上水懸樋跡の碑」、対岸を中央・総武線が走り、良い撮影スポットになってます。
撮影スポットと言えば、水道橋から次のお茶の水橋間は結構な登り坂で、歩く毎に見晴らしが良くなっていきます。
坂の頂上から川を見下ろしての眺めは、さながら「谷」の様です。
春は坂道に沿って桜が咲き、更なる絶景が広がります。(写真は2018、2019年の記事をご参照ください;)
上流から歩いた場合、神田川沿いに続く桜並木は、この坂道でラスト、ここが第六にして最後のお花見コースです。

☆水道橋~お茶の水橋間の立ち寄りスポット…「御茶ノ水坂」
水道橋から順天堂医院が建つ辺りまで続く坂に付けられた地名です。
 
「この神田川の外堀工事は元和年間(1615ー1626)に行われた。
 それ以前に、ここに在った高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水が在り、『お茶の水』として将軍に献上した事から、『お茶の水』の地名が起こった。
 『御府内備考』によれば『御茶之水』は『聖堂の西に在り、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと…』とある。
 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で『お茶の水坂』と言う。
 坂の下の神田川に、嘗て神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34(1901)年に取り外された。」(←案内書きより抜粋)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、御茶ノ水坂の上より上流側を向いて撮った神田川——まるで谷を流れる川の如き眺めでしょう?

☆水道橋~お茶の水橋間の立ち寄りスポット…文京区立「元町公園
御茶ノ水坂を歩いてる途中、道路向うにイタリア・ルネサンス様式の公園が在り、気になったので寄ってみました。
 

 
HPによると、大正12年に発生した関東大震災を機に、震災からの復興のシンボルとして造られた公園の1つらしい。
都内にはこの様な震災復興公園が合わせて55箇所在るんだそうな。
 

 
訪れた頃は八重桜が満開でした。
ちなみに先に紹介した「御茶ノ水坂」についての案内看板は、この公園前に立っています。


源流から数えて134番目の橋…「お茶の水橋」
JR「御茶ノ水」駅前に架かる大きな橋です。
その後ろに堂々と構えるビルは「東京医科歯科大学医学部附属病院」…左には「順天堂大学医学部附属順天堂医院」も建っています。
この2トップ大学病院を中心に、周辺には医療関係の企業、更には学校の施設が集中しており、アカデミックな雰囲気を醸しております。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、お茶の水橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、お茶の水橋上より下流側を向いた風景…現在JR「御茶ノ水」駅が工事中につき、下流部周辺はこの有り様、美しい橋脚で知られる聖橋も望めません。
予定では来年完成予定だとか…でも元は2020年3月末に完成予定って話だったし、また延長する可能性も考えられる。(汗)

☆お茶の水橋側の立ち寄りスポット…「順天堂大学医学部附属順天堂医院
名前を聞いた事が無い人は国内で少ないだろう、有名な大学病院。
上流から歩いて来た場合、「お茶の水橋」に差し掛かる手前、先に紹介した元町公園の次に出合います。
 
広大な敷地と大きな建物に圧倒され見逃しがちですが、病院前の一角には「濟生學舎(さいせいがくしゃ)発祥の地」の碑がひっそりと在ります。(PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真)

「明治9(1876)年4月9日に、本郷元町一丁目66番地に長谷川泰(1842ー1912)によって『濟生學舎』が開校された。
 長谷川泰は佐倉順天堂2代目堂主・佐藤尚中に学び、ついで西洋医学所頭取・松本良順に学んだ。
 佐藤尚中が順天堂より大学東校(東大医学部の前身)の初代校長(大学大博士)として赴任した際、小助教として佐藤尚中を支えた。
 後に校長心得となるが、明治8年、長崎医学校校長に赴任するも、3ヵ月後に長崎医学校が廃止となり帰京した。
 佐藤尚中の座右の銘『濟生(広く民の病苦を済う』の志を継いで、医術開業試験の受験教育を目指す学徒の為に佐藤尚中の支援を受け『濟生學舎』を創設した。
 ここに全国から多数の医師志望者が集まり、その多くが隣接する順天堂で通学生となって臨床教育を受けた。
 明治12年冬、火災により濟生學舎の校舎を焼失し、この地の一角に移転。
 その後、発展した濟生學舎は明治15年に湯島四丁目8番地(現在のガーデンパレスの地)に移り、本格的な校舎を建設し、明治19年に薬学部、附属蘇門病院を付設して『東京医学専門学校』と称した。
 濟生學舎は隆盛の一途を辿ったが、明治36(1903)年8月31日、長谷川泰は廃校を告知して28年間の歴史を閉じた。
 その間、21,000人余の学生が学び、9,600人余の医師を輩出した。
 濟生學舎が我が国の近代医学黎明期の医学教育、地域医療に果たした役割は極めて大きなものであった。」

…成る程、嘗てここに在った「濟生學舎」の志の下、御茶ノ水に医学教育施設が集まった訳だ。

↑順天堂大学医学部、本郷キャンパス正面入口前の校舎、「順天堂大学10号館」。
貴族の館の様な外観だが、差し詰めここは現代の濟生學舎と言えるだろうか?

☆お茶の水橋側の立ち寄りスポット…「東京医科歯科大学医学部附属病院

御茶ノ水を代表するもう1つの大病院。
日夜新型コロナ患者の治療に追われてるとのニュースで、名前を聞いた事有る人は多いでしょう。
一方の順天堂大病院の方は、比較的最近まで、患者受け入れを断ってたらしい…当時、両医院間の温度差凄かったろうな~と想像。
ばったり昼休憩中に外で出くわした時は、大きな声で陰口言い合ってたんじゃあ?――などと下種な勘繰り。(笑)
それはさて置き、御茶ノ水と言えば、有名な老舗レストランが在る。
「元祖レイズンウィッチ」の店と言えば、昭和生まれの東京人は「ああ!」と頷く事でしょう。

☆お茶の水橋~聖橋側の立ち寄りスポット…「御茶ノ水 小川軒
お茶の水橋が架かる外堀通りより坂を登り、本郷通りを神田明神&湯島聖堂へ向かう途中に建つ、懐かしの昭和の洋食が頂ける老舗レストラン。
現在は新型コロナの影響により、1階のカフェのみ営業で、しかも日曜はお休み、平日も16時台には閉めちゃうらしいですが、営業続けています。
  

 

 
↑カジュアルな雰囲気の1階カフェ、「元祖レイズンウィッチ」はこちらで販売しとります。
カスタードプリンが懐かしい味で美味しかった。
如何にも手作り焼きプリンって感じ、焦がしカラメルの甘苦さも堪らない。
 

  

 

 
↑こちらは地下階のレストランで頂いたランチコース…本来はこちらがメインなのですが、新型コロナ流行の影響で止む無く以下略。
御爺ちゃん2人が丁寧な手仕事で作り上げる洋食といった感じ、ソースに到るまで手作りで、料理人の真心が伝わりました。
刻み玉葱入り醤油ベースのソース、とっても美味しかったです。
自分は御飯を注文したので知らないけど、パンを選んだ友人曰く、パンもドイツ風にしっかりした噛み応えで、非常に美味しかったらしい。
サラダにポタージュスープにメインのハンバーグにデザートのオレンジババロア、どれもこれもメッチャ美味しかった!!
コロナ禍が収束したらまた行きたい。
何気に食器がお洒落で、聞いたらジノリを使ってるとの事。
御茶ノ水で長らく愛されてる訳が理解出来ます。
 
↑そしてこちらが噂の「御茶ノ水小川軒レイズンウイッチ」。
洋酒に漬け込んだレイズンを、店の自慢のクリームと共に、サクサクのサブレ―クッキーで挟んだ洋菓子。
前に食べたのはアーモンドスライスが載ってなかった事が気になり、ネットで調べてみたらこんな記事がヒットしました。
代官山・目黒・御茶ノ水に在る小川軒は、実の3兄弟が各々営業しており、店独自のレイズンウイッチを製造しているらしい。
だから使う素材が違ってて、味が微妙に違うのですねー。
ちなみに鎌倉に在る小川軒は、3兄弟の遠い親戚が営業してるそうです。
 
↑こちらは以前、高島屋デパートで購入したレストラン代官山小川軒のレイズンウイッチ、アーモンドスライスが載ってないのに注目。
ちなみに六花亭のマルセイバターサンドを始め、そっくりなお菓子が全国津々浦々に在りますが、あれらはぶっちゃけパクリです。
マルセイバターサンド製造開始時の六花亭の社長曰く、「うちならもっと美味しいお菓子に作れる!!」と正々堂々豪語したとのエピソードを何処ぞで読んだ覚えが(笑)…好みは人それぞれでしょうが、私は小川軒の元祖レイズンウイッチの方が、洋酒の風味が効いてて好きです。
しかし見た目そっくりな菓子なのに、材料が少し違うだけで製造を許されるとは、特許権なんて有って無い様なものと思わなくもない。


源流から数えて135番目の橋…「聖橋」 
上流から歩いて来た場合、文京区と千代田区間に架かる橋としては、最後に当たる橋になります。
紹介し忘れてましたが(汗)、128番目の船河原橋~聖橋までは、文京区と千代田区間に架かってます。
(上流から歩いた場合)橋の左手には神田明神と湯島聖堂、右手にはニコライ堂(東京復活大聖堂)と、周辺には和中洋の宗教建築が建ち並びます。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、聖橋上より上流側を向いた風景…しかし去年春に訪れた時は、残念ながら工事により、橋からの眺めは望めませんでした。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、聖橋上より下流側を向いた風景…こちらからも辛うじて湯島聖堂の屋根が観えるのみ。(悔)
工事中でなきゃ、中央線と総武線と丸ノ内線が行き交う点で、鉄道ファン的にも絶好の撮影スポット——詳しくは2018、2019年の記事を御覧ください。(汗)
併せて、史跡「湯島聖堂」について書いた2019年に上げた記事もご覧ください。
神田川に架かる橋の中で最も美しいと謳われる、白いアーチ橋「聖橋」の外観すら、未だ完全には観た事無いんですよね~自分。
一刻も早く工事が終わる事を祈ってます。

☆聖橋側の立ち寄りスポット…「一口太田姫神社元宮」
上流から歩いて来た場合、橋の右手に一本の大樹が立ってるのが見えます。
 
JR御茶ノ水駅と地下鉄新御茶ノ水駅に挟まれた交差点の角、淡路坂の手前です。
嘗てはここに稲荷神社が建っていたとの事、現在は境内に立っていた御神木だけが跡地に残されています。
尚、現在の社は駿河台の方に移転致しました。

「一口(いもあらい)である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時、江戸城の結界また鬼門の護り神として旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された。
 昭和6(1931)年、総武線開通に伴い、現在の駿河台下に移る。
 尚、鐡道(『甲武線』中央線の前身)は濠の中に在り、開通時、天皇家との間に濠幅を減じない、中で商業を営まない、環境を守るとの約束が有る。(明治期鐡道史より)
 この木は椋(むく)の樹、落葉高木、花は緑、実は濃紫」(←御神木の案内書きより)
 
室町時代、重い天然痘を患った太田道灌の娘が、京都の一口神社に祈願すると快癒したとの謂れから、病気平癒の御利益有な事で知られています。
今こそ求められる御利益!!――そんな時代の空気を読んだ様に、御神木に風邪咳封じの御守りが吊り下がってました。(笑)

☆聖橋~昌平橋側の立ち寄りスポット…「江戸総鎮守 神田明神
御存じ、今も昔も江戸庶民から絶大な人気を集める神社。
以前も訪ねたのですが、桜の名所という事で、この年も訪ねました。
 
☆神田明神側の立ち寄りスポット…甘酒屋「三河屋綾部商店
参拝前に訪ねた老舗の甘酒屋。
大鳥居を潜り抜けた先、隨神門の手前に建っています。
 
大鳥居横の「天野屋」さんの方が、時代がかってる外観から老舗っぽく見えますが、実はこちらの三河屋さんの方が古く、昔は宮内庁御用達にも選ばれた実績を持ってるんだとか。
…済みません、自分も見掛けで判断して、前回は天野屋さんの方に寄りました。(汗)
 
↑そういう反省から、今回はこちらに寄って、甘酒を頂きました。
天野屋さんも美味しかったけど、こちらの甘酒も優しい甘さで美味しいです。
サービス的には三河屋さんの方が上に感じました。
はっきり言って店の外観で損しています、何でビルにしちゃったんでしょうかね~?
テイクアウト用に、濃縮甘酒の他、酒まんじゅう等を売っていて、川下りの途中でなきゃ買いたかったです。

↓寄り道済ませた所で、神田明神に参拝…普通、参拝後に寄り道だろうに、罰当たりお許し頂きたい。(汗)
 

 
↑感染症予防対策と言う事で、柄杓は撤去されてました。
何処の神社も今は手水が使えず、場所を持て余した結果、起こったのが花手水ブームだそうで…災いを転じて福と為す良いアイディアだと思う。
 


↑御祭神は大黒様、戎様、将門様の他、銭形平次も祀られ、碑が建てられています。
寛永通宝をデザインした碑が洒落てる、隣には平次の子分の八五郎の碑も建てられてたり。
何でも御座れのノリの良さが、江戸っ子に長年愛されてる理由でしょうなぁ。

☆神田明神裏の立ち寄りスポット…「宮本公園」
神社を何度も訪ねていながら、去年初めて気が付いたのですが(汗)、神社の裏手から径続きで、公園に入れる様になってます。
普通の児童公園なのですが、一角に古民家が在って、目を惹きます。
 


