ふたたび永井荷風の話から。いまは亡きアヴァンギャルド詩人・俳人加藤 郁乎の『俳人荷風』を読んでいて、江戸文化の素養を磨いた青年荷風について、こんな件があった。
長唄や琴を能くした母親ゆずりとはいえ堅気の家庭に育った荷風が三味線の独稽古をはじめたのは遅く、中学校を卒業した明治三十年十九歳のころ、中学二、三年のころ琴古流の二代荒木古童門下の可童に弟子入りして尺八を学んだ。尺八の技術を完成するためには一通り三味線の道をも心得て置く必要があろう、というので三味線を手にした。家族に気付かれぬよう忍び駒をかけあたりを気遣う独稽古であった、と小品文「楽器」に明かしている。
荷風の顔は面長で、痩せて背も高そうだ。着流しの、いかにも風流人の出立ちならば、浅草を歩くのも似合ったであろう。若いころからの写真をみても、文豪然とした超然たる風格を感じさせない。端唄を諳んじ、三味線を爪弾くような粋人といった趣がぴったりはまる。
話は突然変わる。小生の祖母はつれ合いを亡くしてから芸事をはじめ、苦節云年、ついに民謡の名取となった。戦後復興に乗じて、人々の生活の余裕ができてきて、町内の同好衆をあつめ、民謡の「お師匠さん」と呼ばれた祖母。じぶんの部屋には三味線やら小太鼓、その他の道具類を揃えていた。留守のときに、興味本位に太鼓を敲いていると、帰ってきた祖母に見つかった。怒られるかと思いきや、こんど教えてあげようかと言われたことを思い出す。ああ、三味線も弾いてみたかったなあ。
お弟子さんが家に来たときは、三味線の音が爪弾かれると外に遊びに出た。決して嫌いではなかったのだが、そんな音に耳を傾ける自分の姿が嫌だったのだ。その後、ある事情で別れて暮らすことになったが、祖母は小生を可愛がってくれて何かと世話になった。
祖母は新潟の米どころで生まれたが「野良仕事が大嫌いで、山に登っては唱や踊りをやっていた」という遊び人気質があった。何かの縁で東京に出て、あの渋沢栄一の奥様付きの女中になった。何人もいたらしいのだが、唱や芸事が好きな明るい性格でたいへん可愛がられたという。シャツやネクタイの製造で羽振りの良かった若き祖父と結婚したのも、奥様の力添え、後押しがあったからだと自慢していた。
以上のエピソードは、祖母が脳溢血でたおれ、後年、板室温泉の湯治場に小生が付き添ったとき、いろいろ話をしてくれたことで祖母の人となりが知れたことによる。確か17,8歳の夏休み、2,3週間は滞在して、祖母だけでなく湯治客の年寄りたちの話し相手になった。搾り滓のようであるけど、祖母と二人きりで過ごした懐かしい思い出だ。
余談だが、そこの旅館にいた爺さんに、将棋に誘われてよく指しに行った。風貌が永井荷風に似ているが、なんか小狡いところがある。どこかの経営者だと言っていた。いや、この話をひろげると収拾がつかなくなる。止めよう。
兎も角、小生の子どものころは三味線の音がどこかしらから聞こえてくる環境があった。いまでも時々近所を歩くと、爪弾く音色が響いてくる。音源は分っている(注)。お達者でいてほしいと願うが、最近はとんとそちらの通りには行かないので、ご様子のほどは知らない。
こういう駄文を書いておればそっぽを向かれるだろうが、ひとまず元気であることの証明になればと願ったしだいである。
小さいけれど朝顔が咲いた。秋の季語であるから、詠んでみたいところだが・・。
(注)新内で一世を風靡した故岡本文弥氏のお住まいがあり、そのご子孫がいらっしゃる(推測である)。この一年は通っていない。他にも2か所ほど三味線の音源は知っている。
▲オリズルランと一緒に「オキザリス・トライアングラリス」(カタバミの仲間?)のピンクの花が可憐である。
▲家の中にカメムシが飛びこんできた。よく見ると翅が出ていて傷ついているようだ。
そして写真!偶然にしてもできすぎた偶然。拙宅の窓際の朝顔がようやく咲きかけ、その近くにはオリズルラン、そしてオキザリスの紫の小花が揺れています。写真をお見せしたいくらいです!
三つの植物のとりあわせが一緒! 偶然にしては・・、いや面白い。なにかの縁でしょうか。
またお願いします。ありがとうございました。