七夕に、天の川ではなく、神田川の話をするのも一興。(汗)
前回「
桜橋~神田川を下る旅~その17」に引き続き、今回は上流から数えて113番目の豊橋~117番目の江戸川橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の
2020年3月末頃です。(一部今年の春撮影した写真も有;)
今回紹介する一帯は神田川下りの目玉、寄り道し捲りで、上げる写真も多い為、無駄な前置きは無しで参ります。
↑
源流から数えて113番目の橋…「豊橋」
名前に豊島区の「豊」が入りますが、両岸とも新宿区に架かります。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、豊橋上より上流側を向いた風景、
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、豊橋上より下流側を向いた風景になります。
橋が架かる一帯の「目白台」は、江戸中期以降、旗本の邸地で、清水家や一橋家など、有力大名の下屋敷が存在しました。
中でも肥後細川家の敷地だった場所は、広大な庭園がそのまま公園に活かされた事で、嘗ての栄華の片鱗を今に伝えています。
肥後細川家…そうです、元首相の細川護熙さんの御実家です。
細川護熙さんは肥後細川家18代目に当たるお殿様なんだとか。
☆豊橋~駒塚橋間立ち寄りスポット…「
肥後細川庭園」
「細川家は室町幕府三管領の一つとして武門の誉れ高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まりました。
代々文武両道に優れた細川家は、三代当主細川忠利の時、肥後熊本五十四万石を与えられ、強力な外様大名として幕末に至りました。
現在の永青文庫と肥後細川庭園、そして隣接する和敬塾の敷地は、幕末期から戦後まで、広大な細川家の屋敷でした。
細川邸の前には、嘗て鶴・亀と呼ばれた松が在り、この辺りの旧町名『高田老松町』の由来ともなりました。
江戸時代の切絵図には、二本の松の絵が描かれています。
幕末の時代、熊本54万石の細川侯の下屋敷だった場所は、明治15年に細川家の本邸(現在の目白台運動公園敷地)となり、その後、東京都が買収して、昭和36年に『新江戸川公園』として開園、昭和50年になると文京区に移管され、平成29年3月に『肥後細川庭園』と名称を変更しました。
園内には、細川家所縁の銘花『肥後六花』の内、肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、肥後山茶花が植栽されています。」←園内看板より抜粋。
↑写真は肥後細川庭園正門と案内図。
園内は湧水等、目白台(関口台地)の自然景観を活かした造りの、池泉回遊式庭園になっています。
何が素晴らしいって入場無料な点、こんなに美しいお庭を只で観せてくださるなんて、流石お殿様太っ腹!
↑正門から入り、中門を抜けると、左に建っているのが、旧熊本藩細川家の学問所だったと云われる「松聲閣(しょうせいかく)」です。
入館の際は靴を脱いで入ります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合、下)の写真は、「松聲閣」1階の窓より観た庭園。
建物は大正時代に改修を行い、一時期は細川家の住まいとして使用されてたとの事。
その後も使用勝手の変更から増改築が繰り返されたそうで、特徴的な車寄せも後から玄関に取り付けられたそうです。
平成26年度から開始した工事では、過去の写真や図面を参考に整備を行い、戦前の状況を留めている椿・菊・朝顔の間と横の階段は保存を第一に整備を行ない、可能な限り既存の木材を使用する為、伝統的な揚屋工法を用いたそう。
更に過去の写真から下見板張りを用いていた事が解ったため1階の外壁に採用、花菖蒲・芍薬の間の照明は既存のランプシェードを磨いて再利用、現在は製造されていない「歪み硝子」も既存品を利用し、平成28年1月にリニューアルオープンしたそうです。
各部屋には肥後六花に因んだ名前が付けられています。
「肥後六花」とは、江戸時代から品種改良を重ねて来た熊本独特の花で、肥後菊、肥後椿、肥後山茶花、肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後芍薬の6種類を指します。