↑宮本公園内、遠藤家旧店舗(→http://chiyoda.main.jp/seisiga/kobetsu/endokekt.html)
「千代田区有形文化財指定の『遠藤家旧店舗・住宅主屋』は、昭和2(1927)年に日本橋川沿いの神田区鎌倉町(現在の千代田区内神田一丁目)に材木商の遠藤達蔵氏によって建造された古民家です。
 江戸時代から引き継がれた商家の建築様式により、屋久杉や秋田杉などの銘木や良材を使い、『江戸黒』と呼ばれた黒漆喰の外壁や新しい銅板などの建築材料を取り入れて建築されました。
 昭和48(1973)年に府中市に移築・保存されていましたが、平成21(2009)年に千代田区外神田二丁目16番地先の宮本公園内に帰ってきました。」(←紹介サイトの案内文引用)

見ての通り、絵になる建物…こんな古民家が、神社裏の公園に残ってたんですね~。
また、神田明神側の看板には、旧地名の案内が記載されていました。
「旧湯島(昭和40年までの町名)…『和名抄』に、武蔵国豊島郡湯島郷とあり、また由之万(ゆしま)ともある。
 また、『北国紀行』に由井島とある。
 『文政町方書上』には、湯島の名称はむかし温泉が湧いたからとあるが、これは疑問である。
 不忍池は海であったから、湯島は島の様であった事は考えられる。
 旧湯島1丁目から6丁目までは、中山道の御堂筋として古くから開けた古町である。
 古町(こちょう)とは寛永年間(1624~1644)までに開けた町で、新年には将軍に目通り等の特典が与えられた。
 旧2丁目には湯島聖堂(現存)、隣の旧3丁目には昌平黌(昌平坂学問所)が在った。
 明治になると、師範学校、高等師範学校が置かれ、ここは近代教育の発祥の地となった。」

…歴史深い町、御茶ノ水には見所いっぱい、全て観て廻るとなると時間を取られますが、散歩するには大変楽しい場所です。

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桜橋~神田川を下る旅~その19

2021年07月11日 18時40分54秒 | 旅の覚書
春の神田川下りもそろそろ終盤、予定通りなら今回含めて後3回で終わるでしょう。
そういうわけで、もう暫くお付き合いください。(汗)
では前回「桜橋~神田川を下る旅~その18」に引き続き、今回は上流から数えて118番目の華水橋~129番目の船河原橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。

源流から数えて118番目の橋…「華水橋」
読みは「はなみずばし」だそうです…漢字だと綺麗なイメージなのに、平仮名だと汚く聞えるのは何故?(笑)
前の江戸川橋から上に載っかった首都高速5号池袋線は、この先130番目の小石川橋まで背後霊の如く離れません。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、華水橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、華水橋上より下流側を向いた風景。
ぶっちゃけ118番目の華水橋~128番目の隆慶橋まで、あまり変化が無い風景が続きますので、この区間はサクサク参ります。

☆華水橋~掃部橋間に在る立ち寄りスポット…目白通りローソン江戸川橋駅前店側「稲荷神社」

…って書いた側から寄り道して申し訳無い。(汗)
目白通り方面へ橋を渡った先、メトロ江戸川橋駅側に建つローソンの前に、小さな稲荷神社が在って気になったもので…元は神田川の側に建ってたものを、首都高速道を敷く時に移転させたんじゃないでしょうか?
川の側に稲荷神社は付き物、この先も頻繁に出会う事になります。


源流から数えて119番目の橋…「掃部橋」
「かもんばし」と読みます、一発で読めた人は素晴らしい。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、掃部橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、掃部橋上より下流側を向いた風景。
…そもそも何故、川の上に首都高速道を敷いたのかっつうと、用地がそこしか無かったからです。
地下に敷くとなれば費用も時間もかかる、この先東京は人口が爆発して道路の渋滞待った無、スピード第一を求められた結果、現在の風景が生まれたわけです。
よく前回東京五輪の負の遺産説が囁かれますが、それ以前から計画は在った様です。
ただ初期の計画は、現在の様な河川や公有地の上を通過するものではなかったのも事実らしい。
そろそろ首都高速道も架け替えの時期を迎えるので、今度こそ地下に埋める計画を進めるかもしれない。
日本橋も昔の姿に戻す計画が立った事だし。


源流から数えて120番目の橋…「古川橋」
華水橋~次の石切橋までは架け替え時期が同じらしく、カラーリングが白で統一されています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、古川橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、古川橋上より下流側を向いた風景。
橋の周囲は新旧の建物が共存しており、都市再開発が進んでいるのを実感する。
両岸とも文京区なのは、この古川橋まで…次の石切橋~128番目の隆慶橋までは、文京区と新宿区の境に架かります。


源流から数えて121番目の橋…「石切橋」
江戸時代、この橋の周辺に石工達が住んでいた事から名付けられたとの事。
昔は付近で最も幅が広く大きい橋だった為に、「江戸川大橋」と呼ばれていたと、近くに立つ案内看板に書いてありました。
神田川なのに何故「江戸川」かは前回書いた通り…神田川の中流域は昭和40年位まで「江戸川」と呼ばれていたからです。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、石切橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、石切橋上より下流側を向いた風景。

↑この辺り最近になって川沿いの歩道の幅が拡がりました!
以前は歩道の幅が極狭で、道路をビュンビュン行き交う車が怖くて、歩き辛かったのです。
願わくば船河原橋まで川沿いの歩道を開通させ、道の幅を拡げてくれ。


源流から数えて122番目の橋…「西江戸川橋」
橋名の由来は、西江戸川町と牛込五軒町との間に架かっていたから…だとして牛込五軒町どこ行った??
この橋から124番目の中之橋まで、欄干が色違いでカラフル。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、西江戸川橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、西江戸川橋上より下流側を向いた風景。
首都高速道の対岸を見ると、綺麗に整備されてて、新しい街といった印象が持てます。
残った古い建物も、近日、再開発が予定されてるんだろうなと。


源流から数えて123番目の橋…「小桜橋」
嘗てここに桜並木が在った事を伝える橋名、実は今も橋の袂にちょびっとだけ桜が植えられています。(2018、2019年記事の写真を参照)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、小桜橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、小桜橋上より下流側を向いた風景。
橋名に合わせ、欄干が桜色に塗られています。(下の写真を参照してください)


源流から数えて124番目の橋…「中之橋」
江戸時代に石切橋と隆慶橋の間に架けられた事から、「中の橋」との意味で、この名前で呼ばれる様になったとか。
橋の袂には、大手印刷会社で知られる「株式会社トッパングラフィックコミュニケーションズ小石川事業所」のビルが建っています。
現在の「トッパン」は印刷業の他にも業種を拡げてますが、凸版印刷100周年記念事業の一環で、本社ビル内に国内の印刷の歴史を展示する「印刷博物館」を併設しています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、中之橋上より上流側を向いた風景…上の写真で前方に架かる小桜橋の色が解るかと…ちなみに中之橋の欄干は緑色に塗られています。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、中之橋上より下流側を向いた風景…そして新白鳥橋の欄干は水色、上から観ると虹みたいで綺麗かも。


源流から数えて125番目の橋…「新白鳥橋」
橋の左側に歩道が敷かれてるものの、車の交通が優先されてる為、渡った後は対岸を歩くしか下流に向かう方法が有りません。
地形に合わせ、大きく回り込んで車道と繋がる構造になっています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、新白鳥橋上より上流側を向いた風景…街路樹がまるで秋の様に紅葉しており綺麗。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、新白鳥橋上より下流側を向いた風景…上で書いた通り、下流側は車道なため立ち入れず、反対側の歩道からズームして撮るのが精一杯。(汗)


源流から数えて126番目の橋…「白鳥橋」
読みは「しらとり」橋です…知らなかった頃は「はくちょう」橋と読んでました。(汗)

↑白鳥橋上より上流側を向いた風景。
「この付近で神田川の流れは大きく曲がっていた為に、江戸時代には『大曲(おおまがり)』と呼ばれていました。
 明治19(1886)年にはここに『大曲橋』が架けられていましたが、その後架け替えられ、『白鳥橋』と言う名が付けられました。
 これは嘗てこの辺りに『白鳥池』と言う大きな池が在った事からと云われています。」←案内看板より抜粋。
現在も「大曲」と言う地名は残されています。
 
↑白鳥橋上流側で口を開けている「水道橋分水路」吞口。
網が邪魔して読み難いでしょうが、「水道橋分水路」と書いてありました。
検索したところ、「水道橋1号分水路」吞口だそう…ここから先、分水路の吞口が幾つも在って、ややこしい。

↑白鳥橋上より下流側を向いた風景…首都高速道が本格的に上を覆い、暗い雰囲気の通りが続きます。

 
源流から数えて127番目の橋…「新隆慶橋」
写真の橋名、「新」が見切れてしまった。(汗)
神田川に架かる中では最も若い橋、なんと平成生まれだそうです!
幅が広くて6車線も有る、川が目に入らなきゃ殆ど道路にしか見えません。
本郷側と神田川目白通りを直接繋げる目的から架橋されたとの事です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、新隆慶橋上より上流側を向いた風景…橋下にまた口が開いてるのが見えます…ここもまた分水路の吞口か吐口なのでしょうが、調査不足で解りません。(汗)
ちなみに神田川には、高田馬場分水路、江戸川橋分水路、水道橋分水路、お茶の水分水路と、合わせて4つの分水路が在るそう。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、新隆慶橋上より下流側を向いた風景…写真の通り極めて近い距離間で次の橋が架かります。


源流から数えて128番目の橋…「隆慶橋」
前の新隆慶橋とは反対に、古びれ感半端無い橋…長年、高速道に覆われてた事から、痛むスピードが速まったもよう。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、隆慶橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、隆慶橋上より下流側を向いた風景。
江戸幕府二代将軍秀忠と三代将軍家光の書記として仕えた「大橋隆慶」が橋名の由来になってるそう。
歴史有る橋だから残してるのでしょう…しかしそれなら架け替えて綺麗にしてあげてと思う。
でも新隆慶橋が極近くに架かる現在、ここに橋を架ける必要性無という事で、耐久年数が限界を迎えたら無くしてしまうんだろうな…。
首都高速道の天井から解放された所で見えて来るのが飯田橋駅。

↑がしかし、その前に注目したいのが、隆慶橋~船河原橋間に存在する、「水道橋2号分水路吞口」。
この反対側には「江戸川橋分水路」の吐口が在るけど、その写真はまた後で。
尚、船河原橋が架かる地点は、外濠と神田川が交わる川の丁字路になってます。

☆船河原橋側の立ち寄りスポット…JR飯田橋駅東口前巨大歩道橋「ペデストリアンデッキ」
「ペデストリアンデッキ」とは、広場と横断歩道橋の両機能を併せ持ち、建物(この場合、飯田橋駅)と接続して建設された、歩行者の交通専用の高架建築物を指す言葉だそうです。(ウィキ参照)
飯田橋駅東口前の道路に覆い被さるオバケ歩道橋といった様相で、歩行者は地上を歩かず歩道橋の上を歩くルールになっとります。
歩道橋が架かる区間の地上を歩いてると、直ぐにお巡りさんから「上を通って!!」と注意されてしまうのだ。(汗)
「ペデストリアンデッキ」が出来たお蔭で、信号に待たされず駅に行けるのは良いけど、歩行者は何となく肩身の狭いエリアです。
どっちかっつうと、車が通り易い様に、邪魔な歩行者を上に誘導してる感じ受けるのよね~。
 

 
↑歩道の端に植えてある桜の1本が、歩道橋に届くまで育っていて、満開時の眺めは素晴らしいです。

↑「ペデストリアンデッキ」から眺めたJR飯田橋駅東口&駅のホーム。
で、「船河原橋」が何処に架かってるかと言うと——

 
源流から数えて129番目の橋…「船河原橋」
——JR飯田橋駅東口の右横、道路を挟んだ向う側に架かってるのですが、上流側に歩いて行く事は不可能です。
隆慶橋から直進するも途中で行き止まり、上流側は金網で封鎖されていて入れません。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真の通り、船河原橋の上流側はデッドスペースになっとります。↑
 
↑そもそも船河原橋が架かる地点は、飯田橋も加わっての三角関係を築いており、初めて訪れた人間は惑わされる事確実。
(この御方の記事をご参照ください→http://www.mport.info/kandagawa/bridges/k/funagawarabashi.html)
上の写真で解説すると、手前が船河原橋の一部で、後ろの外濠に架かる方が飯田橋になります。

↑全体像はこちら——Ⅴ字に分かれた船河原橋の間に、飯田橋が挟まれてるという構図で、良く見ると橋の欄干の色で区別が付く。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、船河原橋上より上流側を向いた風景…川の左側に口を開けてるのが、「江戸川橋分水路」の吐口です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、船河原橋上より下流側を向いた風景です。


↑無事、船河原橋の写真を撮影出来た所で、下流へ向かう前に「小石川後楽園」へ寄りました。
世間的に後楽園=東京ドーム側の遊園地のイメージが強いですが、遊園地が出来る前からここには「後楽園」と呼ばれる名所が在り、それが地名となって今に至っています。

