小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

因果律が及ばない「情緒」について

2022年08月06日 | エッセイ・コラム

最近、愛読しているメロンぱんちさんのブログに『なんじゃこれ事件簿』という記事があった。動機も理由もなく、個人(老若男女)が衝動的に人を殺めるという事件簿のようなものだ。→http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/52163137.html

「なんじゃこれ」という反応は、殺された人もふくめて人間なら誰もが思う、突発的な行為による殺人。こうした個人が犯す理不尽な暴力は、尋常でない過度なまでの残虐なやりかたで行われる。ここにはなぜ人を殺したのかという因果関係はなく、犯人を厳しく追及しても真相は解明できない。本人さえも説明できないし、心神耗弱のそれとも言えない。たとい都合よく解釈が出来たとしても、辻褄合わせのように結着した半端なものになるであろう。

小生は、こうした事件・事象におよぶ張本人については、「無明」のなかにいる人として、さりげなくスルーすることにしている。
以前、パソコン遠隔操作事件の片山某という人について『無明と虚仮』という記事を書いたことがある⇒(https://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/183a079fc73c9786dde90f24ca28c9b0)。

「無明」とは仏教用語で、「迷い」のこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。闇に光をあてれば、暗闇が消失するように、智慧の光によって「迷い」はなくなる。

一般的には上記のように流布されるが、拙記事は、数学者の岡潔の言葉をうけて「無明」について考えてみたもので、最近は、「独立数学者」の肩書で数学にかかわる研究・著作活動をしている森田真生氏の岡潔論や「数学的身体論」にも共感しているが、彼はまだ「無明」について語ることはない。

結論から書くと、小生が「なんじゃこれ」という事象を引き起こす、あるいは招く人というのは、情緒が欠落しているか、どうしようなく不安定な人だと考えている。無明の真っただ中に居る人だ。(精神医学的には、過度な何かへの執着か、あるいはホルモン分泌の異常か・・)

情緒というものは、たとえば数学の定理とか公式とは対極のものである。別の見方でいえば、自然の中にいて、森の緑蔭に何かを感じたり、川のせせらぎの音に至上の歓びを見出すとか、なにかかけがえのない懐かしさを感じるようなことである。

岡潔は、身のまわりのこと、心のなかに感じたことを具体的に書いていて、それらが情緒であり数理的に解明はできないという。子どもにもあり、成人、老人にもそれぞれの情緒があると理解しているが、それは磨かれるものだし、極められることだと、岡潔は言っている。

数学者としての岡は、「多変数解析関数論」の未開の領域を切りひらいたとして、海外からの評価は今も高い。発表された論文は10篇と少ないが、彼の研究成果は、現在も引用されるほど本質的なもので、内容の濃いものらしい。長年にかけて岡潔は、こうした研究を続けていたが、数学とは対極の情緒というものに考え及び、また実際にふれ、感じ取れる境地に達し、「わからないもの」が分かるようになった、と強調して憚らない。

しかし、「分かっている」つもりのことが、不思議にも分からなくなるということも言っている。こんなエピソードを拾ってみた。

大体リポーティング・ペーパーで二年間に二千ページほど書く。それを大体フランス語で二十ページほどの論文にして発表しているのである。(中略)これはたとえば写真のネガチブのようなもので、何もわからない間は非常に丁寧に書いてあるし、少しわかってきて結果らしいものが出始めてからは、書かないでもよく分かっているものだから、面倒がってほとんど書いていない。論文を書上げるまではこれで十分わかっているのだから、書上げてしまってしばらくたつと、読み直してみても、私には何のことだが少しもわからない。こういう代物なのである。燃やしてしまうと、いちばん完全なのだが、何もそうまでしなくても、これも私にとって無形の箱なのである。だからこそ、森羅万象がここにあるのであって、私が行こうと思えばいつでもそこへ行って住めるのである。(『数学する人生』岡潔著、森田真生編・新潮文庫186~187P)

そして、「こういった行き方の究極」として道元の『正法眼蔵』を紹介するが、今回はそこまではふれない。ともかく、岡潔は情緒的なものの見方、観点を説いている。そうでないと人間は「無明」に陥るとまで言ってはいないが、「知、情、意、感覚、いずれも自他弁別本能のどろどろしたものがとれていって、平等性智の冴やけき存在が、だんだん現れてくるのである」と説く(同105P)。

今は「知」と「感覚」のみが偏重される世の中であり、「情」に対して斜め下に見る傾向がありやしないか。

岡潔のいう情緒的なものを子供のころから養生することによって、「なんじゃこれ」というような万人の理解をこえる「無明なこと」を犯さなくてすむと思うのだが、どうであろうか。

 

 

 

 

 


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2 コメント

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似たような問題を (メロンぱんち)
2022-08-09 22:56:35
「知」と「感覚」のみで「情」の部分が軽んじられていないかという具合に延べられておりましたが、似たような問題を考えています。

【知能】という用語が使用されているのですが人類学を通しても知能が高いという事は淘汰的な必然であるという。ヤノマミ族のような世界でも知能が高いか低いかは重要な要素であり、知能の低い者は淘汰されてきた。少し喉にトゲの引っ掛かる話ですが、或る種、知的能力の高いものが生存戦略上にも有利であるという具合に捉えれば、飲み込めなくもない話だと思うんですが、【知能】というものの定義や捉え方によるのですが、現状の我々が考えている知能は、計算処理が速い等の、そういう能力の高低で展開されているんですよね。(これも或る統計では学歴や年収や社会的地位が高い人は高く、そうではない人は低いのように組み立てられている。)また、知能の低い者に犯罪者が多い等のデータが用いられている。貧困階層は知能が低く、富裕層は知能は高いという統計が採用されていて、それに対して「批判はある」と認めつつも「誤まりではない」と展開させていく論陣ですね。

しかし、こういう優劣論をやっていってしまうと必ず優生学的な方向へ傾斜してしまうような気がするんですよね。。。一見すると知識人のように見える人たちの方こそ、実際に危ない人が増えたのではないか、と。
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優生を避ける、情緒 (小寄道)
2022-08-10 01:44:09
コメントありがとうございます。
「【知能】という用語」を使われていましたが、知能という言葉は、私には苦手であり。意識的に使ったことはないと思います。
知と能力を結ぶことによって、必然的に持って生まれた能力、記憶力、育った環境の優劣などの差異により、ヒエラルキーみたいなものが生まれる、と思います。
少なくとも個人差は歴然として表面化し、長けているものがそうでないものを圧する可能性が生まれると思うのです。

早い話、知能が長けていれば、実生活では優位に立って、さまざまな恵みを受けられる。そんな道筋がつけられます。
実際はそう簡単ではない。そういう形で回っていく社会、いや組織、会社、つまり共同体は、早晩どこかで歪みが生まれるんじゃないかと思います。

知能が劣るものに犯罪者が多いというデータはあるでしょうが、学歴、知能に優れた人でも犯罪はおかし、逮捕されたり、法制度をするりとくぐり抜ける人もいるでしょう。
相対的には、「なんじゃこれ」みたいな事件を犯すのは、知能の優劣ではないんじゃないでしょうか。

「なんじゃこれ事件簿2」では、事件簿1とは違って、因果律がというか動機やら必然性が充分で、「なんじゃこれ」という意外性なりインパクトはありませんでした。
「社会が悪いんじゃ」みたいな不純さもかんじられた事件簿でした。
【知能】を拠りどころとしているひとは、近未来にはAIによって淘汰されると思うんですが・・。タイトルの「優生を避ける、情緒」まで着地できませんでした。ご斟酌ください。
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