細川家八代重賢(しげたか)公の時に、武士の嗜みとして始められたそうで、各々に「花連」と呼ぶ保存団体が在り、門外不出として現在に伝えられています。
熊本城竹の丸の肥後名花園では、折々のシーズンにこれらの花を楽しむ事が出来ます。
また、椿・菊・山茶花の部屋の床の間には、熊本県産のい草「龍鬢表(りゅうびんおもて)」を編んで拵えた畳を使用してるとの事。
「龍鬢表」は、い草の中でも太く長い良質な物を選んで天日干し→水漬け→天日干しの工程を繰り返して出来上がる黄金色のい草で、見た目の美しさに加え、経年の変色を防ぐ、先人の知恵だそうです。
椿の間では有料で呈茶サービスが受けられますが、コロナ禍の折、先ずは電話で確認した方が良いかもしれません。
↑往時の佇まいを残す「松聲閣」2階廊下と「山茶花」の間。
古式ゆかしい建物ながら、2階に上がるエレベーターが設置されている事に驚きました。
流石は元お殿様のお住まいだった場所、訪れる客への配慮に心の余裕を感じます。
↑2階「山茶花」の続きの間と、「山茶花」から眺めた庭園。
「山茶花の間」は一般客用の展望所になっています。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、庭園から眺めた「松聲閣」です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「松聲閣」で販売してる「加勢以多(かせいた)」と言う細川家伝統の菓子です。
名前の由来は、ポルトガル語の「カイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロジャムの箱)」だそう。
餅粉で作ったおぼろ種でマルメロ羹(現在はカリンジャムを使用)を挟み、細川家の家紋「九曜の紋」を焼き付けて、幕府に献上もした細川家秘伝の伝統銘菓を復元したとの事。
さっくりした口当たりと仄かな甘酸っぱさが印象的と、チラシに紹介されてましたが、訪れた日は荷物になるのを嫌って買わなかったのです。
買えば良かったと、今は後悔してます。(汗)
↑西門前の休憩所と、中門。
↑PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、築山に建っていた「雪見灯籠」です。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「永青文庫」へ続く階段です。
「細川家の第16代当主で肥後熊本藩主を務め、目白台出身の政治家でもある細川護立(もりたつ:1883~1970年)は、芸術に造詣が深く、細川家に伝わる文化財の散逸を防ぐ目的で『永青文庫』を設立しました。
名称は初代藤孝の始祖から八代までの菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の『永』と、藤孝の居城であった青龍寺城の『青』の二字を取って、護立侯が名付けました。
国宝8点、重要文化財32点を含む美術工芸品や、歴史文書等の9万4千点を所蔵しており、昭和48年に博物館法による登録博物館となりました。
また、平成22年1月には公益財団法人に移行して、現在に至っています。
建物は旧細川侯爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建設されたものです。
『永青文庫』設立後は、細川家に伝来する歴史資料や、重要文化財を始めとする美術品の管理・保存・研究を行い、一般に公開しています——月曜休館。」←肥後細川庭園にて貰ったしおりより抜粋。
以前テレビで細川元首相が刀等を紹介してるのを観た事が有ります。
貴重な細川コレクション、時間が有れば鑑賞したかったのですが、この時は川下りを急いでたので見送りました。
コロナ禍が収束して、世界が平和になったら、改めて鑑賞しに訪れたいです。
↑来た階段を下りて、庭園に戻ります。
↑肥後細川庭園最大の見せ場「大池」。
↑大池に浮かぶ「中島」と、水面に影を映す桜。
春は庭園をより艷やかに魅せます。
↑高台に建つ十三の塔。
↑大池に注ぐ滝と、中池。
この滝の水が、ひょっとしたら湧水?