☆船河原橋~小石川橋間の立ち寄りスポット…「小石川後楽園
時代劇でお馴染み、水戸黄門様所縁の庭園です。
 
「小石川後楽園は、旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後園で、林泉美に富む廻遊式築山、山水庭園である。
 江戸時代初め、徳川御三家の一つであった水戸家の祖、徳川頼房は、寛永六(1629)年、三代将軍家光から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。
 二代目藩主の光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時、隣国『明』の遺臣(儒学者)で我が国に亡命していた朱舜水の意見を用い、今見る様な中国趣味豊かな手法を加味した。
 因みに『後楽園』の名は、光圀が舜水に命じて選んだもので、中国、北宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』の中の一文『(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ』より『後楽園』と名付けた。
 その後も度々の改修や震災火災で、創築時代の壮観さこそ失われたものの、逐次手が加えられる等、幾多の時代の変遷を経て、現在に至っている。
 本園は、土の香漂う奥深い山地と、樹林に包まれた静寂な水面の中に各地の名所を写し、自然の美と人工の妙とを兼ね備えた庭園芸術の粋を見せている。
 また、園内には数々の園亭祠堂が在り、梅・桜・藤・花菖蒲など四季折々の花が豊富――ここの文章薄れて読めず(汗)――貴重な緑として、訪れる者に憩いの場を提供している。
 尚、当園は大正12年3月、国の史跡名勝地に、また昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定された。」(←場内の案内看板より抜粋)
特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園とここ小石川後楽園の二つだけ、全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけだとの事。
また築地塀の石垣の一部は、江戸城鍛冶橋門北側外堀付近より発掘された江戸城外堀石垣を再利用し、園が造られた江戸時代初期の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積みの技法で再現したそう。

↑「小石川後楽園」西門を潜った先の庭園入口。
入園料は一般の場合300円です。(シニア・団体割引、年パス有)
私が訪れた頃は一部修復工事しており、残念ながら園内の全てを廻る事は出来ませんでした。
有名な稲田とか観たかったのに…。
来年春、また桜が咲いた頃に訪れようと、今から考えています。
 
↑池の周囲に咲いてた枝垂桜。
最も古い樹は推定樹齢60年を越すのだそう。
他にソメイヨシノ等、園内には数種の桜が植えられています。

↑「西行堂跡…藩祖である頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置した事から、『西行堂』と名付けられた。
 尚、この堂は戦災により焼失した。」(←案内看板より)
…焼失しちゃったのか~。
 

 
↑「竜田川」
百人一首にも詠まれる奈良の紅葉の名所、竜田川を再現した小川。
園内には他、京の都付近の名所や、中国の名所を再現したスポットが目白押し。
電車や飛行機が無い時代に生まれたブルジョアは、こうして憧れの名所を自分の家の庭に再現し、行った気分に浸ってたんでしょうね~。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は「駐歩泉」。
「九代斉昭が、西行堂側の流れを西行の和歌、『道のべに 清水流るる 柳陰 暫しとてこそ 立ち止まりつれ』に因み『駐歩泉』と命名し、自ら筆をとり碑を建てたもの。」(←案内看板より)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「延段(のべだん)」。
「中国風の素朴な石畳で、切石と玉石を巧みに組み合わせたもの。」(←案内看板より)
 
↑「木曽川」
長野から始まり、岐阜・愛知・三重を経て伊勢湾に注ぐ大河を再現したもの。
…そう見えるかは貴方の想像力次第。(笑)
 
↑「内庭…水戸藩の書院の庭だった所で、昔は唐門を隔てて、大泉水のある『後園』と分かれていました。
 江戸時代は『うちの御庭』と呼ばれ、池を中心にした純日本式の庭園です。
 昔の姿をそのまま留めていると云われています。」(←案内看板より)
目の良い方は、樹間に工事トラックが停車してるのを見付ける事が出来るでしょう。(汗)
 
↑庭の樹木の隙間から覗く高層ビル…周辺は近代的な街並みに変わっており、上から見下ろすと、ここだけに広大な緑地が残されてるのが、良く解ります。
 
↑「白雲台跡…昼なお暗い木曽の山道を過ぎて渓流を渡りここに登ると、僅かに白雲が行き交うのが見えたという高台。
 遠くは妙義・榛名の山々、近くは赤城・築土の(神)社を望む事が出来た。」(←案内看板より)
…昔は周辺に高い建物なんて無かったから…現在はビルが立ちはだかり、足元には土嚢が積み重なってました。(工事中だったから)

↑「延段」より見下ろした池。
 
↑「蓬莱島…島は亀の形をしており、先端の大きな鏡石は庭師の徳大寺佐兵衛に因んで、『徳大寺石』と名付けられ、弁財天を祀った祠が在る。」(←案内看板より)
工事中という事で、蓬莱島に建つ弁財天を祀った祠には寄れず…嗚呼、心残り。↓
 
↑庭園の後ろに屋根だけ見せてる東京ドーム。

↓「大泉水…この庭園の中心的景観。
 蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたとの記録が残っています。」(←案内看板より)
 

 

 

 

 
↑琵琶湖を表現して造られた池なのか…この池の周りを取り囲む様に桜が植えられてて、園内では最も艶やかな眺めでした。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「一つ松」…近江の琵琶湖を模した大泉水に対し、琵琶湖の唐崎の一つ松に因んでいるとの事。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「丸屋」…昔の田舎の侘びた茶屋の佇まいを再現した建物で、戦災で焼失したオリジナルを昭和に入って復元したとか。

↓「小廬山…一面オカメザサで覆われた円い築山。
 その姿形が、中国の景勝地『廬山』に似ている事から、江戸の儒学者、林羅山が名付けたもので、山頂より庭園を見下ろせます。」(←案内看板より)
 

 
↑案内看板の説明通り、園内で最も見晴らしの良い場所でした。

 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「渡月橋」。
「大堰川に架かる低い土橋で、京都嵐山の『渡月橋』の名を取った」との事。(←案内看板より)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「西湖の堤」。
「この石堤は中国の名勝地『西湖』を模して造られたもので、本園以後の大名庭園の『西湖の堤』の先駆けとなった。」(←案内看板より)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「屏風岩」。
屏風の様に真っ直ぐに屹立している事から、そう呼ばれているそう。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「清水観音堂跡」。
「京都清水寺を写した観音堂が在ったが、大正十二年の関東大震災で焼失した。」(←案内看板より)
——清水寺まで再現したのか!!それは実際に観てみたかった!!

 

 
↑「大堰川…京都の嵐山の下を流れる大堰川に因んだもので――中略—―神田上水の水を暗渠により引き入れ、江戸時代には清き流れで、園景を引き立てていた。」(←案内看板より)
…これは何となくイメージが湧く、かなり雰囲気醸してる様に思う。

↑「通天橋…京都、東山東福寺の『通天橋』に倣い、大堰川の渓流に朱塗りの虹橋を架けた。」(←案内看板より)
橋下に工事してる人が写ってます。(汗)
秋になると周辺の楓が紅葉して、美しい眺めだそうです。

↓「涵徳(かんとく)亭…本園創築時代に造られた茅葺の茶室で、硝子紙をもって障子とした為、『硝子ノ(びーどろ)茶屋』と呼ばれていたのを、享保年間に林信篤が『涵徳亭』と名付けた。
 現在の建物は四代目で、昭和61年に再建した。」(←案内看板より)
 


↑この時代に玻璃(ハリガラス)障子紙を用いるとは、流石ハイカラで知られる黄門様!
 
↑邸の中はお休み処「涵徳亭(びいどろ茶寮)」なるカフェとして営業してます。
訪れた頃は新型コロナで騒いでいた為、寄らずに庭園を出て、隣の売店で買った餅菓子を頂きました。
 

 
↑売店「葵屋」で買った「花見団子」と「しあわせ満開餅(桜餅)」。
他に水戸黄門グッズとか売ってました。(笑)
 
↑カロリー摂取し元気を取り戻した所で、神田川下りを再開。
小石川橋を目指し、再び首都高速5号池袋線下の歩道を進みます。
高速道下を歩いてる間、隣を走る中央線が、硝子ビル越しに観えました。
上流から数えて137番目に架かる万世橋までは、中央・総武線が旅の道連れです。

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桜橋~神田川を下る旅~その18

2021年07月07日 17時41分06秒 | 旅の覚書
七夕に、天の川ではなく、神田川の話をするのも一興。(汗)
前回「桜橋~神田川を下る旅~その17」に引き続き、今回は上流から数えて113番目の豊橋~117番目の江戸川橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。(一部今年の春撮影した写真も有;)
今回紹介する一帯は神田川下りの目玉、寄り道し捲りで、上げる写真も多い為、無駄な前置きは無しで参ります。


源流から数えて113番目の橋…「豊橋」
名前に豊島区の「豊」が入りますが、両岸とも新宿区に架かります。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、豊橋上より上流側を向いた風景、
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、豊橋上より下流側を向いた風景になります。
橋が架かる一帯の「目白台」は、江戸中期以降、旗本の邸地で、清水家や一橋家など、有力大名の下屋敷が存在しました。
中でも肥後細川家の敷地だった場所は、広大な庭園がそのまま公園に活かされた事で、嘗ての栄華の片鱗を今に伝えています。
肥後細川家…そうです、元首相の細川護熙さんの御実家です。
細川護熙さんは肥後細川家18代目に当たるお殿様なんだとか。

☆豊橋~駒塚橋間立ち寄りスポット…「肥後細川庭園
「細川家は室町幕府三管領の一つとして武門の誉れ高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まりました。
 代々文武両道に優れた細川家は、三代当主細川忠利の時、肥後熊本五十四万石を与えられ、強力な外様大名として幕末に至りました。
 現在の永青文庫と肥後細川庭園、そして隣接する和敬塾の敷地は、幕末期から戦後まで、広大な細川家の屋敷でした。
 細川邸の前には、嘗て鶴・亀と呼ばれた松が在り、この辺りの旧町名『高田老松町』の由来ともなりました。
 江戸時代の切絵図には、二本の松の絵が描かれています。

 幕末の時代、熊本54万石の細川侯の下屋敷だった場所は、明治15年に細川家の本邸(現在の目白台運動公園敷地)となり、その後、東京都が買収して、昭和36年に『新江戸川公園』として開園、昭和50年になると文京区に移管され、平成29年3月に『肥後細川庭園』と名称を変更しました。
 園内には、細川家所縁の銘花『肥後六花』の内、肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、肥後山茶花が植栽されています。」←園内看板より抜粋。
 
↑写真は肥後細川庭園正門と案内図。
園内は湧水等、目白台(関口台地)の自然景観を活かした造りの、池泉回遊式庭園になっています。
何が素晴らしいって入場無料な点、こんなに美しいお庭を只で観せてくださるなんて、流石お殿様太っ腹!
 
↑正門から入り、中門を抜けると、左に建っているのが、旧熊本藩細川家の学問所だったと云われる「松聲閣(しょうせいかく)」です。
入館の際は靴を脱いで入ります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合、下)の写真は、「松聲閣」1階の窓より観た庭園。
建物は大正時代に改修を行い、一時期は細川家の住まいとして使用されてたとの事。
その後も使用勝手の変更から増改築が繰り返されたそうで、特徴的な車寄せも後から玄関に取り付けられたそうです。
平成26年度から開始した工事では、過去の写真や図面を参考に整備を行い、戦前の状況を留めている椿・菊・朝顔の間と横の階段は保存を第一に整備を行ない、可能な限り既存の木材を使用する為、伝統的な揚屋工法を用いたそう。
更に過去の写真から下見板張りを用いていた事が解ったため1階の外壁に採用、花菖蒲・芍薬の間の照明は既存のランプシェードを磨いて再利用、現在は製造されていない「歪み硝子」も既存品を利用し、平成28年1月にリニューアルオープンしたそうです。

各部屋には肥後六花に因んだ名前が付けられています。
「肥後六花」とは、江戸時代から品種改良を重ねて来た熊本独特の花で、肥後菊、肥後椿、肥後山茶花、肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後芍薬の6種類を指します。
細川家八代重賢(しげたか)公の時に、武士の嗜みとして始められたそうで、各々に「花連」と呼ぶ保存団体が在り、門外不出として現在に伝えられています。
熊本城竹の丸の肥後名花園では、折々のシーズンにこれらの花を楽しむ事が出来ます。

また、椿・菊・山茶花の部屋の床の間には、熊本県産のい草「龍鬢表(りゅうびんおもて)」を編んで拵えた畳を使用してるとの事。
「龍鬢表」は、い草の中でも太く長い良質な物を選んで天日干し→水漬け→天日干しの工程を繰り返して出来上がる黄金色のい草で、見た目の美しさに加え、経年の変色を防ぐ、先人の知恵だそうです。
椿の間では有料で呈茶サービスが受けられますが、コロナ禍の折、先ずは電話で確認した方が良いかもしれません。
 
↑往時の佇まいを残す「松聲閣」2階廊下と「山茶花」の間。
古式ゆかしい建物ながら、2階に上がるエレベーターが設置されている事に驚きました。
流石は元お殿様のお住まいだった場所、訪れる客への配慮に心の余裕を感じます。
 
↑2階「山茶花」の続きの間と、「山茶花」から眺めた庭園。
「山茶花の間」は一般客用の展望所になっています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、庭園から眺めた「松聲閣」です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「松聲閣」で販売してる「加勢以多(かせいた)」と言う細川家伝統の菓子です。
名前の由来は、ポルトガル語の「カイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロジャムの箱)」だそう。
餅粉で作ったおぼろ種でマルメロ羹(現在はカリンジャムを使用)を挟み、細川家の家紋「九曜の紋」を焼き付けて、幕府に献上もした細川家秘伝の伝統銘菓を復元したとの事。
さっくりした口当たりと仄かな甘酸っぱさが印象的と、チラシに紹介されてましたが、訪れた日は荷物になるのを嫌って買わなかったのです。
買えば良かったと、今は後悔してます。(汗)
 
↑西門前の休憩所と、中門。
 
↑PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、築山に建っていた「雪見灯籠」です。
 

 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「永青文庫」へ続く階段です。
「細川家の第16代当主で肥後熊本藩主を務め、目白台出身の政治家でもある細川護立(もりたつ:1883~1970年)は、芸術に造詣が深く、細川家に伝わる文化財の散逸を防ぐ目的で『永青文庫』を設立しました。
 名称は初代藤孝の始祖から八代までの菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の『永』と、藤孝の居城であった青龍寺城の『青』の二字を取って、護立侯が名付けました。
 国宝8点、重要文化財32点を含む美術工芸品や、歴史文書等の9万4千点を所蔵しており、昭和48年に博物館法による登録博物館となりました。
 また、平成22年1月には公益財団法人に移行して、現在に至っています。
 建物は旧細川侯爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建設されたものです。
 『永青文庫』設立後は、細川家に伝来する歴史資料や、重要文化財を始めとする美術品の管理・保存・研究を行い、一般に公開しています——月曜休館。」←肥後細川庭園にて貰ったしおりより抜粋。
以前テレビで細川元首相が刀等を紹介してるのを観た事が有ります。
貴重な細川コレクション、時間が有れば鑑賞したかったのですが、この時は川下りを急いでたので見送りました。
コロナ禍が収束して、世界が平和になったら、改めて鑑賞しに訪れたいです。

↑来た階段を下りて、庭園に戻ります。
 
↑肥後細川庭園最大の見せ場「大池」。
 
↑大池に浮かぶ「中島」と、水面に影を映す桜。
春は庭園をより艷やかに魅せます。
 
↑高台に建つ十三の塔。
 
↑大池に注ぐ滝と、中池。
この滝の水が、ひょっとしたら湧水?
 
