やあ、いらっしゃい。
雷雨が降り続く中、足繁く通ってくれて有難う。
風邪を引かないよう、各自椅子にかけてあるタオルで、よく体を拭くといい。
落ち着いた所で…貴殿は予言や予知というものを信じるだろうか?
信じるとしたら、どういった理由からだい?
未来は既に決ってると考えている訳だね?
例えば現在とは別に、過去も未来も独立した時間として存在するなら、確かに可能性は有るだろう。
いやそうでなければ、未来を予知するなんて不可能な筈。
過去~現在~未来と一方通行に時間が流れるだけなら、未来は存在せずしたがって見える訳が無いのだから。
また仮に独立した時間として存在するとしても、その未来を必ず迎えると誰が断言出来るだろう?
独立した時間が1つでも存在するならば、それとは違った独立した時間が存在してもおかしくない筈だ。
1つの未来を在ると認めておいて、他は認めないなんて矛盾してるじゃないか。
過去や未来や現在が、幾重にも重なって在ると考えねば、道理に適わないのだよ。
もしも未来が無数に在るとするならば…
結局の所迎える未来がどれか判らないとしたら…
例えば貴殿の命が残り僅かで潰えるとの予言を受けたとしたら……貴殿は如何されるかな…?
これは中国明の時代に、陶宗儀(とうそうぎ)が著した、『輟耕録(てっこうろく)』に在る1篇だ。
昔、真(しん)州の大商人が商売物を船に積み、杭州へ旅立った。
さてこの時代の杭州には、『鬼眼(きがん)』と呼ばれる高名な術士が在り、店を街中の目立つ所で開いていたが、占いが悉く適中するという評判で、何時も大勢の人を集めて賑わっていた。
評判を耳にした商人は、旅の記念にと思い、店を訪ねて占って貰うと、鬼眼は直ぐに神妙な顔付をして告げた。
「貴方は大金持だが、惜しい事にこの中秋の前後3日の内に寿命が終る」
そのお告げを聞いた商人は、酷く驚愕して怖れた。
以来、なるべく船路を警戒して進んで行くと、8月の初めに船は揚子江にかかった。
そこで商人は1人の女が岸に立って泣いているのを見付けた。
呼び止めて子細を訊いた所、女は涙ながらに答えた。
「私の夫は小商いをしていまして、銭五十緡(びん)を元手に鴨や鵞鳥を買い込み、それを舟に積んで売り歩いて、帰って来るとその元手だけを私に渡し、残りの儲けで米を買ったり酒を買ったりする事を日々の常にしております。
今日もその銭を渡されましたのを、私が粗相を仕出かし落してしまいまして、どうしようかと途方に暮れていました。
夫は気の短い人間ですから、腹立ち紛れに撲ち殺されるかも知れません。
ならばいっそ此処に身を投げて死んだ方がましかと思い悩むばかり…」
女の言い分を聞いた商人は、「人は様々だなぁ」と呟いて嘆息した。
「自分は寿命が後僅かと言われ、それでももし金で助かるものならば、金銀を山に積んでも厭わないと思っているのに、此処には僅かの金に代えて寿命を縮めようとしている人が在る。
貴女、死ぬなんて事を考えるのはお止しなさい。
心配しなくとも、その位の銭は私がどうとでもして上げるから」
こう言って彼は百緡の銭を与えると、女は幾度も拝謝して立ち去った。
商人はそれから家へ帰り、両親や親戚友人に予言の内容を打ち明け、万事を処理して粛々と死期を待っていたが、その期日を過ぎても、彼の身に何の異状も無かった。
その翌年再び杭州へ行って、去年と同じ岸に船を泊めると、彼の女が赤児を抱いて礼を言いに来た。
彼女はあれから5日後に赤児を生み落して、母も子も恙無く暮らして居ると言うのであった。
それからまた彼の鬼眼の店を訪ねると、彼は商人の顔を見た途端、不思議そうに言った。
「貴方は未だ生きているのか?」
そうして商人の面相をじいっと眺めた後、彼は唐突に笑い出して尋ねた。
「察するにそれは、陰徳を積んだお蔭でありましょう。
貴方は以前、人間2人の命を助けた事が有りますね?」
迎える未来は心懸け次第で変るものらしい。
ならば気に病む事無く、前向きに生きられるがいいだろう。
在っても無数であるなら、悩むだけ無駄だから。
この話も日本の落語等に影響を与えているので、何となく聞いた覚えが有る人も居るかもしれぬ。
また同じく収録されている『飛雲渡(ひうんど)』と言う話も筋は同じだ。
良きものに味を加え、伝えて行くのが人の力。
積み重ねて生まれるものが文化なのだろう。
今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。
……有難う。
それじゃあ雷に気を付けて帰ってくれたまえ。
――いいかい?
夜道の途中、背後は絶対に振返らないように。
夜中に鏡を覗かないように。
そして、風呂に入ってる時には、足下を見ないように…。
では御機嫌よう。
次の夜も、楽しみに待っているよ…。
参考、『中国怪奇小説集(岡本綺堂、編著 光文社、刊 輟耕録―陰徳延寿―の章より)』。
雷雨が降り続く中、足繁く通ってくれて有難う。
風邪を引かないよう、各自椅子にかけてあるタオルで、よく体を拭くといい。
落ち着いた所で…貴殿は予言や予知というものを信じるだろうか?