↑塀の側に築かれた小高い丘「築山」…登れば塀の外に続く桜並木と花見客を見下ろし、殿様気分を味わえます。
↑PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、大池と中池の堺に架かる「土橋」。
↑庭園を一周した後、南門から退出しました。
次の橋に向かいます――って、今回未だ二つ目の橋にも到達してない件。(汗)
↑豊橋~駒塚橋間に咲いてた桜と、次に架かる駒塚橋。
この橋が架かる辺りもまた、歴史的に重要なスポットが続きます。
↑
源流から数えて114番目の橋…「駒塚橋」
(上流から歩いた場合)左岸に建ち並ぶ水神神社、関口芭蕉庵、椿山荘が、橋からの眺めに趣を添えています。
対して右岸は眺めこそ左岸に負けますが、新目白通りを挟んで建つリーガロイヤルホテル東京裏には、早稲田大学創立者である大隈重信所縁の大隈庭園が広がっています。
橋が架かる両岸に見所が並ぶ為、全て観て廻るとなると時間を相当取られますので、注意が必要です。(汗)
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、駒塚橋上より上流側を向いた風景…桜並木が途切れ、緑が続く辺りは、先に紹介した肥後細川庭園になります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、駒塚橋上より下流側を向いた風景…和風の門構えは関口芭蕉庵、その後ろの大きな建造物はホテル椿山荘東京です。
☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…関口「
水神社」
橋から見える白い鳥居がシンボルの、水神様を祀る神社です。
言い伝えによると、或る日、水神様が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)也、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町悉く安泰也」と告げた為、ここに祠を建て祀ったとか。
☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…「胸突坂」
水神社の右に見える急坂です。
その名を呼ぶだけで胸が苦しくなりそう。(汗)
途中にちょっとした休憩スペースが設けられてるそうですが、見るからに恐ろしい坂にビビって、未だ登った事有りません…。
台地と言うか、坂の上から見下ろしたら、さながら崖に立ってる気分になるんじゃないかと。(汗)
胸突坂への登り口から下流方面へ歩いて行くと、関口芭蕉庵に突き当たりますが、その前に対岸の新目白通りに面したリーガロイヤルホテル東京を紹介致します。
☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…「
リーガロイヤルホテル東京」
↑早稲田大学との土地信託方式により、同大学の敷地内に建設された高級ホテルです。
大学の中にホテルを建てちゃう早稲田大学の財力よ…ホテルの庭園を散歩してる積りが、気が付いたら大学の講堂前に出てるなんて、知らずに泊まった人は戸惑うに違いない。
↑こちらが新目白通りに面したホテル正門、アール・ヌーヴォー調のモダンなデザインになってます。
↑花見のシーズンという事で、ロビーの大花瓶には桜が活けてありました。
ロビーを突っ切り奥へ進むと、「
大隈庭園」に出る裏口…もとい庭園の出入口に到ります。
江戸時代後期、彦根藩井伊家や高松藩松平家の下屋敷が在った場所を、明治維新後に大隈重信が入手、後に東京専門学校(現、早稲田大学)開設の為の用地に充てたとの事。
隣接する敷地内に本邸を建てた大隈重信は、1884(明治17)年、元々の大名庭園を和洋折衷式に改修。
1922(大正11)年に大隈重信が没した後、庭園は早稲田大学に寄付され、大隈会館の庭園として一般公開された。
…写真の案内板に記載されてる通り、一般公開は4月からという事で、あいにく私は庭園を観る事が出来ませんでした。
そもそもコロナ禍で、今年の春は開放されてなかった可能性も有る。
世の中が平和にならんと、お庭を散歩する事も出来ない…。
↑神田川に戻って、駒塚橋~大滝橋間遊歩道…写真は椿山荘の対岸に続く桜トンネルです。
↑下流を向いた場合の右岸桜並木は、一休橋に到る前に途切れます。
それまでの間、見事な桜トンネルを潜って歩くのも、また楽し…歩いた先には「
カンパイ!ブルーイング」と言うクラフトビールの醸造所が在る。
1階ビアバーはコロナ禍の中でも逞しく営業を続けていた。(笑)
☆駒塚橋~大滝橋間の立ち寄りスポット…「
関口芭蕉庵」
下流を向いて左岸側、水神社の鳥居や胸突坂が在る通りに面した、古式ゆかしい和の建造物です。
「芭蕉庵」の名が示す通り、松尾芭蕉が神田川改修工事に参画した際、一時的に住んだ住居跡です。
「江戸前期の俳人松尾芭蕉(1644~1694)は、延宝五(1677)年~延宝八(1680)年まで、神田川改修工事に参画し、『龍隠庵』と呼ばれる庵(水番屋との説も有)に住んだと伝えられている。
後に世人はこの庵を『関口芭蕉庵』と呼んだ。
享保十一(1726)年、芭蕉の三十三回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。
その後、芭蕉の門人である去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
芭蕉は、早稲田田圃を琵琶湖に見立て、その風光を愛したと云われている。
そこで、寛延三(1750)年、宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆『五月雨にかくれぬものや瀬田の橋』の短冊を埋めて、墓とした。
