100分で名著「スピノザ・エチカ」も第4回、「真理」が最終のテーマだ。哲学としては、もっとも困難な主題である。
しかし、思っていたよりも分かりやすく、『エチカ』で扱われていることのエッセンスを、これまで端的に紹介してきたと言ってよい。哲学的な概念説明を、現代人の考え方にも違和感なく還元できるような番組づくり、それはベタとはいえNHK流の好ましい方法論だといえようか。
たぶん、伊集院光はそれを常に意識しているから、『エチカ』のスピノザの言いたいことを彼なりに咀嚼してうまく代弁している。(ということに、しておきたい)
「真理」というものを理解する。あるいは、自分にとっての「真理」をどうつかむのか、その「基準」みたいなものはあるのか、という話になった。
伊集院は、若い時に観た小津安二郎の映画「東京物語」をたとえにして、以下のことを熱っぽく語った。もちろん國分功一郎の説明を受けての、伊集院ならではの解釈、その独特の語り口で・・(それがこの長寿番組である所以でもある)。
「映画を観たのはたしか20歳ごろでした。若いからそのときは、こんな糞つまらない映画はないと実感しましたね。この老夫婦は堤防に座っていて、二言三言話し合っている。もう、なんの展開も期待できないし、何も起こらずに映画は終わるだろう。事実、そうだったのです・・が、40歳過ぎて再び『東京物語』を見たときに、まったく違う映画を観る思いで、この老夫婦のなんでもない会話が、すばらしい言葉のやりとり、人生の深遠を語っているかのように感じました。真理をつかむって、つまりそういうことかもしれませんね」と、誰もが思い当たるような、「分からないことが突然、真理をつかむような・・」と、大人になってからの実感を語った。
それは「腑に落ちる」確かな実感であり、体で分かったというべき確かさなんだと思う。そのような認識の経験を語っていた。
國分功一郎もちょっとハッとしたように、その比喩に同意して、以下のように要約した。
真理というものは、自分のもつ本質(コナトゥス)でしか読み取ることができない。科学的なデータを使って、様々な事実・エビデンスを基にして、真理をつかむのは近代以降の方法。ですが、スピノザは近代に属する人ですが、彼ならではOSをつかって認識し、「真理」というものにアプローチしているんです。
ただし、スピノザの言葉そのものは難解であり、その字義についても独特の使い方がある。真理に関するスピノザの有名な言葉がある。
実に、光が光自身と闇とを顕わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。(第二部定理43備考)
真の概念を有する者は、同時に、自分が真の概念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。(第二部定理43)
二番目はなんか強引というか、「われ思うゆえにわれ在り」のデカルトに近いものがある。國分先生は、デカルトとは決定的に違うのだと仰る。愚生が思うのは、真理そのものには基準などなく、真理を把握するなんてことは、愚生にとって今のところ無理だということだ。
じゃ、真理はどうなんだ? あるのか、ないのか・・。どうやっても分かりえないものなら、真理をつかめないし、真理と呼べるものは実在しないわけか。つらい、しょうがないけど。
こうして考えることが「真理」に近づくことのプロセスであり、少なくとも間違っていない認識方法なのだ、と愚性は考えるわけである。「哲学」以前のことを書いてしまった。余裕ができたら、続きを書きたい。
ただ、「真理」を誰が必要としているのか、という思いつきで書きはじめたのだが、違う内容になってしまった。「真理」を必要とする人が、「真理」を探究するのだと思うわけで、そういう人がこの世にいてほしい。そう願う愚生がこの世にいる。おしまいにしよう。
実に楽しかったことを言い添えて筆をおきたい、ところだが{備考}を書く。
{備考}:IWC(国際捕鯨委員会)から日本が脱退して、来年から商業捕鯨を再開することになった。条約の締結等については、日本国憲法では、「事前に国会の承認を得ることを必要とする」とされている(73条)。また、98条の②では、「日本国が締結及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とある。安倍政権の「国会無視」「憲法軽視」は定番だが、遂に「国際感覚」まで放擲した。
そこまでして鯨を喰いたい人がいるんだろうか。鯨を喰うことの、独自の食文化としての意味、価値、そこに「真理」はあるのか。単なる食習慣ではないのか。
永年、調査捕鯨してきて、魚が減ってきた根拠、事実関係を示せないから、こんな結果になった。いまや中国を筆頭に、何十億人が生魚を喰うようになった。外貨を目当てに、寿司などの「和食」を喧伝したせいもある。「日本、堕ちた」は、さらに進むんだろう。いやな渡世だなあ。