平成14年分を掲載した『日本語学論説資料』第39号の第一分冊に論文を掲載していただきました。第一分冊は、国語学一般、国語史、方言の分野です。この中の国語学一般という分野に振り分けられています。掲載された論文は、前勤務校、県立広島女子大学(17年度より県立広島大学に改編改称)紀要に投稿していた「植民地朝鮮における『国語』読本の変遷」です。そういえば、著作権関係の書類にサインをしたことがあったなあとおぼろげに思い出しました。
思えば、この論説資料には学生時代ずいぶんと助けられました。何年か前から、CD-ROM化されて、さらに検索がしやすくなったと言うことです。
でも、あえて「でも」といいます。検索のスピードアップは望ましいかもしれませんが、そのおかげで研究に幅がなくなってきたという気がします。学生時代、目次や索引を一行一行確かめて読んでいたときには、「あ、こんな研究もあるんだ」とか、「もしかして、これも関係あるかも」と手を止めて読んでいたものですが、検索のキーワードを入れてクリックするのでは、こういう一見無駄に見える作業はなくなったんでしょうね。研究の幅というか、考え方の幅というか、そういうものが目に見えて減ってきているような気がしています。
大学の教員という仕事について、授業や会議、そのほかの書類仕事に追われ、今では図書館に行くこともほとんどなくなりました。1ヶ月に1回、数十分いられたらいい方です。そういう時には、一発検索なんて便利なような気がしますが、上に書いたような幅がなくなってしまいます。実際問題として、授業の時に話すネタもどんどんなくなっています。
私は博士論文を書くときに、こういった「ムダ」な作業中に重大なヒントを得た人間なので、遊びに見え、無駄に思えることの価値を非常に高く買っています。それだけに、そういう時間が自分自身、もてなくなっていることに危機感を持つわけです。
さて、論説資料に掲載されている論文を見ていると、学部時代の指導教官のお名前があるじゃないですか。しかも3本。上のような愚痴を書きましたが、僕よりもお忙しいはずだと思うと、恥ずかしくなります。
そういえば、この先生、藤田保幸(滋賀大学教育学部)先生に教えていただいていたときも、この論説資料集の話が出てました。先生が著作権関係の書類を返送しないもんだから、藤田先生の先生、宮地裕先生から電話があったという話でした。
思えば、この論説資料には学生時代ずいぶんと助けられました。何年か前から、CD-ROM化されて、さらに検索がしやすくなったと言うことです。
でも、あえて「でも」といいます。検索のスピードアップは望ましいかもしれませんが、そのおかげで研究に幅がなくなってきたという気がします。学生時代、目次や索引を一行一行確かめて読んでいたときには、「あ、こんな研究もあるんだ」とか、「もしかして、これも関係あるかも」と手を止めて読んでいたものですが、検索のキーワードを入れてクリックするのでは、こういう一見無駄に見える作業はなくなったんでしょうね。研究の幅というか、考え方の幅というか、そういうものが目に見えて減ってきているような気がしています。
大学の教員という仕事について、授業や会議、そのほかの書類仕事に追われ、今では図書館に行くこともほとんどなくなりました。1ヶ月に1回、数十分いられたらいい方です。そういう時には、一発検索なんて便利なような気がしますが、上に書いたような幅がなくなってしまいます。実際問題として、授業の時に話すネタもどんどんなくなっています。
私は博士論文を書くときに、こういった「ムダ」な作業中に重大なヒントを得た人間なので、遊びに見え、無駄に思えることの価値を非常に高く買っています。それだけに、そういう時間が自分自身、もてなくなっていることに危機感を持つわけです。
さて、論説資料に掲載されている論文を見ていると、学部時代の指導教官のお名前があるじゃないですか。しかも3本。上のような愚痴を書きましたが、僕よりもお忙しいはずだと思うと、恥ずかしくなります。
そういえば、この先生、藤田保幸(滋賀大学教育学部)先生に教えていただいていたときも、この論説資料集の話が出てました。先生が著作権関係の書類を返送しないもんだから、藤田先生の先生、宮地裕先生から電話があったという話でした。