『さみだれ塚』と称されるこの場所は、芭蕉堂の近くに在る。
芭蕉庵の建物は昭和十二(1937)年三月、近火で類焼したが、同年八月再建された。
しかし昭和二十(1945)年五月の戦災で焼失した。
敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江(江戸時代後期の戯作者、狂歌師:あけらかんこう)歌碑・伊藤松宇(明治~昭和初期に活躍した俳人・古俳書収集家)の句碑等が在り、往時を偲ぶ事が出来る。」←現地の案内板より抜粋。
ここも残念ながらコロナ禍により閉門してました…つうか
2018、2019年に訪れた際もお休みしてた。(泣)
学生の頃、一度だけ入った事有ります。
中の庭園は小さいながらも起伏に富んでて、一周するだけでも結構ハードです。
しかし頂上からの見晴らしは誠に素晴らしい、春は特に川の流れの様に続く桜並木が圧巻。
…とは言え現在は入れないので、先に進みます。
↑この写真も駒塚橋~大滝橋間遊歩道にて撮影した物なのですが、芭蕉庵、椿山荘の建物が続くコースは、和の情緒たっぷりです。(ちなみに上流側を向いての撮影)
卒業式帰りの袴姿の女子学生が、更に和の雰囲気を盛り上げてくれました。
☆駒塚橋~大滝橋間の立ち寄りスポット…「
ホテル椿山荘東京」
「芭蕉庵」隣に門を構える、広大で歴史深い庭園が自慢のホテル。
ホテルが建つ敷地は、南北朝の頃から椿が自生する景勝地だったと伝えられ、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷が建っていたとか。
明治時代になり、政治家の山縣有朋が、現在のホテル椿山荘東京に当たる土地を購入し、庭園・邸宅を造り「椿山荘」と命名したとの事。
1918(大正7)年、大坂の藤田財閥二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。
1948(昭和23)年に藤田興業(現:DOWAホールディングス)の所有地となり、1952(昭和27)年より宴会場・結婚式場の営業を開始。
1955(昭和30)年、藤田興業の観光部門が分離し発足した藤田観光に、椿山荘の運営が移管された。
1992(平成4)年、宴会・ウェディング業だけでなくホテル業にも進出、国際的なホテルチェーンのフォーシーズンズ・ホテルズ&リゾーツと提携し、「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」と名を改め開業。
2012(平成24)年にフォーシーズンズとの業務提携契約を終了した藤田観光は、翌年に総合宴会施設だった椿山荘もホテルと一体運営化、「ホテル椿山荘東京」と名を改め再スタートを切った。
——以上、ここまでウィキ参照。(汗)
神田川の花見シーズンの他、初夏の夜に庭園で開催する「蛍の夕べ」が評判ですが、最近もう1つ話題のイベントが出来ました。
人工的に雲海を発生させてのライトアップです!
「人工」と聞くと白ける気持ちになりますが(雲海だけに)、一度くらい体験したくも有ります。(笑)
↑神田川沿いの遊歩道に面した「冠木門」…コロナ禍の現在は閉めてるそうで残念です。
写真を撮影した去年春は、この門を潜って無料で庭園を散策する事が出来ました。
2019年までは桜のクッキーやパウンドケーキ等を門前で売ってて、お土産に購入する事も楽しみの一つだったのに…おのれ新型コロナめ!
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、庭の木立の奥にひっそりと佇む日本家屋を改築した、石焼料理専門レストラン「木春堂」。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、昭和の電力王と呼ばれた松永安左エ門が設計した茶室「長松亭」跡です。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、樹齢約500年の椎の樹木で、椿山荘の御神木との事。
根元の周囲は4m50cm、樹高は約20mに及ぶそうです。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「中門」、ここを潜ると本格的に庭園が広がります。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は園内の散策道、庭園は小高い丘に広がる為、かなり起伏に富んでいます。(目白台なので)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は池の側に建ってた石塔…説明は下記に。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は「水車」。(観たら解るか;)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「十三重の石塔」。
戦国時代の武将で茶人でもあった織田有楽(織田信長の弟)由縁の物と伝えられる層塔で、総高は4m76cm有るそう。
花崗岩製で、第一層に四方仏(弥陀・弥勒・釈迦・薬師)が彫刻されている。
他、庭園内には数種の層塔が混合しており、その一部は鎌倉期の様式を示しているのが特徴だとか。
↑園内に在る古井戸「古香井」。
古くから東京の名水に数えられた湧き水が現在も自噴する井戸で、秩父山系からの地下水が湧き出ているのだそう。
1923年の関東大震災の際、被災者用に開放されたと云う有難い井戸水は、ミネラル・カルシウムを豊富に含んだ弱アルカリ性の名水との事です。
井戸の周囲には紫色の小さい花が群生していて綺麗でした——ハナダイコン?