↑塀の側に築かれた小高い丘「築山」…登れば塀の外に続く桜並木と花見客を見下ろし、殿様気分を味わえます。
 
↑PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、大池と中池の堺に架かる「土橋」。

↑庭園を一周した後、南門から退出しました。
次の橋に向かいます――って、今回未だ二つ目の橋にも到達してない件。(汗)
 
↑豊橋~駒塚橋間に咲いてた桜と、次に架かる駒塚橋。
この橋が架かる辺りもまた、歴史的に重要なスポットが続きます。

 
源流から数えて114番目の橋…「駒塚橋」
(上流から歩いた場合)左岸に建ち並ぶ水神神社、関口芭蕉庵、椿山荘が、橋からの眺めに趣を添えています。
対して右岸は眺めこそ左岸に負けますが、新目白通りを挟んで建つリーガロイヤルホテル東京裏には、早稲田大学創立者である大隈重信所縁の大隈庭園が広がっています。
橋が架かる両岸に見所が並ぶ為、全て観て廻るとなると時間を相当取られますので、注意が必要です。(汗)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、駒塚橋上より上流側を向いた風景…桜並木が途切れ、緑が続く辺りは、先に紹介した肥後細川庭園になります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、駒塚橋上より下流側を向いた風景…和風の門構えは関口芭蕉庵、その後ろの大きな建造物はホテル椿山荘東京です。

☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…関口「水神社
橋から見える白い鳥居がシンボルの、水神様を祀る神社です。
言い伝えによると、或る日、水神様が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)也、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町悉く安泰也」と告げた為、ここに祠を建て祀ったとか。
 

☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…「胸突坂」
水神社の右に見える急坂です。
その名を呼ぶだけで胸が苦しくなりそう。(汗)
途中にちょっとした休憩スペースが設けられてるそうですが、見るからに恐ろしい坂にビビって、未だ登った事有りません…。
台地と言うか、坂の上から見下ろしたら、さながら崖に立ってる気分になるんじゃないかと。(汗)
 
胸突坂への登り口から下流方面へ歩いて行くと、関口芭蕉庵に突き当たりますが、その前に対岸の新目白通りに面したリーガロイヤルホテル東京を紹介致します。

☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…「リーガロイヤルホテル東京

↑早稲田大学との土地信託方式により、同大学の敷地内に建設された高級ホテルです。
大学の中にホテルを建てちゃう早稲田大学の財力よ…ホテルの庭園を散歩してる積りが、気が付いたら大学の講堂前に出てるなんて、知らずに泊まった人は戸惑うに違いない。
 
↑こちらが新目白通りに面したホテル正門、アール・ヌーヴォー調のモダンなデザインになってます。
 
↑花見のシーズンという事で、ロビーの大花瓶には桜が活けてありました。
ロビーを突っ切り奥へ進むと、「大隈庭園」に出る裏口…もとい庭園の出入口に到ります。
江戸時代後期、彦根藩井伊家や高松藩松平家の下屋敷が在った場所を、明治維新後に大隈重信が入手、後に東京専門学校(現、早稲田大学)開設の為の用地に充てたとの事。
隣接する敷地内に本邸を建てた大隈重信は、1884(明治17)年、元々の大名庭園を和洋折衷式に改修。
1922(大正11)年に大隈重信が没した後、庭園は早稲田大学に寄付され、大隈会館の庭園として一般公開された。
…写真の案内板に記載されてる通り、一般公開は4月からという事で、あいにく私は庭園を観る事が出来ませんでした。
そもそもコロナ禍で、今年の春は開放されてなかった可能性も有る。
世の中が平和にならんと、お庭を散歩する事も出来ない…。

 
↑神田川に戻って、駒塚橋~大滝橋間遊歩道…写真は椿山荘の対岸に続く桜トンネルです。

↑下流を向いた場合の右岸桜並木は、一休橋に到る前に途切れます。
それまでの間、見事な桜トンネルを潜って歩くのも、また楽し…歩いた先には「カンパイ!ブルーイング」と言うクラフトビールの醸造所が在る。
1階ビアバーはコロナ禍の中でも逞しく営業を続けていた。(笑)

☆駒塚橋~大滝橋間の立ち寄りスポット…「関口芭蕉庵
下流を向いて左岸側、水神社の鳥居や胸突坂が在る通りに面した、古式ゆかしい和の建造物です。
「芭蕉庵」の名が示す通り、松尾芭蕉が神田川改修工事に参画した際、一時的に住んだ住居跡です。
 
「江戸前期の俳人松尾芭蕉(1644~1694)は、延宝五(1677)年~延宝八(1680)年まで、神田川改修工事に参画し、『龍隠庵』と呼ばれる庵(水番屋との説も有)に住んだと伝えられている。
 後に世人はこの庵を『関口芭蕉庵』と呼んだ。
 享保十一(1726)年、芭蕉の三十三回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。
 その後、芭蕉の門人である去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
 芭蕉は、早稲田田圃を琵琶湖に見立て、その風光を愛したと云われている。
 そこで、寛延三(1750)年、宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆『五月雨にかくれぬものや瀬田の橋』の短冊を埋めて、墓とした。
 『さみだれ塚』と称されるこの場所は、芭蕉堂の近くに在る。
 芭蕉庵の建物は昭和十二(1937)年三月、近火で類焼したが、同年八月再建された。
 しかし昭和二十(1945)年五月の戦災で焼失した。
 敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江(江戸時代後期の戯作者、狂歌師:あけらかんこう)歌碑・伊藤松宇(明治~昭和初期に活躍した俳人・古俳書収集家)の句碑等が在り、往時を偲ぶ事が出来る。」←現地の案内板より抜粋。
ここも残念ながらコロナ禍により閉門してました…つうか2018、2019年に訪れた際もお休みしてた。(泣)
学生の頃、一度だけ入った事有ります。
中の庭園は小さいながらも起伏に富んでて、一周するだけでも結構ハードです。
しかし頂上からの見晴らしは誠に素晴らしい、春は特に川の流れの様に続く桜並木が圧巻。
…とは言え現在は入れないので、先に進みます。
 
↑この写真も駒塚橋~大滝橋間遊歩道にて撮影した物なのですが、芭蕉庵、椿山荘の建物が続くコースは、和の情緒たっぷりです。(ちなみに上流側を向いての撮影)
卒業式帰りの袴姿の女子学生が、更に和の雰囲気を盛り上げてくれました。

☆駒塚橋~大滝橋間の立ち寄りスポット…「ホテル椿山荘東京
「芭蕉庵」隣に門を構える、広大で歴史深い庭園が自慢のホテル。
ホテルが建つ敷地は、南北朝の頃から椿が自生する景勝地だったと伝えられ、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷が建っていたとか。
明治時代になり、政治家の山縣有朋が、現在のホテル椿山荘東京に当たる土地を購入し、庭園・邸宅を造り「椿山荘」と命名したとの事。
1918(大正7)年、大坂の藤田財閥二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。
1948(昭和23)年に藤田興業(現:DOWAホールディングス)の所有地となり、1952(昭和27)年より宴会場・結婚式場の営業を開始。
1955(昭和30)年、藤田興業の観光部門が分離し発足した藤田観光に、椿山荘の運営が移管された。
1992(平成4)年、宴会・ウェディング業だけでなくホテル業にも進出、国際的なホテルチェーンのフォーシーズンズ・ホテルズ&リゾーツと提携し、「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」と名を改め開業。
2012(平成24)年にフォーシーズンズとの業務提携契約を終了した藤田観光は、翌年に総合宴会施設だった椿山荘もホテルと一体運営化、「ホテル椿山荘東京」と名を改め再スタートを切った。
——以上、ここまでウィキ参照。(汗)
神田川の花見シーズンの他、初夏の夜に庭園で開催する「蛍の夕べ」が評判ですが、最近もう1つ話題のイベントが出来ました。
人工的に雲海を発生させてのライトアップです!
「人工」と聞くと白ける気持ちになりますが(雲海だけに)、一度くらい体験したくも有ります。(笑)

↑神田川沿いの遊歩道に面した「冠木門」…コロナ禍の現在は閉めてるそうで残念です。
写真を撮影した去年春は、この門を潜って無料で庭園を散策する事が出来ました。
2019年までは桜のクッキーやパウンドケーキ等を門前で売ってて、お土産に購入する事も楽しみの一つだったのに…おのれ新型コロナめ!
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、庭の木立の奥にひっそりと佇む日本家屋を改築した、石焼料理専門レストラン「木春堂」。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、昭和の電力王と呼ばれた松永安左エ門が設計した茶室「長松亭」跡です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、樹齢約500年の椎の樹木で、椿山荘の御神木との事。
根元の周囲は4m50cm、樹高は約20mに及ぶそうです。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「中門」、ここを潜ると本格的に庭園が広がります。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は園内の散策道、庭園は小高い丘に広がる為、かなり起伏に富んでいます。(目白台なので)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は池の側に建ってた石塔…説明は下記に。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は「水車」。(観たら解るか;)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「十三重の石塔」。
戦国時代の武将で茶人でもあった織田有楽(織田信長の弟)由縁の物と伝えられる層塔で、総高は4m76cm有るそう。
花崗岩製で、第一層に四方仏(弥陀・弥勒・釈迦・薬師)が彫刻されている。
他、庭園内には数種の層塔が混合しており、その一部は鎌倉期の様式を示しているのが特徴だとか。
 
↑園内に在る古井戸「古香井」。
古くから東京の名水に数えられた湧き水が現在も自噴する井戸で、秩父山系からの地下水が湧き出ているのだそう。
1923年の関東大震災の際、被災者用に開放されたと云う有難い井戸水は、ミネラル・カルシウムを豊富に含んだ弱アルカリ性の名水との事です。
井戸の周囲には紫色の小さい花が群生していて綺麗でした——ハナダイコン?
初夏は杜若や紫陽花が咲き乱れるスポットだそうです。
 
↑庭園に架かる朱橋——「弁慶橋」、又は「赤橋」と呼ばれるそうです。
元々「竹裏渓」と呼ばれ、孟宗竹林の裏に在った谷に清流が流れていた場所で、現在も清らかなせせらぎを保っているとの事。
椿山荘の案内によると、蛍の夕べはこの橋の周辺で行われる様です。
 
↑その「弁慶橋(赤橋)」の上で、袴姿の女子学生が記念撮影してました。
桜が咲く時季は卒業式シーズンでもあるので、袴姿の女子学生を頻繁に見掛けます。
写真を撮るこちらとしては、良い被写体になってくれて、大変有難いです。(笑)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)は結婚式場前に広がる「幽翠池」、池の畔道を一本桜が立つ方へ歩いて行くと、五丈滝が見えて来ます。
 
↑クリスタルチャペル「ルミエール」奥の「五丈滝」。
「岩の段差と、苔生した岩肌が、水の流れに変化を付け、夏にはその風景と水音に涼を感じられます。
 五丈滝に背を向けると、幽翠池越しに庭園の緑、チャペルやホテル棟を一望出来、人気の撮影スポットとなっております。」←ホテルの案内より抜粋。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、チャペルの側に立つ一本桜。
薄桃色の花弁が観る者を華やいだ気持ちにさせてくれます。
 
↑その一本桜の前で結婚式の写真を撮影してました。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、クリスタルチャペル「ルミエール」。
和風庭園の中、チャペルが建つこの一角だけ洋風で、周囲から浮いています。
 
