本当に弱い人は常に淘汰されてきた。今ここに生きている私たちは、歴史のどこかで強者に与して弱者を踏みにじって生きのびてきた人たちの子孫なのだろう。その意味で私たちはみな差別者、強者、または強者への追従者を先祖に持つ。その先祖の銅像を拝むことも辱めることもしたくないが、そうして命を受け継いできた者として、みなが、自分の代で少しでも他者を排除しない共生の道へと舵を切る努力をすることが「先 . . . 本文を読む
広島の原爆ドームや平和記念資料館などに行く願いは叶った。そこへ行くことは、日本人としての義務でもなんでもない。すべてではないが、戦争のあらゆること、被爆の怖ろしさなどは、現地に行かなくても知り、理解はできる。
ただ、広島を訪れたことがない、それが永年のしこりのように燻っていたのである。そんな思いを一挙に払拭してくれたのが、原作漫画『この世界の片隅に』であった。
▲原 . . . 本文を読む
『象を洗う』を読み終えた。読みやすく端正な文章であった。さらっと簡潔に、時にねっちりと丁寧な筆致、その書き分けのメリハリがきいている。他のエッセイも読んでみたくなった。
作家として当然だが、佐藤正午はつねに読み手を意識して書いている。読んでいて疑問に思ったり、迷わされることがない。読後もストンと腑におち、課題を残さない。たぶん作者もそれを強く意識してい . . . 本文を読む
佐藤正午の『象を洗う』というエッセイ集を図書館で借りた。
苦節何十余年にして直木賞を受賞。洒脱かつ手練れの書き手で、期待を裏切らないという上々の評判。近頃、自分より年下の作家の小説はとんと読まなくなったのだが・・。手はじめにエッセイを読んで、佐藤正午の人となりを含味させていただくことにした。
と、偉そうに書くのが私の癖だが、『象を洗う』というタイトルに今どき . . . 本文を読む
赦しをつくりだすことはできない
赦しを招くように心を拓くことだ
苦しみと嘆きの声に耳をかたむけ
憎しみと蔑む心に密かに寄りそう
喪ったものへの祈りを止むなかれ
一日が静かに始まり、安らかに一日が終わる。
そのことを願い、祈るだけだ。
核と焔と弾。言葉の暴力さえ消えてなくなれ。
そのことを願い、祈るだけだ。
戦争で喪われたすべての魂が鎮ま . . . 本文を読む
久々に高村友也のブログを覗いたら、夏野菜の収穫が良かったらしく(?)、結構な数の写真がアップされていた。「夏野菜反省点など」という題の記事にしては、出来栄えの素晴らしさ、種類の多彩さに驚く。
高村友也のブログ:「寝太郎ブログ」⇒ (リンク不可、左記ブログ名で検索されたし)
どんな野菜を育てたのか、ブログから引用してみよう。彼なりの食へのこだわりもわかる。
少 . . . 本文を読む
内田樹のブログの「愛国的リバタリアン」という記事がそもそもの発端で、「植松聖とナマポ」を書いた。しばらくたって、リバタリアンが何なのか記述していないことに気づいた。内田樹のブログを読んでいただければ済む話だが、自分でも一言書いておかないと気が済まない性質なので、書き記しておく。
リバタリアンとはストレートに言えば「最小政府主義者」だ。アナーキストとは決定的に違う。
平たく言えば . . . 本文を読む
まず最初に、生活保護を受けている方がこの記事を読み、不愉快な感じをお持ちになるかもしれません。決して不快にさせる意図はないことを予めお断りしておきます。
久しぶりに内田樹のブログをのぞいていたら、「愛国的リバタリアンという怪物」というタイトルの興味深い記事が載っていた。相模原「やまゆり園事件」の犯人、植松聖は生活保護の受給者だったという報道を受けて、それがトランプの「弱者は切り捨 . . . 本文を読む
我慢して読んでいなかった原作マンガ、こうの史代の「この世界の片隅に」下巻を読んだ。半年前に妻への誕生日プレゼントで買い求め、即行読んだらしく私の所にきた。こうなることは承知の透けで、私も集中して上中巻を読了した。ところが、何の風の吹きまわしか、すぐに下巻に手を出すのが惜しくなった。
それで8月6日近くになってから読もうと踏みとどまり、一昨日にふたたび手に取ったわけだ。 . . . 本文を読む
先週のビデオニュースで平和構築が専門の国際政治学者、東京外大の篠田英朗が登場した。この方の日本国憲法学の見方が斬新でかつ、一言でいえばこれまでの憲法学者の業績をコケにするほどの潜在力がある。新発見ともいうべき解釈、現代的な鋭い見方や指摘、国際法をベースにした国際協調や平和構築という観点は、私にとっても目から鱗となるニュースとなった。
私はど素人であり、 . . . 本文を読む