初夏は杜若や紫陽花が咲き乱れるスポットだそうです。
↑庭園に架かる朱橋——「弁慶橋」、又は「赤橋」と呼ばれるそうです。
元々「竹裏渓」と呼ばれ、孟宗竹林の裏に在った谷に清流が流れていた場所で、現在も清らかなせせらぎを保っているとの事。
椿山荘の案内によると、蛍の夕べはこの橋の周辺で行われる様です。
↑その「弁慶橋(赤橋)」の上で、袴姿の女子学生が記念撮影してました。
桜が咲く時季は卒業式シーズンでもあるので、袴姿の女子学生を頻繁に見掛けます。
写真を撮るこちらとしては、良い被写体になってくれて、大変有難いです。(笑)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)は結婚式場前に広がる「幽翠池」、池の畔道を一本桜が立つ方へ歩いて行くと、五丈滝が見えて来ます。
↑クリスタルチャペル「ルミエール」奥の「五丈滝」。
「岩の段差と、苔生した岩肌が、水の流れに変化を付け、夏にはその風景と水音に涼を感じられます。
五丈滝に背を向けると、幽翠池越しに庭園の緑、チャペルやホテル棟を一望出来、人気の撮影スポットとなっております。」←ホテルの案内より抜粋。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、チャペルの側に立つ一本桜。
薄桃色の花弁が観る者を華やいだ気持ちにさせてくれます。
↑その一本桜の前で結婚式の写真を撮影してました。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、クリスタルチャペル「ルミエール」。
和風庭園の中、チャペルが建つこの一角だけ洋風で、周囲から浮いています。
↑園内の小高い丘の上に建つ三重塔「圓通閣」——三重塔まで庭に在るなんて凄い!!最早何でも有りです!
「平安期の歌人として名高い参議・小野篁(おののたかむら)所縁の寺院、広島県賀茂郡の篁山竹林寺(たかむらさんちくりんじ)から、大正14(1925)年に目白の森に移築されました。
平成22(2010)年に行われた移築後初の『平成の大改修』によって、従来、建築様式から室町時代末期の建立かとされていましたが、年輪年代測定法調査により、1420年頃(室町時代前期)の部材が使われている事が判明しました。
ただ、平清盛が第1回目の修復をしたという言い伝えもあり、創建の謎は未だ明らかにされてはいません。
この大改修の際に、本尊として『聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)』を奉安。
臨済宗相国寺派・有馬頼底管長猊下による落慶ならびに入仏開眼法要を執り行い、『圓通閣(えんつうかく)』と名乗るところとなりました。」←ホテルの案内より抜粋。
ちなみに「圓通」とは圓通大士、観世音菩薩の異称で、「圓通閣」は観音堂を意味する言葉だそうです。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「般若寺式石灯籠」。
「鎌倉後期の逸品で、江戸期の茶人や造園家の間では、『名物の灯籠』の一つとして人気を得ていた『般若寺式』の石灯籠です。
その評判ゆえ、多くの模作が造られましたが、昭和53(1978)年、石造美術研究の権威・川勝正太郎博士により、『椿山荘(現・ホテル椿山荘東京)の灯籠が鎌倉期に作られた原作』であり、奈良県般若寺に現存するものはその写しであろうという調査結果が発表されています。」←ホテルの案内より抜粋。
…つまりホテル椿山荘東京としては、「
うちに在る石灯籠が元祖で本物!!」と言いたいらしい。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「丸形大水鉢」。
「元は京都府東山区粟田口から山科に通じる日ノ岡峠に在った物で、木食上人(もくじきしょうにん)・養阿正禅(ようあしょうぜん)が旅人の為に造ったと伝えられています。
この水鉢は、荷車である牛車の轍が刻み込まれた貴重な敷石『車石』と共に保存されており、峠を越える人々が暫し牛車を停め、水鉢に溢れる清水で喉を潤した往時が偲ばれます。」←ホテルの案内より抜粋。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「白玉稲荷神社」——庭に神社まで建ってるんです、ここ!!