↑園内の小高い丘の上に建つ三重塔「圓通閣」——三重塔まで庭に在るなんて凄い!!最早何でも有りです!
「平安期の歌人として名高い参議・小野篁(おののたかむら)所縁の寺院、広島県賀茂郡の篁山竹林寺(たかむらさんちくりんじ)から、大正14(1925)年に目白の森に移築されました。
 平成22(2010)年に行われた移築後初の『平成の大改修』によって、従来、建築様式から室町時代末期の建立かとされていましたが、年輪年代測定法調査により、1420年頃(室町時代前期)の部材が使われている事が判明しました。
 ただ、平清盛が第1回目の修復をしたという言い伝えもあり、創建の謎は未だ明らかにされてはいません。
 この大改修の際に、本尊として『聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)』を奉安。
 臨済宗相国寺派・有馬頼底管長猊下による落慶ならびに入仏開眼法要を執り行い、『圓通閣(えんつうかく)』と名乗るところとなりました。」←ホテルの案内より抜粋。
ちなみに「圓通」とは圓通大士、観世音菩薩の異称で、「圓通閣」は観音堂を意味する言葉だそうです。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「般若寺式石灯籠」。
「鎌倉後期の逸品で、江戸期の茶人や造園家の間では、『名物の灯籠』の一つとして人気を得ていた『般若寺式』の石灯籠です。
 その評判ゆえ、多くの模作が造られましたが、昭和53(1978)年、石造美術研究の権威・川勝正太郎博士により、『椿山荘(現・ホテル椿山荘東京)の灯籠が鎌倉期に作られた原作』であり、奈良県般若寺に現存するものはその写しであろうという調査結果が発表されています。」←ホテルの案内より抜粋。
…つまりホテル椿山荘東京としては、「うちに在る石灯籠が元祖で本物!!」と言いたいらしい。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「丸形大水鉢」。
「元は京都府東山区粟田口から山科に通じる日ノ岡峠に在った物で、木食上人(もくじきしょうにん)・養阿正禅(ようあしょうぜん)が旅人の為に造ったと伝えられています。
 この水鉢は、荷車である牛車の轍が刻み込まれた貴重な敷石『車石』と共に保存されており、峠を越える人々が暫し牛車を停め、水鉢に溢れる清水で喉を潤した往時が偲ばれます。」←ホテルの案内より抜粋。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「白玉稲荷神社」——庭に神社まで建ってるんです、ここ!!
「大正13(1924)年、京都下鴨神社にあった社殿を譲り受けて移築(平成元年に新社殿へ改修)、翌年に伏見稲荷明神から白玉稲荷を勧請して椿山荘の守護神としました。」←ホテルの案内より抜粋。
デパート屋上に鳥居が建ってる例とか偶に見掛けるけど、わざわざ京都下鴨神社に在った社殿を移築したってのが凄い。
戦前の財閥はやる事がビッグだぜ。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、神社が建つ高台からの見晴らし。
高台の周りには、往時の風景を偲ばせる様に、紅い椿の花が咲いてました。

↑蕎麦処の「無茶庵」…「庭園の一際静かな緑の中に佇む室町時代から受け継がれた隠れ家で、国産蕎麦の実から挽いた自家製蕎麦を、銘酒と東京食材と合わせてお楽しみ頂けます」とは、ホテル案内より。
——とまぁ、見所いっぱいの庭園ですので、一度訪れてみてください。
インスタ映え間違い無の写真が沢山撮影出来ますよ!

 
源流から数えて115番目の橋…「大滝橋」
…今回寄り道に費やす時間の方が長くて、目的を忘れてしまいがちですが、記事のテーマは神田川に架かる橋になります。(汗)
橋名は嘗てこの付近に在った「大洗堰」から。
「大洗堰」とは神田上水取り入れ口として築かれた堰で、ここで堰き止められた川の水は、江戸市民の喉を潤す水道に繋がれました。
その「大洗堰」から落ちる余水を滝に例えて、「大滝橋」と命名されたのだそう。
今風に言えばダムですね。
名が示すほど大きい滝ではなかったでしょうが、江戸の水の手として重要な場所だった事から、尊崇の念を篭めてそう呼んだのかもしれません。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、大滝橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、大滝橋上より下流側を向いた風景…右岸は途中から首都高速に覆われ、桜並木が途切れます。

☆大滝橋~一休橋間の立ち寄りスポット…文京区立「江戸川公園
「関口台地の南斜面の神田川沿いに、上流から数えて117番目の江戸川橋まで続く、東西に細長い公園です。
 西洋風の山小屋を模した時計搭のある四阿や、藤棚の屋根付きテラス等が在り、変化に富んだ景観となっています。
 テラスの先には石組みの池が在り、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復原しています。(池の石組に、大洗堰の石柱を使用してます)」←文京区の案内文を引用してます。
…紹介し忘れたのですが、駒塚橋~江戸川橋までは、両岸とも文京区に架かります。
今回紹介した橋の中で新宿区管轄は豊橋だけです。
 
↑江戸川公園内の風景…川沿いの遊歩道がそのまま公園と一体化しています。
目白台(崖)の地形を活かし、高所に設置された滑り台は、子供達からの人気が非常に高いです。
例年なら花見客が通りの両脇にレジャーシートを敷き詰め、露店が建ち並ぶのですが、コロナ禍という事で今年は控え目でした…見なかったと書かない辺りがミソです。(笑)
 
↑公園内に造られた小川の様な池、この一角にプチ復原された大洗堰が在るらしいのですが、写真を撮り忘れました。(汗)
江戸川橋方面へ進んだ先には、藤棚の屋根付きテラス席が並んでいます。
…ところで神田川なのに、何故「江戸川」公園・「江戸川」橋名なのかって言うと、昔は神田川の大滝橋から飯田橋付近までの区間を「江戸川」と呼んでいたからです。
ちなみに源流から大洗堰付近までの上流部は「神田上水」、飯田橋より下流は「神田川」と区別して呼んでたそうな。

 
源流から数えて116番目の橋…「一休橋」
車は「この橋渡るべからず」の歩行者専用橋です。
真ん中通ろうとしても、車には幅が狭くて渡れません。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、一休橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、一休橋上より下流側を向いた風景。
…片側は首都高速が覆い被さり、桜並木が途切れます。
以前はこの橋が架かる辺りで新目白通りを横断し突き当たった角に、貴重な古い漫画作品を閲覧出来る私設図書館が在りました。

☆嘗て一休橋側に在ったスポット…明治大学「現代マンガ図書館
 
「神田生まれの(故)内記稔夫(ないきとしお)氏が1955年に開業した貸本屋『山吹文庫』の蔵書を基に、大衆文化を支えたマンガ本が散逸する事を惜しんだ氏により、1978年、日本のマンガ専門図書館として設立されました。
 氏は館長として私財を投じ図書館の運営と漫画蒐集に努め、1997年、その業績に対し朝日新聞社主催の第一回手塚治虫文化賞特別賞を受賞しました。
 2009年にコレクションを明治大学に寄贈、2010年に『明治大学現代マンガ図書館』となった後も館の運営に当たり、国際マンガ図書館の設立に向けた議論が続く中、2012年に亡くなりました。
 氏が50年以上に渡り収集した単行本や雑誌等、未整理を含めると凡そ27万点を保有、現在も雑誌を中心に収集を続けています。
 特に昭和30~40年代に発行された貸本マンガの蔵書は充実しており、第一線で活躍するマンガ家のデビュー作や初期作品が収録された本も所蔵、マンガ雑誌の栄枯盛衰や分岐、展開をトレースする事も可能です。
 併設の(故)米沢嘉博(国内最大同人イベント、通称『コミケ』2代目代表)記念図書館の14万冊と合わせて、日本最大級の蔵書をもって、大学の研究に寄与すると共に、一般利用者への閲覧を提供します。」←図書館HP案内文抜粋。
今でこそ漫画図書館は各地に設立されてますが、国内外で日本漫画の評価が高まるまでは、古い漫画を蒐集していて一般公開してる場所は、ここぐらいしか無かったのです。
子供の頃、早稲田鶴巻町に在るという情報だけで探し当てた思い出…スマホも携帯も無い時代だったから、人に訊き回って漸く辿り着いたっけ…今思い出すと漫画好きの執念が為せる業だったなと。(笑)
コロナ禍で長期休館しており行く末を気にしてましたが、今年の3/19に東京都千代田区の明治大学駿河台キャンパスに移転したそうです。
嗚呼…勤務エリアから遠ざかってしまった…でも早稲田時代のビルは古くて手狭で、蔵書を管理するのに限界が見えてたから、潮時だったかも。
今は無い場所紹介するのは無駄かと思いましたが、折角写真を撮っておいたので紹介させて頂きました。(汗)

 
↑一休橋~江戸川橋間、「江戸川公園」敷地内の様子…こちらが「西洋風の山小屋を模した時計搭の有る四阿(あずまや)」です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の胸像は何方かと言うと、日本の薬学者・政治家・陸軍軍人(薬剤官)だった「大井玄洞」氏です。
「大井玄洞は当時、度々洪水を起こしていた江戸川(現神田川)を何とかしようと治水に尽力した。
 大正2(1913)年に護岸工事に着手、大正8(1919)年に完成させる。
 この治水事業の功績を称え、昭和3(1928)年、神田川沿いの江戸川公園に大井玄洞の銅像が建てられた。」←現地の案内看板より抜粋。
…そんな偉い人なら、ここに胸像が建てられるのにも納得ですね!

 
源流から数えて117番目の橋…「江戸川橋」
目白通りと新目白通りが交わる場所に架かる大きな橋です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、江戸川橋上より上流側を向いた風景…上流から数えて108番目の高戸橋から始まった桜並木は、この江戸川橋で終点を迎えます。
これより下流、ここまで長く続く桜並木は在りません。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、江戸川橋下の「江戸川橋分水路」呑口——右2つのトンネルが分水路の吞口で、左は神田川本流になります。
 
↑江戸川橋側の「江戸川公園」出入口…最近リニューアル工事して、綺麗なトイレと子供向け遊具が設置された遊び場が完成しました。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、江戸川橋上より下流側を向いた風景…川沿いに桜並木が無くなるだけでなく、川に蓋をするよう首都高速が覆うので、眺めは悪くなります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、江戸川橋下流側の下、左岸に開いた排水口です。
付近は水窪川及び弦巻川の合流地点で、豪雨が降った際は溢れた水が川に流れ込む様になっています。(普段は下水化されてる為、流れ込みません。)
弦巻川と水窪川は、それぞれJR池袋駅の西と東から流れ出し、護国寺から並行しつつ、江戸川橋が架かる辺りで、神田川と合流していました。(←本田創著:「失われた川を歩く—東京『暗渠』散歩」より抜粋)
現在は共に全区間暗渠になっており、流れを日の下で観る事は叶いません。
新宿区「早稲田鶴巻町」名の由来は「弦巻川」と云われてますが、川の流域外の町の名前に使われた理由は不明です。

…今回本当長くて済みません(汗)、次回に続きます。

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桜橋~神田川を下る旅~その17

2021年06月28日 00時27分30秒 | 旅の覚書
毎度、週末(と決めてるわけじゃないけど)の神田川下りの旅…最初の頃は夏までに書き切る予定だったんですけどね~~、人生とはままならないものです。(汗)
それはさて置いて、前回「桜橋~神田川を下る旅~その16」に引き続き、今回は上流から数えて104番目の高塚橋~112番目の仲之橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。(一部今年の春撮影した写真も有;)


源流から数えて104番目の橋…「高塚橋」
前回紹介し忘れたのですが、1つ前の神高橋は、新宿区と豊島区の境に架かります。
で、この高塚橋は両岸とも豊島区に架かります。
しかし高塚橋の「高」は豊島区高田から、「塚」は新宿区戸塚町から、一文字ずつ取ってるとの事。
神高橋から128番目に架かる隆慶橋までは新宿区と豊島区、それに文京区が入り混じり、3つの区の特色が混然一体となって、独特なカオス感を醸しています。
中野区と新宿区の境の時と比べ、川の整備にあからさまな差が無いのは、3つの区の仲が比較的良好だからだろうか?
…そう言えば現在の都知事と豊島区長は仲良かったなと。(笑)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、高塚橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、高塚橋上より下流側を向いた風景…ここから107番目の高田橋まで親水テラスの集合地帯です。

☆高塚橋下流側の立ち寄りスポット…親水護岸広場
心無い人が溜まり場にして、騒音等の迷惑行為を頻繁に起こしたせいで、現在は残念ながら閉鎖中。

野外ステージにでも利用されたんだろうか?(したくなる外観ではある)


源流から数えて105番目の橋…「戸田平橋」
名曲「神田川」の歌詞に登場する三畳一間の下宿のモデルは、以前この橋の近くに建ってたアパートと、後年「神田川」を作詞した喜多條忠氏が語っています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、戸田平橋上より上流側を向いた風景…橋の欄干に桜の細工が施されててお洒落。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、戸田平橋上より下流側を向いた風景…ここから下流へ向かい、ポツポツ桜並木が復活致します。
 
↑戸田平橋側に居た野良猫…神田川とは特に関係無いですが、傍らの吸い殻バケツとの組み合わせに、趣きを見出したもので。(笑)

☆戸田平橋側の立ち寄りスポット…「諏訪神社稲荷大神」
上流から見て左岸側、鶏唐揚げ店の片隅に、お稲荷さんを祀る小さな鳥居が建っています。
鳥居に刻まれた「諏訪神社」名から推理するに、高田馬場に旧くから建つ「東京新宿諏訪神社」と関わり有るのかな?分社か何かかな??――なんて考えたのですが、はっきりした事は解りません。
地図で確認すると東京新宿諏訪神社は、戸田平橋から早稲田大学西早稲田キャンパス方面へ歩いて行けば、突き当たる位置に建ってるもよう。
 


