さて、先週、故郷の山口県防府市に戻ってきて、
主人公の文と、その再婚相手の楫取素彦が生涯を終えた地が、実家のすぐ近くだった、という記事を書きましたが、何気に人間関係を詰めていくと、興味深いことがわかって、一人で興奮。
日本が日清戦争後に植民地とした台湾で日本語教育を始めたのは、伊澤修二で、彼は東京芸大の前身であった音楽学校や、盲学校の設立に関わっていたり、愛知教育大学の前身の師範学校校長であったりと、それなりに身近に感じておりました。
伊澤修二が東京出張中の1896年正月、当時、台北郊外で日本語を教えていた6名の日本語教師が蜂起した現地の人々に殺害されたという芝山巌事件という事件があります。
戦前の日本語教員は芝山巌精神という言葉で日本語教師の心構えを説かれていたという事件ですが、
亡くなった6名の日本語教師の一人が
楫取道明。
楫取素彦の息子だそうです。
自分のうちのすぐそばに、100年以上前、日本語教育を志していた人がいたということ、
それが芝山巌事件の関係者であったこと、
ちょっと驚いています。
楫取道明の歩いた町、見た光景、吸っている空気を自分もまた同じように歩き、見ていたことに興奮しました。
いや、ただそれだけなんですけどね。
……………図書館とかに何か残ってないのかなー。
主人公の文と、その再婚相手の楫取素彦が生涯を終えた地が、実家のすぐ近くだった、という記事を書きましたが、何気に人間関係を詰めていくと、興味深いことがわかって、一人で興奮。
日本が日清戦争後に植民地とした台湾で日本語教育を始めたのは、伊澤修二で、彼は東京芸大の前身であった音楽学校や、盲学校の設立に関わっていたり、愛知教育大学の前身の師範学校校長であったりと、それなりに身近に感じておりました。
伊澤修二が東京出張中の1896年正月、当時、台北郊外で日本語を教えていた6名の日本語教師が蜂起した現地の人々に殺害されたという芝山巌事件という事件があります。
戦前の日本語教員は芝山巌精神という言葉で日本語教師の心構えを説かれていたという事件ですが、
亡くなった6名の日本語教師の一人が
楫取道明。
楫取素彦の息子だそうです。
自分のうちのすぐそばに、100年以上前、日本語教育を志していた人がいたということ、
それが芝山巌事件の関係者であったこと、
ちょっと驚いています。
楫取道明の歩いた町、見た光景、吸っている空気を自分もまた同じように歩き、見ていたことに興奮しました。
いや、ただそれだけなんですけどね。
……………図書館とかに何か残ってないのかなー。