「大正13(1924)年、京都下鴨神社にあった社殿を譲り受けて移築(平成元年に新社殿へ改修)、翌年に伏見稲荷明神から白玉稲荷を勧請して椿山荘の守護神としました。」←ホテルの案内より抜粋。
デパート屋上に鳥居が建ってる例とか偶に見掛けるけど、わざわざ京都下鴨神社に在った社殿を移築したってのが凄い。
戦前の財閥はやる事がビッグだぜ。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、神社が建つ高台からの見晴らし。
高台の周りには、往時の風景を偲ばせる様に、紅い椿の花が咲いてました。
↑蕎麦処の「無茶庵」…「庭園の一際静かな緑の中に佇む室町時代から受け継がれた隠れ家で、国産蕎麦の実から挽いた自家製蕎麦を、銘酒と東京食材と合わせてお楽しみ頂けます」とは、ホテル案内より。
——とまぁ、見所いっぱいの庭園ですので、一度訪れてみてください。
インスタ映え間違い無の写真が沢山撮影出来ますよ!
↑
源流から数えて115番目の橋…「大滝橋」
…今回寄り道に費やす時間の方が長くて、目的を忘れてしまいがちですが、記事のテーマは神田川に架かる橋になります。(汗)
橋名は嘗てこの付近に在った「大洗堰」から。
「大洗堰」とは神田上水取り入れ口として築かれた堰で、ここで堰き止められた川の水は、江戸市民の喉を潤す水道に繋がれました。
その「大洗堰」から落ちる余水を滝に例えて、「大滝橋」と命名されたのだそう。
今風に言えばダムですね。
名が示すほど大きい滝ではなかったでしょうが、江戸の水の手として重要な場所だった事から、尊崇の念を篭めてそう呼んだのかもしれません。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、大滝橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、大滝橋上より下流側を向いた風景…右岸は途中から首都高速に覆われ、桜並木が途切れます。
☆大滝橋~一休橋間の立ち寄りスポット…文京区立「
江戸川公園」
「関口台地の南斜面の神田川沿いに、上流から数えて117番目の江戸川橋まで続く、東西に細長い公園です。
西洋風の山小屋を模した時計搭のある四阿や、藤棚の屋根付きテラス等が在り、変化に富んだ景観となっています。
テラスの先には石組みの池が在り、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復原しています。(池の石組に、大洗堰の石柱を使用してます)」←文京区の案内文を引用してます。
…紹介し忘れたのですが、駒塚橋~江戸川橋までは、両岸とも文京区に架かります。
今回紹介した橋の中で新宿区管轄は豊橋だけです。
↑江戸川公園内の風景…川沿いの遊歩道がそのまま公園と一体化しています。
目白台(崖)の地形を活かし、高所に設置された滑り台は、子供達からの人気が非常に高いです。
例年なら花見客が通りの両脇にレジャーシートを敷き詰め、露店が建ち並ぶのですが、コロナ禍という事で今年は控え目でした…見なかったと書かない辺りがミソです。(笑)
↑公園内に造られた小川の様な池、この一角にプチ復原された大洗堰が在るらしいのですが、写真を撮り忘れました。(汗)
江戸川橋方面へ進んだ先には、藤棚の屋根付きテラス席が並んでいます。
…ところで神田川なのに、何故「江戸川」公園・「江戸川」橋名なのかって言うと、昔は神田川の大滝橋から飯田橋付近までの区間を「江戸川」と呼んでいたからです。
ちなみに源流から大洗堰付近までの上流部は「神田上水」、飯田橋より下流は「神田川」と区別して呼んでたそうな。
↑
源流から数えて116番目の橋…「一休橋」
車は「この橋渡るべからず」の歩行者専用橋です。
真ん中通ろうとしても、車には幅が狭くて渡れません。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、一休橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、一休橋上より下流側を向いた風景。
…片側は首都高速が覆い被さり、桜並木が途切れます。
以前はこの橋が架かる辺りで新目白通りを横断し突き当たった角に、貴重な古い漫画作品を閲覧出来る私設図書館が在りました。
☆嘗て一休橋側に在ったスポット…明治大学「
現代マンガ図書館」
「神田生まれの(故)内記稔夫(ないきとしお)氏が1955年に開業した貸本屋『山吹文庫』の蔵書を基に、大衆文化を支えたマンガ本が散逸する事を惜しんだ氏により、1978年、日本のマンガ専門図書館として設立されました。