源流から数えて106番目の橋…「源水橋」
橋の欄干に水車や桜の絵がデザインされた綺麗な橋。
この付近は昔、水車が回る村だったそうで、その歴史を今に伝える為に、この様なデザインにしたらしい。
「源水」と言う橋名からも、水が全ての源だった土地の歴史が、伝わって来ますね。
 
↑源水橋上より上流側を向いた風景…土地の歴史と橋名に準じてか、親水テラスが両岸に造られてる。

☆源水橋上流側立ち寄りスポット…親水テラス(※対岸にも在り)

川床に下りられる階段は、付近の学校から要望が有った時だけ開放するのだとか。
川の流れをより近くで観て、水に親しんで欲しい――と言うのが親水テラス設置の意図らしい、成る程、成る程。
 
↑源水橋上より下流側を向いた風景…川沿いに植えられた桜の本数が段々増えて参りました。
この先、神田川随一の花見ルートが控えておりますので、御期待ください。


源流から数えて107番目の橋…「高田橋」
新目白通りが上を走る橋で、見ての通り車両の交通量が無茶苦茶多いです。
 
↑高田橋上より上流側を向いた風景…脇に階段が見えるのでお解り頂けるでしょうが、この橋にも親水テラスが設置されています。
高塚橋~高田橋までの区間は、親しみを篭めて「親水テラス銀座」と呼びたい。
 
↑高田橋上より下流側を向いた風景…前方に架かるのは、次に紹介する高戸橋です。

↑高田橋下流側は、一部が前へ出っ張り、テラスを形作ってる。
その下のトンネルより流出する「高田馬場分水路」――ここで「桜橋~神田川を下る旅~その15」と、前回の「桜橋~神田川を下る旅~その16」の記事を振り返ってください。
ちなみにこの高田橋と、前に架かる源水橋は、両岸とも豊島区に架かります。


源流から数えて108番目の橋…「高戸橋」
新目白通りと明治通りの交差点に架かり、明治通りが上を走ります。
二本の大通りが交差する為、車が引切り無しに通る。
更に橋の下流側を荒川都電が走る。
文章だとゴミゴミして喧しいイメージ抱くでしょうが、現地は開放的で風情有る環境を保っています。
高戸橋付近に立ってた看板によると、「戸田平橋~曙橋が架かる区間は、多様な生き物が生息し、人々が親しめる、環境に配慮した護岸整備を行っている。具体的には、神田川に棲む生き物の生息場を再現する為、現況の砂州を保存し平瀬を創出、河床にスロープを付けて石を貼り付け魚道を設置、川床の石に藻類を繁茂させる、建物の側にはケヤキ等の高木を植える等々、人間の暮らしと自然環境が調和する護岸計画を元に整備してる」んだそうな――素晴らしい!!!
 
↑高戸橋上より上流側を向いた風景…橋下、左は神田川の本流、真ん中と右は前回下落合駅側に架かる辰巳橋付近で妙正寺川と合体し暗渠となった神田川高田馬場分水路の出口だそう。
 
↑高戸橋上より下流側を向いた風景…桜並木を背景に最後の都電「荒川線(現名称東京さくらトラム)」が走ります。
ここからが凄い!ここから117番目に架かる江戸川橋まで、「上流から歩く場合の神田川第五お花見コース」に指定させて頂きます!!

↑高戸橋~次の曙橋間に架かる都電「荒川線」の鉄橋。
写真の3人が走る歩道を右折すれば、「上流から歩く場合の神田川第五お花見コース」が始まります。

↑都電「荒川線」鉄橋~曙橋へと続く遊歩道。


源流から数えて109番目の橋…「曙橋」
この橋より花見客の人口がどっと増えます。
 
↑曙橋上より上流側を向いた風景…桜の枝振りが見事、川の流れの中に見える階段の様な物は、魚が遡上し易い様に設置してある魚道です。
 
↑曙橋上より下流側を向いた風景…水色の太い管はガス管、水色なのは一応、景観に配慮して塗られたのかもしれない。


源流から数えて110番目の橋…「面影橋」
四谷怪談に在原業平伝説等、数々のエピソードの舞台として登場する有名な橋。
現在は橋の側で工事を行ってるせいで、本来の美しい風景は望めません。
大きなマンションでも建つのか?…来年春には工事終了してるだろうか?
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、面影橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、面影橋上より下流側を向いた風景。
…上流・下流とも、橋の上から眺める桜並木は絵になる美しさなんですが、いかんせん現在は工事音が喧しくて。(汗)

☆面影橋側の立ち寄りスポット…「山吹の里の碑」
(上流から歩いて来た場合の)左岸に、小さな碑が建てられています。
工事してる敷地内の片隅に建ってるので、注意しないと見付けられませんが。(汗)

「新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称『山吹の里』と云われています。
 これは、太田道灌が鷹狩に出掛けて雨に遭い、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事に因んでいます。
 後日『七重八重、花は咲けども、山吹の実の(蓑)一つだに、無きぞ悲しき』との、後拾遺集に在る古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、意味が理解出来ず娘に対し激怒した己の無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだとの伝承が有ります。
 この碑は神田川の改修工事以前は面影橋の袂に在りましたが、良く見ると『山吹之里』の文字の周辺に細かく文字が刻まれてるのを確認出来ます。
 分析の結果、この碑は元々、貞享三(1686)年に建立された供養塔を転用した物である事が解りました。」(←碑の側に立ってた看板書きより抜粋)
最後にさらっと恐い事書いてますね――元は供養塔だったのか!(汗)
多分、太田道灌関わりのエピソード後付けですわ…。

☆面影橋側の立ち寄りスポット…都電「面影橋」駅

面影橋の側、新目白通りのど真ん中に位置します。
都電が車と一緒に走る風景を撮ろうと、鉄道ファンが連日詰めかけるスポットです。
ちなみに下流方面向いて撮りました。
 
↑面影橋~三島橋までの区間は、遊歩道が道路脇に続き、明るく開放的な雰囲気です。


源流から数えて111番目の橋…「三島橋」
両岸とも新宿区に架かる橋です。
嘗て近所に「三島」名の神社が在った事に由来し、付けられた橋名だそう。
そして益々増えてく花見客の姿。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、三島橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、三島橋上より下流側を向いた風景。
…桜も前方を覆わんばかりに濃い枝振りになって参りました。
 
↑三島橋の袂で振り返り、都電「面影橋」駅を撮影した写真。

☆三島橋~仲之橋間立ち寄りスポット…「早稲田水稲荷神社
神田川から外れて、新目白通り裏になりますが(汗)、古来より地元で名の知られた水の鎮守社ですので、神田川巡りの際には是非寄って欲しいスポットです。
大本の水神様が祀られてるだけでなく、富士講跡に天神様に大国主命に堀部安兵衛、諸々、見所いっぱいです。
 

 
神社の隣の小学校裏には、二宮金次郎像も建ってます。↗
 
↑神社への表出入口である鳥居と、本殿。
 
朱色の鳥居に護られたお稲荷様の顔は、愛嬌溢れるものでした。

↑御社の裏に残る富士講跡、「富塚古墳」と呼ばれ、戸塚町の名前の由来になった場所だとか。
元は早稲田大学9号館裏に在ったのが、ここに移されたのだそう。

↑赤穂浪士随一の剣客と謳われた「堀部安兵衛の碑(堀部武庸加功遺跡之碑)」
元禄七(1694)年二月十一日、堀部安兵衛は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で枡酒を煽ると、高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し、相手方三人をばったばったと斬り倒した。
彼のこの武勇伝は「高田馬場の決闘」と呼ばれ、後世、講談・逸話・芝居の題材に選ばれた。
尚、講談・逸話・芝居の中で、彼の功績は三人斬りから十八人斬りへと過剰な演出が加えられた。(フィクションはこれだから…)
碑の側に立ってた看板には、下記の様な説明文が記載されてました。↓
「地域の伝承として知られる『高田馬場の決闘』における赤穂浪士『堀部安兵衛』の事績を顕彰する記念碑。
 江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫、行田久蔵が、明治43(1910)年に建立した。
 当初は茶屋町通りに在る久蔵の植木園に建てられたが、昭和46(1971)年に現在地に移された。
 記念碑が建てられた当時は、日露戦争後の国家主義の高揚を背景とし、忠臣蔵の再評価が高まった時代であった。
 また、明治から大正にかけては全国的に建碑ブームが巻き起こり、歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。」
成る程、銅像や記念碑を建てるのが、当時のブームだったわけか。(笑)

↑早稲田水稲荷神社に参拝を済ませ、風光明媚な場所で知られる「甘泉園」へ――水稲荷神社の隣に在るんですよ、実は。

☆三島橋~仲之橋間立ち寄りスポット…新宿区立「甘泉園公園
新宿区立では唯一の回遊式庭園との事。
名前の由来は、園内の湧水が清冽で常時涸れず、茶に適した名水だったからとか…蛍まっしぐらの甘い水だったんだね。
 
「江戸時代宝永年間(1704ー1711年)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、その後、江戸中期の安永三(1774)年に初代清水家の江戸下屋敷が置かれた。
 明治30年頃、子爵の(中村)相馬家が所有し、庭園として整備されたが、昭和13年に早稲田大学に移譲された。
 戦後、都はこの地を買収し、改修した後、昭和44年、新宿区へ移管。
 以降、新宿区立公園として現在に至る。
 庭園は、神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地とその低地に在って、段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた池を廻遊する林泉になっている。
 池傍より見上げる雄大な常緑樹林に囲まれ、春のツツジ、秋の紅葉が水面に映り、見事な景観を創り出しているとの事で、『日本の歴史公園100選』に選定された。」←園内の案内看板より抜粋。

↑こちらが公園内の案内図。
2つの澄んだ池を取り巻く様に樹木が繁って、情緒有る景観を創り出しています。
 

 

 
↑どのくらい池の水が澄んでるかってえと、オタマジャクシがわんさか棲んでるの!!
近頃姿を見なくなったと言われるオタマジャクシが、こんなにウジャウジャ!!
夏から秋にかけては蛙の鳴き声が賑やかに響くんだろうな~。
 

 
↑和風庭園には付き物の東屋。
 
公園の頂上部にて、清水が溢れ出る場所を発見…これが嘗て名水で知られた湧水だろうか?↗
春の風景も綺麗だけど、秋の紅葉のシーズンが特に人気らしい。
今度は秋に訪れたいと思いました。
…寄り道はここまでにしといて、次の神田川に架かる橋を目指します。(汗)


源流から数えて112番目の橋…「仲之橋」
以前は桜の枝振りが付近で最も良いと言われた花見の名所でしたが、ここで残念なお知らせが……次に架かる豊橋迄の区間は、環状第4号線の整備工事により、遊歩道が断絶しています。(涙)
遊歩道が行き止まりになってて先へは行けないの…迂回するしかないの――どうしてわざわざ花見の名所の桜を切り倒して道路敷こうとするかな~!
都心に集中する交通を分散化させる目的で敷くそうだから仕方ないけど、当初は東京五輪前に完成させる予定じゃなかったっけ?
新型コロナ流行という不確定要素も有ったけど…リニア新幹線と環状第4号線、どちらが先に完成するか、読めなくなって来たなと。(笑)
 
↑仲之橋上より上流側を向いた風景…開花時期の違いか、一部濃いピンクの桜になってるのが可愛いらしい。

↑仲之橋上より下流側を向いた風景…前方に見えるのが環状第4号線の一部になる予定の新橋です。
 
↑下流側を向いて撮った新橋と、迂回途中に撮った桜並木が途切れた空間。
尚、新橋はどう見ても車道なんで数には入れません。(前回数えた気がするけど;)
 
↑上流側を向いて撮った新橋と、迂回路に利用されてる新橋隣のマンションのコンコース。(汗)
こちらのマンションの管理会社が寛容なお陰で、コンコースを通り抜けて遊歩道に戻る事が出来る。
迷惑行為でマンションの住民や管理会社の方を怒らせないようにせねば。

☆仲之橋~豊橋間の立ち寄りスポット…雑貨&喫茶「iro」
 
遊歩道沿いに、外観がお洒落な喫茶&雑貨店が建ってます。
店内は狭そうだけど、珈琲とケーキを味わいながら、窓に映る美しい風景を眺められる事確実。
新型コロナの流行が収まったら寄ろうと考えてるので、それまでどうか閉店せずに持ち堪えてください…!
インスタ止めちゃったみたいで、結構心配してるんだ。(汗)
HP無いので食べログ記事参照(→https://tabelog.com/tokyo/A1305/A130504/13245477/)
 
↑雑貨&喫茶「iro」にて買った「桜乃葉おこし」、人へのお土産にしたので味は解らず。

↑仲之橋~豊橋への遊歩道、途中から再び明るい表通りに出ます――といったところで、続きは次回!

