小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

痕跡本あるいはネラン神父のこと

2018年10月13日 | エッセイ・コラム

二、三週間ほど前のことになるか、竹下節子さんのブログに、『トリスタンとイゾルデ』をオペラ座で観たことが書かれていた。その記事のなかに、大学の必修外国語をドイツ語からフランス語に変えるエピソードがあった。それは卒論のときの苦労話で、そのテーマに象徴主義のヴィリエ・ド・リラダンを選び、第3外国語のフランス語を集中的に学ぶことになったとある。

第1を英語、第2にドイツ語を選択していた竹下さん、これは実に意外であった。

それはともかく、二人のフランス人神父から直接手ほどきを受けて、フランス語で卒論を書き上げたそうである。その一人が駒場の担当教授、ジョルジュ・ネラン神父だった。フランス科の仏語講義の必修二つのうちの一つを受け持っていたという。

ネラン神父は、遠藤周作の初の新聞小説『おバカさん』のモデルになった方でもある(小生は未読)。フランスのリヨンで戦後まもなく二人は出会った。遠藤がフランスのリヨン大学へ国費留学したときに知り合い、その後日本でもながく親交があったらしい。

ネラン神父は1953年に来日し、長崎で3年間神父を務めた後、(念願の?)東京へ来ることになった。キリスト教宣教のさまざまな活動のほか、東大や上智大(※注2)でフランス語の先生も勤められた。そのときに、竹下節子さんはネラン神父の薫陶を授かったというわけだ。

以上、一連のことは竹下さんの『L'art de croire』をひもとくと、面白くかつ詳しく書かれている(ブログ内に記事は何本かあり、年をまたいでリンクされている)。

で、小生は、ネラン神父が最終的に、新宿歌舞伎町にバーを経営していたこと、『盛り場司祭の猛語録』、『おバカさんの自叙伝半分(聖書片手にニッポン40年間)』などの著書があることを知ったのだ。

竹下さんのブログには、トリオ・ニテティスのメンバーと歌舞伎町のバーに行ったことが書かれていた。そのとき90歳になるネラン神父は不在だったが、店のマスターから『おバカさんの自叙伝半分』を寄贈されたことも書かれていた。小生もその本をだんぜん読みたくなったのだが・・。

▲ネット上にあった写真、ネラン神父の著書であろう。

アマゾンに注文して1週間ほどして、講談社文庫の古本『おバカさんの自叙伝半分』は届けられた。巻頭には、遠藤周作の「わが小説のモデルについて」が載っていて、それを読んでからしばらく放っておいた。

そのことと前後するのだが、竹下節子さんが東京にいらして四谷の真生会館(※注)というところで講演することを知ることになる。カトリック信者の方のために話をなされるからと諦めていたのだが、ある日思い切って会館に問い合わせたら、誰でも聴講できるとのこと。さっそく申し込んだ。

真生会館がどんなものかネットで調べたら、ネラン神父が現在の建物をつくるときに尽力したとあった!

それで『おバカさんの自叙伝半分』をつらつらと読んでいたら、表紙の裏側になにか書いてあったのを発見。書き込みや汚れはないものを頼んだはずで、ネットの中古本屋には騙されたと、ちょっとがっかりしたが・・。

ともあれ表紙をはがしてみたところ、ある個人への献辞が書かれてあった。それも、たぶんネラン神父のものだ。1993年1月の日付、バーの名前「エポぺ」も書いてあり、読みにくいがフランス語のサインもあった。つまり、ネラン神父がたぶんバーのお客さんに寄贈し、その後その方が売って、アマゾンのネット専門古本屋に出回ることになった。それを小生が買い求めたというわけだ。

書き込みがある本を「痕跡本」といい、それを貴重だとして蒐集する愛好者も多いと聞く。小生はしかし、それを有り難いものとしては思わず、古本屋でそれを見つけたら避ける方だ。たまに見逃して鉛筆で薄く書かれてあっても、読んだ後は消しゴムで消してしまう。

だから、小生の所蔵本のなかに「痕跡本」は、ほとんどないはず。その意味で、今回のことは実に不思議な巡り合せで、ネラン神父の直筆の「痕跡本」を手に入れることができた。真生会館で竹下節子さんのお話をきくことは、さらに楽しみなことになったし、ネラン神父の本に導かれたのだと考えると誠に感慨深い。

▲売価は100円だったか、送料の方が高い。1992年1刷とあった。発刊されて1年目に、「エポぺ」で手渡されたのだ。

個人名が判るので姓名は一部隠した。サインが「G.ネラン」氏直筆だとおもうが、それを証明するものはない。

 

追記:竹下節子氏にネラン神父直筆のものか鑑定(?)していただいた。どうやら、間違いなく直筆のサインのようである。いただいたコメントの、その部分を紹介したい。(10/14)

「こういうサインの文字、きっと普通のフランス語の筆跡もこんな感じだったのだと思います。

フランスには学生などがタイプライターを使う文化がなかったので、一昔前は神父さんたちもはじめとしてほとんど凹凸のない筆跡がおおく、手紙を前にしてまず内容を想像してからそれに当てはめてやっと解読なんてこともありました。なつかしいです。」

(※注):当初、「真正会館」として記述していました。正しくは「真生会館」でした。関係者の皆様に、謹んでお詫び申し上げます。文中の当該箇所は訂正しています。


(※注2)『おバカさんの自叙伝半分』を読んだが、上智大は出てこなかった。慶応大、青学は出てきて、東大をふくめてすべて非常勤講師の待遇であったことが判明した。ネラン神父は真生会館の実質的な責任者だったので、日本の若者たちへのいわばキリスト教のパブリシティを担い、また大学におけるフランス語教育もその一環だったと考えられる。報酬もたいしたものではなかったらしい。

それにしても、なぜ「上智大」の名称を書いたのか。なにも根拠なく記述したのか、この私は・・。ある種の認知症の疑いがあると自覚して、あえて注意書きを補記する。(2018.10.19記 :なんと今日で68歳だ。穴があったら入りたい。いや、自分がいま穴の中にいるんだとしたら、出たい!)



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