氏は館長として私財を投じ図書館の運営と漫画蒐集に努め、1997年、その業績に対し朝日新聞社主催の第一回手塚治虫文化賞特別賞を受賞しました。
2009年にコレクションを明治大学に寄贈、2010年に『明治大学現代マンガ図書館』となった後も館の運営に当たり、国際マンガ図書館の設立に向けた議論が続く中、2012年に亡くなりました。
氏が50年以上に渡り収集した単行本や雑誌等、未整理を含めると凡そ27万点を保有、現在も雑誌を中心に収集を続けています。
特に昭和30~40年代に発行された貸本マンガの蔵書は充実しており、第一線で活躍するマンガ家のデビュー作や初期作品が収録された本も所蔵、マンガ雑誌の栄枯盛衰や分岐、展開をトレースする事も可能です。
併設の(故)米沢嘉博(国内最大同人イベント、通称『コミケ』2代目代表)記念図書館の14万冊と合わせて、日本最大級の蔵書をもって、大学の研究に寄与すると共に、一般利用者への閲覧を提供します。」←図書館HP案内文抜粋。
今でこそ漫画図書館は各地に設立されてますが、国内外で日本漫画の評価が高まるまでは、古い漫画を蒐集していて一般公開してる場所は、ここぐらいしか無かったのです。
子供の頃、早稲田鶴巻町に在るという情報だけで探し当てた思い出…スマホも携帯も無い時代だったから、人に訊き回って漸く辿り着いたっけ…今思い出すと漫画好きの執念が為せる業だったなと。(笑)
コロナ禍で長期休館しており行く末を気にしてましたが、今年の3/19に東京都千代田区の明治大学駿河台キャンパスに移転したそうです。
嗚呼…勤務エリアから遠ざかってしまった…でも早稲田時代のビルは古くて手狭で、蔵書を管理するのに限界が見えてたから、潮時だったかも。
今は無い場所紹介するのは無駄かと思いましたが、折角写真を撮っておいたので紹介させて頂きました。(汗)
↑一休橋~江戸川橋間、「江戸川公園」敷地内の様子…こちらが「西洋風の山小屋を模した時計搭の有る四阿(あずまや)」です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の胸像は何方かと言うと、日本の薬学者・政治家・陸軍軍人(薬剤官)だった「大井玄洞」氏です。
「大井玄洞は当時、度々洪水を起こしていた江戸川(現神田川)を何とかしようと治水に尽力した。
大正2(1913)年に護岸工事に着手、大正8(1919)年に完成させる。
この治水事業の功績を称え、昭和3(1928)年、神田川沿いの江戸川公園に大井玄洞の銅像が建てられた。」←現地の案内看板より抜粋。
…そんな偉い人なら、ここに胸像が建てられるのにも納得ですね!
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源流から数えて117番目の橋…「江戸川橋」
目白通りと新目白通りが交わる場所に架かる大きな橋です。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、江戸川橋上より上流側を向いた風景…上流から数えて108番目の高戸橋から始まった桜並木は、この江戸川橋で終点を迎えます。
これより下流、ここまで長く続く桜並木は在りません。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、江戸川橋下の「江戸川橋分水路」呑口——右2つのトンネルが分水路の吞口で、左は神田川本流になります。
↑江戸川橋側の「江戸川公園」出入口…最近リニューアル工事して、綺麗なトイレと子供向け遊具が設置された遊び場が完成しました。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、江戸川橋上より下流側を向いた風景…川沿いに桜並木が無くなるだけでなく、川に蓋をするよう首都高速が覆うので、眺めは悪くなります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、江戸川橋下流側の下、左岸に開いた排水口です。
付近は水窪川及び弦巻川の合流地点で、豪雨が降った際は溢れた水が川に流れ込む様になっています。(普段は下水化されてる為、流れ込みません。)
弦巻川と水窪川は、それぞれJR池袋駅の西と東から流れ出し、護国寺から並行しつつ、江戸川橋が架かる辺りで、神田川と合流していました。(←本田創著:「失われた川を歩く—東京『暗渠』散歩」より抜粋)
現在は共に全区間暗渠になっており、流れを日の下で観る事は叶いません。
新宿区「早稲田鶴巻町」名の由来は「弦巻川」と云われてますが、川の流域外の町の名前に使われた理由は不明です。
…今回本当長くて済みません(汗)、次回に続きます。
【
続】