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桜橋~神田川を下る旅~その16

2021年06月24日 21時55分37秒 | 旅の覚書
皆様、こんばんは。
神田川下りのお時間です。
現実の季節は夏ですが、このブログ上では時計の針を戻して、麗らかな春の一時を演出したいと思います。(汗)
では前回「桜橋~神田川を下る旅~その15」に引き続き、上流から数えて98番目の落合橋~103番目の神高橋までの区間を案内致しましょう。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。(一部今年の春撮影した写真も有;)

源流から数えて98番目の橋…「落合橋」
昔、神田川(神田上水)と妙正寺川が、この地点で落ち合ってた事が、橋名の由来だそう。
「落合」と言う呼び名は、橋だけでなく、この辺りの地名にも引き継がれています。
ちなみに現在、二本の川が正式に合流する地点は、上流から数えて107番目に架かる高戸橋付近だそう。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、落合橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、落合橋上より下流側を向いた風景。
…1つ前の瀧澤橋で遊歩道が途切れてしまってる為、この落合橋から103番目の神高橋まで、川沿いに歩く事が出来ません。
付近は小道が入り組んでる為、初めて神田川下りをする際は迷うかもしれない…ですが、要は川が流れる方向へ進めば良いだけ、東京富士大学正門前の通りを選び、角に突き当たる毎に右折すれば、橋を順に巡れる筈です。

ちなみに余談になりますが、近辺にもう1カ所、「落合橋」と言う名の橋が架かってます。
 
↑こちらは妙正寺川に架かる「落合橋」、近くには西武新宿線「下落合」駅が在ります。
神田川と妙正寺川、二本の河川は、この下落合駅を挟む様な位置関係で流れています。

☆下落合駅北口前の立ち寄りスポット…「加勢牧場―新宿下落合店―」
続けて余談になりますが(汗)、下落合駅北口の直ぐ前に、美味しいと評判のパティスリーが在ります。
HPの紹介文によると、新潟県長岡市の牧場が経営してる店らしい。
世界的に希少なガンジー種の牛乳を使って製造するスイーツは、毎日売り切れる程の大人気。
特に人気が高いのが、チーズケーキとソフトクリームとシュークリームです。
 

 
以前、シュークリームと季節限定レモンチーズタルトを買って食べたんですが、ミルクの風味がめっちゃ濃くて大変美味しかったです。
シュークリーム、この美味しさで1個180円は安過ぎる。
小さい店舗で品数は少ないですが、自信を持ってお勧めする店です。
けど国内でガンジー種の牛乳を取り扱ってるの、那須高原の南ヶ丘牧場くらいかと思ってた…他にも在るんだなと。

他にこの近辺で立ち寄りたいスポットがもう数カ所――

☆下落合駅側(妙正寺川辰巳橋側)の立ち寄りスポット…神田川高田馬場分水路と妙正寺川との合流地点
現在の神田川と妙正寺川との正式な合流地点は上流から数えて107番目に架かる高戸橋付近とお伝えしましたが、その前にここ下落合の妙正寺川に架かる辰巳橋付近で神田川の分水路である「高田馬場分水路」と合流致します。
「高田馬場分水路」については前回、上流から数えて96番目の新堀橋の辺りで触れてますので、ご再読ください。
合流後は暗渠(ここでは地下に潜って見えない川の意味)となり、高戸橋付近で再び地上を流れる開渠となって、神田川の本流と合流するという――一気に合流させては水が溢れる危険が有るので、そういう仕組みになってるのでしょう。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、妙正寺川に架かる辰巳橋。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、辰巳橋下で合流する神田川高田馬場分水路と妙正寺川――右側の流れが妙正寺川で、左側は地下に潜ってた神田川高田馬場分水路です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、妙正寺川に架かる辰巳橋上より下流側を向いた風景…先の流れは暗渠になっていて見る事が叶いません。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は新目白通りに敷かれた緑道、この道の地下に合流して暗渠となった川が流れています。
車道を挟んで緑道の相向かいには、神田川の守り神として古くから信仰を集める「氷川神社」が鎮座しています。
余談続きで申し訳有りませんが、紹介させてください。(汗)

☆神田川高田馬場分水路と妙正寺川との合流地点側の立ち寄りスポット…「新宿下落合氷川神社
創建は今より二千四百年前とも、それより更に古いとも云われ、詳らかではないけど、地元で古くから信仰されて来た神社です。
御祭神は「須佐之男命(すさのおのみこと)」、「奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)」、「大国主命(おおくにぬしのかみ)」――日本の神話を代表するスーパートリオですね。
「太平洋戦争末期、戦火に包まれる憂き目に遭うも、昭和26年に現在の社殿が再建された」との説明が、境内の看板に記載されていました。
 


↑この辺りじゃ最も大きい社殿を誇る神社です。
氷「川」と言う名前に表れてる様に、元は須佐之男命ではなく、武蔵野国の水神を祀ってたとの説が有ります。

…いいかげん余談を切り上げて、神田川に架かる橋の紹介に戻ります。(汗)


源流から数えて99番目の橋…「宮田橋」
住宅街に架かる細い橋です。
側には「世界湯」と言う銭湯が在ります。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、宮田橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、宮田橋上より下流側を向いた風景…写真右、薄緑の金網が張られてる場所は、新宿区立「宮田橋公園」です。
川沿いの公園なのですが、金網で完全に囲まれており、景観を楽しめない造りになってるのが残念です。
公園で遊ぶ児童を守る為なのは理解出来るんですけどね…。


源流から数えて100番目の橋…「東京富士大学構内橋」
記念すべき100番目の橋ですが、学校関係者以外は基本立ち入り禁止な為、渡る事が出来ません!
したがって上流側・下流側の風景写真は撮れず…そもそも学校の施設橋を数に入れるか悩んだのですが(正式な橋名が有るのか解らないし)、人が渡る橋ですので一応数に入れたいと思います。(汗)


源流から数えて101番目の橋…「田島橋」
側に立ってた看板によると、「江戸時代、付近に下屋敷が在った安藤但馬の守が、よくこの橋を使った為、この呼び名になった」との事。
「但馬」名が時を経てく内に簡略化され、「田島」に置き換わったのですね。
昔この橋の上流には「犀が淵」と云う深い淵が在り、江戸時代には「高田十二景」と呼ばれる月見の名所の一つとして、江戸時代後期に刊行された江戸ガイドブック「江戸名所図会」にも紹介されたそうです。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、田島橋上より上流側を向いた風景…東京富士大学構内に咲く桜が観えます。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、田島橋上より下流側を向いた風景…写真右の「さかえ通り商店街」を真っ直ぐ進むと、JR高田馬場駅早稲田口に出ます。
写真左、ヒヨコマークが付いた建物は、消臭剤でお馴染み「エステー」の本社です。

☆田島橋側の立ち寄りスポット…新宿区立「おとめ山公園
…側ってほど近くには無いんですが…田島橋が架かる地点から西武新宿線の踏切を渡って新目白通りを横断し、坂を登った先に在る公園なので(汗)…今回ほんと寄り道が多くて申し訳無い。(汗)
しかしここは嘗て蛍の名所として有名だった「落合の郷」を語る意味で、外すわけには行かない重要スポットなのです。
「おとめ山公園」――名前は上流から数えて27番目の「乙女橋」同様、江戸時代この地が将軍家の狩猟場だった為に、民衆立入禁止の「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれていた歴史が由来になっています。
大正期に入り、大名だった相馬家が広大な庭園を持つ屋敷をこの地域に造成、後に売却される事になった際、森林の喪失を憂えた地元の人達が、「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和44(1969)年にその一部が公園として開園したのだそう。
江戸時代には「落合蛍」として江戸名所図会に描かれる程、蛍狩りの名所で知られていた落合の界隈。
昭和48年より新宿区はこの公園で蛍の飼育を始め、昭和53年から毎年蛍の鑑賞会を開催。
その後、平成13年に地元の「落合蛍を育てる会」の方々に引き継ぎ、現在は地域の方々の手によって活動が続けられています――との説明が、公園内の看板に記載されてました。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「おとめ山公園」への道、おとめ山通り…かなりきつい登り坂になってます。(汗)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、そのおとめ山通りの途中に建ってた「錦松梅東京工場」…こんな所に老舗で有名なふりかけの工場が在ったんだなと。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、おとめ山通りを振り返り見下ろした構図…傾斜がどんだけきついか察せるかと。(汗)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「おとめ山公園」ホタル舎近くの出入口です。
「神田川と妙正寺川、二つの川の浸食により低地、斜面(崖線)、台地が形成され、嘗ては低地に水田、台地には農村が拡がりました。
 斜面一帯は緑地となり、東西に連なる斜面緑地が生まれました。
 その中に公園は位置し、今も豊かな緑が残されています。
 公園では今も湧水が、園内の流れや池を潤しています。」←公園内看板の説明書きより。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は公園の案内図、結構広いです。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真、金網ケージで厳重に護られてるのが「ホタル舎」。
蛍の為に造られた人工の小川では、水棲生物を採集しようとする子供達の姿が…ザリガニを採ってるのかな?
 
↑園内に設置された見晴台。
生憎、観えるのはビルばかりで、景色はいまいちでした。
晴れた日に来れば、もう少し綺麗な風景を眺める事が出来たかも。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、林間広場に建つ東屋。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、林間広場から泉の広場へ続く階段。
 
↑泉の広場の湧水…私が訪れた日は目にする事が出来なかったのですが、季節によっては纏まった水量の流れが見られるそうです。
平成15年には「東京の名湧水57選」の1つに選定されました。
 
↑頂上部付近に広がる、みんなの原っぱ。
児童遊具や健康器具が設置されており、家族連れに大人気でした。
 
↑原っぱの片隅に設置された水琴窟…最初気付かず通り過ぎたほど、隅っこにポツンと設置されています。
 


↑低所の広場と高所の広場とを繋ぐ林間デッキ、樹々の合間から池や広場を見渡せます。
 
↑ふれあい広場に立つスダジイ、愛称ではなく、常緑広葉樹ブナ科シイ属の種別名です。
暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、日本の森林を下支えする重要ポジションに付いてます。
昔からこの場所に立ってた、公園のシンボル樹木だそう。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は上の池、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は中の池。
園内の敷地は、おとめ山通りを挟んで、二つに分かれています。(案内図参照)
園内の3つの池の内、上の池と中の池は左側、下の池は右側の敷地内に在ります。
 
↑右側の敷地内に広がる谷戸の森。
芝斜面は、大正初期から昭和初期にかけ、この辺りを所有していた相馬家(嘗ての相馬中村藩主)の庭園跡を、極力そのままに活かしたのだとか。
 
↑谷戸の森の端に咲いてた桜、敷地内では数組が花見を楽しんでました。
 
↑右側の敷地内に在る下の池、「弁天池」との名が付いてるそう。
池畔には東屋が建っておりました。
何故、下の池だけ固有名が付けられてるのか不明だけど、ひょっとしたら下の池だけ相馬家所有の池だったとか、或いは逆に上の池・中の池がそうだったとか?
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、水辺のもりに咲いてたシャガ。
菖蒲に似た形の白っぽい花を咲かせます。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、水辺のもり側の出入口。
公園を出て、そろそろ橋に戻りましょうか――しかしその前に後1カ所だけ寄らせてください。(汗)

☆おとめ山公園隣の立ち寄りスポット…「東山藤稲荷神社
おとめ山通りを、公園に到る手前で、角を左に曲がると鳥居が現れます。
 

 

 

 
↑小さな御社ですが、源氏一族の守護神として祀られる神社です。
清和源氏の祖である源経基が、927(延長5)年初午の日に、京都稲荷山より勧請・創建したとの謂れが残ってます。
東山稲荷の神から受けた御神託により、平将門の謀反を察知し朝廷に報告した功が認められ、天皇より源姓を賜った経基は、源氏一族の守護神として崇敬されたとの事――将門様にとってはにっくき敵じゃないすか。(汗)
境内に藤の大木が在った事から、「藤稲荷神社」・「富士稲荷神社」とも称されるとか。
旧社殿は1945(昭和20)年5月24日の空襲で焼失、その後1953(昭和28)年に仮殿にて復興された後、1970(昭和45)年5月24日、現社殿の再建に至ったそう。
この辺り空襲で一切合切焼かれたのですね…。

――で、今度こそ神田川に架かる橋に戻ります。(汗)


源流から数えて102番目の橋…「清水川橋」
橋を渡ると、先に紹介したJR高田馬場駅早稲田口に続く「さかえ通り商店街」に出ます。
商店街との名前が付いてますが、雰囲気的に呑み屋横丁に近いです。
飲み屋やキャバレーといった店が、狭い通りを埋める様に建ち並んでいて、猥雑な空気を醸しております。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、清水川橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、清水川橋上より下流側を向いた風景…川の流れがボトルネックの様に細く絞られてるのが見えるでしょうか?
この辺り、嘗て「高田馬場渓谷」と呼ばれてたそうです。

…ここで大変申し訳無いのですが、後1回だけ寄り道をお許しください。(汗)
神田川から一旦外れて、さかえ通り商店街をJR高田馬場駅方面へ歩いて行きます。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、JR高田馬場駅側から見た「さかえ通り商店街」への出入口。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、JR高田馬場駅早稲田口です。
ご年配の方は高田馬場と聞けば、講談の演目等でお馴染み「高田馬場の決闘」を思い浮かべるでしょう。
しかし団塊より下の世代からすれば、高田馬場は、日本のテレビアニメの祖にして漫画の神様、手塚治虫先生関わりの街なのです。
何故なら高田馬場には、手塚先生が設立したアニメ制作会社、「手塚プロダクション」が在るから。
JR高田馬場駅ホームに流れる発車メロディーが「鉄腕アトム」なのも、それが理由です。

☆JR高田馬場駅早稲田口前の立ち寄りスポット…手塚治虫キャラ大集合壁画
JR高田馬場駅早稲田口より降りたら必ず目に付く、高架下に描かれた大壁画です。
この壁画が高田馬場駅前に描かれた経緯は、こちらの「高田馬場新聞」の記事を御覧ください。(→https://www.babashinbun.com/0040atomnomachi.html)
 

 
↑日が傾く頃に訪れた為、壁画が陰で真っ黒くなってしまい残念。(汗)
↓高田馬場一の人気撮影スポット…細かく観てくと、決闘や染物等の高田馬場の郷土歴史が、イラストの中にさり気無く織り込まれてますね。
 

 

 



 
↑個人的好みを言うと、冬のイラストが幻想的な色合いで、一番好きです。
スマホから観た場合、季節の順番が逆になるので、ここはPC画面でご覧ください。(汗)

…今度こそ寄り道せずに、神田川の橋をひたすら巡ります。(汗)
つっても次に架かる神高橋までは川沿いに歩けないので、高田馬場駅から迂回する事に変わりなかったりする。
 
↑神高橋に向かう前に、清水川橋~神高橋間に架かるJR線鉄橋を、下流側向いて撮影してみた。
JR線鉄橋下の橋の様な物は、点検・修理の為に架けてあるんだろうか?