信じるとしたら、どういった理由からだい?
未来は既に決ってると考えている訳だね?
例えば現在とは別に、過去も未来も独立した時間として存在するなら、確かに可能性は有るだろう。
いやそうでなければ、未来を予知するなんて不可能な筈。
過去~現在~未来と一方通行に時間が流れるだけなら、未来は存在せずしたがって見える訳が無いのだから。
また仮に独立した時間として存在するとしても、その未来を必ず迎えると誰が断言出来るだろう?
独立した時間が1つでも存在するならば、それとは違った独立した時間が存在してもおかしくない筈だ。
1つの未来を在ると認めておいて、他は認めないなんて矛盾してるじゃないか。
過去や未来や現在が、幾重にも重なって在ると考えねば、道理に適わないのだよ。
もしも未来が無数に在るとするならば…
結局の所迎える未来がどれか判らないとしたら…
例えば貴殿の命が残り僅かで潰えるとの予言を受けたとしたら……貴殿は如何されるかな…?
これは中国明の時代に、陶宗儀(とうそうぎ)が著した、『輟耕録(てっこうろく)』に在る1篇だ。
昔、真(しん)州の大商人が商売物を船に積み、杭州へ旅立った。
さてこの時代の杭州には、『鬼眼(きがん)』と呼ばれる高名な術士が在り、店を街中の目立つ所で開いていたが、占いが悉く適中するという評判で、何時も大勢の人を集めて賑わっていた。
評判を耳にした商人は、旅の記念にと思い、店を訪ねて占って貰うと、鬼眼は直ぐに神妙な顔付をして告げた。
「貴方は大金持だが、惜しい事にこの中秋の前後3日の内に寿命が終る」
そのお告げを聞いた商人は、酷く驚愕して怖れた。
以来、なるべく船路を警戒して進んで行くと、8月の初めに船は揚子江にかかった。
そこで商人は1人の女が岸に立って泣いているのを見付けた。
呼び止めて子細を訊いた所、女は涙ながらに答えた。
「私の夫は小商いをしていまして、銭五十緡(びん)を元手に鴨や鵞鳥を買い込み、それを舟に積んで売り歩いて、帰って来るとその元手だけを私に渡し、残りの儲けで米を買ったり酒を買ったりする事を日々の常にしております。
今日もその銭を渡されましたのを、私が粗相を仕出かし落してしまいまして、どうしようかと途方に暮れていました。
夫は気の短い人間ですから、腹立ち紛れに撲ち殺されるかも知れません。
ならばいっそ此処に身を投げて死んだ方がましかと思い悩むばかり…」
女の言い分を聞いた商人は、「人は様々だなぁ」と呟いて嘆息した。
「自分は寿命が後僅かと言われ、それでももし金で助かるものならば、金銀を山に積んでも厭わないと思っているのに、此処には僅かの金に代えて寿命を縮めようとしている人が在る。
貴女、死ぬなんて事を考えるのはお止しなさい。
心配しなくとも、その位の銭は私がどうとでもして上げるから」
こう言って彼は百緡の銭を与えると、女は幾度も拝謝して立ち去った。
商人はそれから家へ帰り、両親や親戚友人に予言の内容を打ち明け、万事を処理して粛々と死期を待っていたが、その期日を過ぎても、彼の身に何の異状も無かった。
その翌年再び杭州へ行って、去年と同じ岸に船を泊めると、彼の女が赤児を抱いて礼を言いに来た。
彼女はあれから5日後に赤児を生み落して、母も子も恙無く暮らして居ると言うのであった。
それからまた彼の鬼眼の店を訪ねると、彼は商人の顔を見た途端、不思議そうに言った。
「貴方は未だ生きているのか?」
そうして商人の面相をじいっと眺めた後、彼は唐突に笑い出して尋ねた。
「察するにそれは、陰徳を積んだお蔭でありましょう。
貴方は以前、人間2人の命を助けた事が有りますね?」
迎える未来は心懸け次第で変るものらしい。
ならば気に病む事無く、前向きに生きられるがいいだろう。
在っても無数であるなら、悩むだけ無駄だから。
この話も日本の落語等に影響を与えているので、何となく聞いた覚えが有る人も居るかもしれぬ。
また同じく収録されている『飛雲渡(ひうんど)』と言う話も筋は同じだ。
良きものに味を加え、伝えて行くのが人の力。
積み重ねて生まれるものが文化なのだろう。
今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。
……有難う。
それじゃあ雷に気を付けて帰ってくれたまえ。
――いいかい?
夜道の途中、背後は絶対に振返らないように。
夜中に鏡を覗かないように。
そして、風呂に入ってる時には、足下を見ないように…。
では御機嫌よう。
次の夜も、楽しみに待っているよ…。
参考、『中国怪奇小説集(岡本綺堂、編著 光文社、刊 輟耕録―陰徳延寿―の章より)』。