↑清水川橋~神高橋間に架かるJR線鉄橋を、上とは反対に上流側向いて撮影した写真。

清水川橋~神高橋間には、JR線鉄橋の他、西武新宿線が走る鉄橋も架けられています。
JR線鉄橋が神田川の上を真っ直ぐ走るのに対し、西武新宿線はJR線鉄橋に遠慮するかの如く迂回して走る。
多分JR線に先を越されたんだと思うけど、西武新宿線が未だにマイナーなイメージから脱却出来ない一因になってる様で同情してしまう。
バブルさえ弾けなきゃ、複々線化計画が頓挫したりしなかったろうに。
 
↑こちらは清水川橋~神高橋間に架かる西武線鉄橋、PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、下流側向いて撮った写真、
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、上流側向いて撮った写真です。
鉄橋下は一部休憩スペース(喫煙用?)になっており、そこから潜って下から撮影する事が可能、但し自分が撮影したのは去年なので(汗)、現在も下を潜れるかは不明です。

 
源流から数えて103番目の橋…「神高橋」
PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、JR高田馬場駅方面を向いて撮影した写真。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、新目白通り方面を向いて撮影した写真。
ビルが建ち並び賑やかな高田馬場駅方面に比べ、新目白通り方面は何処と無く鄙びた雰囲気――向きによって街の異なるカラーが楽しめる、一粒で二度美味しい的な橋です。(笑)

↑神高橋上より上流側を向いた風景…嘗て急流で知られた高田馬場渓谷の流れを目にする事が出来ます。
現在でも大雨が降った後の水流は、恐怖を感じるほど轟音立てて凄まじいです。

☆神高橋上流側立ち寄りスポット…神高橋下親水テラス
 
通常は封鎖されてますが、住民が水に親しめるよう、上流側の橋下にテラスが設けられています。
新宿区内はこういう親水テラスが数多く設けられてる印象、やはり金が集まる区は街計画からも余裕を感じる。


↑神高橋上より下流側を向いた風景…ここから下流へ川沿いに歩ける道が復活します。
神高橋上流側から下流側には、横断歩道を渡って行く事になりますが、信号が無いので渡る際は注意が必要です。
信号が設置された横断歩道が道路の両端に在るのですが、かなり距離が離れているせいか、信号無の横断歩道を利用する人は少なくないです。

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桜橋~神田川を下る旅~その15

2021年06月20日 20時18分32秒 | 旅の覚書
前回「桜橋~神田川を下る旅~その14」の続きです。
今回は上流から数えて90番目の大東橋~97番目の瀧澤橋までの区間、撮影日は約1年前の2020年3月末頃(※一部今年撮影したものも有;)…今回は写真が非常に多い為、前置き無く参ります。


源流から数えて90番目の橋…「大東橋」
上流から歩いて来た場合、JR中央・総武線鉄橋を潜った先に架かる橋です。
 
↑大東橋上より上流側を向いた風景…線路上を走る総武線を桜越しに納めようとカメラを構える女性を、後ろから撮影してみた。(無断で失礼)
 
↑大東橋上より下流側を向いた風景…橋は中野区と新宿区の境に架かるのですが、ここから先暫くは両岸とも桜並木が続きます。
とは言っても中野区側はブチブチ途切れがち、やはり天下の新宿区様には敵わないって事か。(区の予算がね~)
新宿区サイドは川の流れに沿って公園が続いており、植えられてる桜の本数が殊の外多い区間です。

☆大東橋側の立ち寄りスポット…新宿区立「神田上水公園
大東橋~小滝橋まで続く川沿いの遊歩道を公園に整備したスポットで、総延長約600mの敷地内には人工の小川が流れています。
但し、小川が稼働するのは4月下旬~10月下旬迄と定められいて、花見シーズン中は写真の通りの涸れ川です。
寒い季節は川が凍って転倒する人出るかもだし、花見の季節は酔った客が足滑らせて水浸しになるかもしれんし、妥当な稼働期間かもしれない。
他、児童用遊具にもなる健康器具や、トイレも設置されており、大人から子供まで日常的に楽しめる憩いの場になってます。
 

 
↑神田上水公園内、大東橋~南小滝橋間にて撮影。


源流から数えて91番目の橋…「南小滝橋」
上記した通り、新宿区に入る右岸は「神田上水公園」の敷地です。

↑南小滝橋上より上流側を向いた風景…桜並木の向うに聳え立つツインタワーマンション。
 
南小滝橋上より下流側を向いた風景…視界を覆う程の桜の枝振りにうっとり。
神田川で花見するなら、このスポットは外せないでしょう。
いや、歩くなら、上流から84番目の栄橋~97番目の瀧澤橋まで引っくるめてお勧めで、「上流から歩く場合の神田川第四お花見コース」に指定させて頂きます。
  
↑南小滝橋~亀齢橋間、「神田上水公園」内にて撮影。
公園なので、ベンチも数カ所に設置されてます。


源流から数えて92番目の橋…「亀齢橋」
また橋名に亀が付いてる…昔、付近に「亀久保」と呼ばれる地域が在ったそうで、そこが由来になってるかもしれません。

↑亀齢橋上より上流側を向いた風景。
 
↑亀齢橋上より下流側を向いた風景…上流・下流側とも見事な桜の枝振りで隠れてますが、この橋の付近、流れが緩やかに蛇行しています。

 
源流から数えて93番目の橋…「小滝橋」
新宿区側、橋の手前で諏訪通りと小滝橋通りと戸三小通りが集合し、早稲田通りと繋がります。
下流側へ行くには横断歩道を渡る必要が有りますが、数本の道路が束になる新宿区側の交差点は車の交通量が多く、信号の待ち時間が長くて苛々します。
 
↑「神田上水公園」は小滝橋上流側まで、写真は小滝橋側の公園出入口と、小滝橋上より上流側を向いた風景になります。

↑信号渡り、小滝橋上より下流側を向いた風景。
公園を抜けても桜並木は続く。
何故なら、小滝橋まで中野区と新宿区の境に架かってたのが、次の久保前橋より101番目の清水川橋まで両岸とも新宿区に架かるから。

☆小滝橋~久保前橋間立ち寄りスポット…「寒天工房、讃岐屋
小滝橋~久保前橋まで続く遊歩道の大体真ん中辺りに、美味しい寒天屋さんが在ります。
寒天を売りにしてるだけあり、他店の物と比べて寒天が大きい!非常に食べ応え有ります!
ところてんも美味しいです。
テイクアウト・イートイン共にやってますが、新型コロナ流行により現在は喫茶室の営業時間を短縮しています。
毎週水曜は定休日なので注意!お取り寄せも可能です。
 

 
↑季節限定「桜餡蜜」を買って、外で食べました。(お茶はサービスで頂いた)

 
源流から数えて94番目の橋…「久保前橋」
写真中央の建物は「落合水再生センター」――新宿区・中野区・杉並区の下水処理場です。
施設の屋上は「落合中央公園」として一般に開放されています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、久保前橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、久保前橋上より下流側を向いた風景。
…上流と下流で桜の開花具合が全然違う事には目を瞑ってください。(ぶっちゃけ撮影した年と日が違う;)
この橋から桜を観るなら、「落合水再生センター」の屋上に上がるべし!――大丈夫、不法侵入にならないから!屋上は公園だから!
 


↑「落合水再生センター」の階段から眺めた風景。
満開時は桜が川を覆って壮観、これぞ桜の川流れ!(←意味不明)
…橋の上からだと公園が在る様に見えないから、気付かず通り過ぎてしまう人も居るんです。
屋上から観てる人は施設関係者に違いないと思い込んで…数年前の自分ですが。(汗)
でも実は階段上った先に、広~い公園が在るのですよ!

☆久保前橋側立ち寄りスポット…新宿区立「落合中央公園(落合水再生センター)」
東京都下水道局の下水処理場で、屋上は「落合中央公園」になっています。
ジョギングコースに、雨が降った後でも使える人工芝の野球場やテニスコート等を備える、体育会系にぴったりの公園です。
 

 

 
自分が訪れた時も何処かの運動部が練習に使用しとりました。

↑運動場の他に、こんな綺麗な庭園も――恐らく下水を処理した後の再生水を、庭木への散水に利用してるのでしょう。
   
↑久保前橋~せせらぎ橋間遊歩道にて撮影した桜。

☆久保前橋~せせらぎ橋間立ち寄りスポット…「珈琲専科ラ・フルール」
…以前はここに民家を改築したと思しき小さな喫茶店が営業してたんですが、新型コロナ流行で長期に渡り休業後、今年に入り閉店してしまいました~~~。(涙)
いつか行こうと考えてたのに…一度も行かないまま無くなってしまった…悲しい。
  
店の看板は未だ残ってて、周囲の風景に花を添えています。
桜が咲く春も良いけど、新緑が続く季節も絵になる。

 
源流から数えて95番目の橋…「せせらぎ橋」
新宿区立「せせらぎの里公苑」東側出入口に架かる歩行者専用橋。
この施設も東京都下水道局の管轄らしく、園内を流れる川のせせらぎは、下水処理後の再生水を利用してるとの事。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、せせらぎ橋上より上流側を向いた風景――思いがけず心霊写真が撮れてしまった!!!(嘘です)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、せせらぎ橋上より下流側を向いた風景。

☆せせらぎ橋側立ち寄りスポット…新宿区立「せせらぎの里公苑
先に紹介した通り東京都下水道局管轄の公園で、地下の下水処理施設の上に公園を造り、処理水を庭木の散水やせせらぎに利用してるもよう。
「この『せせらぎ』の水は、落合水再生センターで『下水』を綺麗に処理したものです。
 処理方法は海水を飲み水にする事が出来るものと同じ仕組みで、『膜ろ過法』と呼ばれ、逆浸透膜を通る事により綺麗になります。
 膜の穴の大きさは水の分子だけが通れるものです。」←園内の看板より。
 

 

 

 

 
最先端のろ過処理を行ってるだけあって、元が下水とは思えないほど、園内を流れる水は澄んでいます。
春はソメイヨシノの他、枝垂桜が咲いて美しい。

☆せせらぎ橋~新堀橋間の立ち寄りスポット…「伊良(いよし)コーラ総本店下落合
クラフトコーラの専門店。
瓶に貼ってあるラベルの説明書きによると、原材料はコーラシロップ(レモン、ライム、砂糖、シナモン、コラの実、その他香辛料)、レモン果汁、炭酸等――12種類以上のスパイスと柑橘類を調合してるらしい。
飲んだ感想としては、コーラと言うより、グリューワインに近い。(アルコール入ってないけど)
スパイスたっぷり使ってる為か、飲んだ後、体がポカポカ温かくなりました。
自分は美味しいと感じましたが、家族の意見は真っ二つに分かれました。
  
↑新型コロナ流行の影響か、現在店舗は営業してないもよう。
自販機でのみ1本450円で買う事が出来ます。
飲む直前に、逆様にするのがポイント…香辛料が沈殿してるので。
以前テレビから仕入れた情報によると、移動販売車を使い、都内各地で販売してるとか…都内に住んでる方、いつかは貴方の住む町に、行くかもしれません。(by.花の子ルンルン)
 
↑ちなみに、店の前の通りには、「コーラ小道」なる名前が付いてるらしい。
地図で確認したら、せせらぎ橋~新堀橋間の、上流から見て右岸側の遊歩道が、その小道に当たるらしい…宣伝目的で命名権を買ったのだろうか?


源流から数えて96番目の橋…「新堀橋」
西武新宿線「下落合」駅側に架かる橋です。
 
↑新堀橋上より上流側を向いた風景…上流側には「高田馬場分水路」と言われる川の吞口が在ります。
大雨が降って川が増水した際は、この分水路へ水が落ちる仕組みになってます。
付近は昔、洪水被害が多発した場所なのだとか。

↑新堀橋上より下流側を向いた風景…手前の古い建物が趣きを醸してますが、そろそろ川に落ちそうで心配です。(汗)

 

 
源流から数えて97番目の橋…「瀧澤橋」
上流から歩いて来た場合、この橋が架かる所で一旦遊歩道が途切れます。
桜並木は次に架かる落合橋まで続いてるっぽいのですが、川沿いに歩く道が無いのです。(涙)
 

 


↑瀧澤橋上より上流側を向いた風景。
 

 

 


↑瀧澤橋上より下流側を向いた風景。
…沢山写真を貼り付けた事から察せるでしょうが、この橋の付近は特に桜の枝振りが凄いです。
橋の側には外国人向け日本語学校が在り、春は外国人の生徒さん達が橋の上で花見を楽しんでます。

遊歩道が途切れた所で、今回記事はここまで!

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