1998年9月、マルセイユ沖リュー島付近で、キラキラ光る腕輪が漁師の網に引っ掛かった。それは銀のブレスレットで、Antoine de Saint-Exupéry(Consuero)の文字が刻印されていた。
文字通り、「星の王子さま」を書いた作家アントワーヌ・ド・サンテグジェペリのもので、括弧内のコンスエロとは彼の妻の名前である。後年、海底で機体も発見され、操縦者はサンテグジェペリであったことが、ロッキード社の調査によって事実認定された。
以前、二人の愛憎をテーマにしたドキュメント(NHK?)を見、波乱に富んだ夫婦関係を知るに及んで、どうしようもない男と女の絶対的な差異に深く感じ入ったことがあった。
妻のコンスエロは確か中南米の生れであり、色々な男に惚れる情熱的な女性。そのせいか、文壇の寵児であった作家の妻として、フランス本国で彼女は快く思われていなかったらしい。
一方、サンテグジェペリも妻を置いてきぼりにして、飛行機乗りに夢中になったり、陰では浮気を繰り返していた。にも関わらず妻に甘え、事故に逢ったり病気になったりすると直ぐにコンスエロを呼び出す。自分は愛人を持っているのに、妻には貞淑さを要求し、ストーカーのようにつけ回したこともあったそうだ。まあ、どっちもどっちである。(※)これらはサンテグジェペリ亡き後、才女コンスエロの『バラの回想』という著作や、書簡集『サン=テグジュベリ 愛の伝説』でも詳しく知ることができるという。
▲2000年の生誕100年記念出版。「 14年間にわたる結婚生活の内幕やその知られざる素顔を明かし、フランスを騒然とさせた妻の手記」という宣伝コピー。
ともあれフランスがドイツに占領される前、二人はニューヨークに移り住み、その地で名作「星の王子さま」は書きあげられ、アメリカで出版された。
さて、コンスエロの著作「バラの回想」というタイトルで、ピンときた人がいるかもしれない。「星の王子さま」を読んだ人ならば、すぐに狐との対話を思いだすであろう。
地球に来る前に、王子はバラが一本しかない星に住んでいたことがある。(※)そのバラは「この世に私しかいない、かけがえのないバラよ」と、念を押すように言った。だから小さな王子は、たっぷり時間かけてバラを育てた。なぜか星の王子は、そのバラを置き去りにして地球に来た。驚いたことに、たくさんのバラに出会った。こんなにも普通に、バラはたくさん咲くんだ。王子が愛情をそそいだ、あのたった一本のバラは嘘をついていたのだろうか・・。でもあのバラは、地球のありふれたバラとは違う、やはり特別な存在だったのか、王子さまは自信が持てない。最期まで迷っていたかもしれない。
ある日、王子は狐に出会う。あの有名なセリフ、「大切なものは目に見えないんだ。心で探さないとね」と言ったのは狐だ。が、このセリフ、文脈としてはそれほど重要ではない。それよりも延々と「飼いならす」という愛情のかたち、責任の取りかたについての、両者の議論の中味そのものが大切なのだ。詳しくはここには書かない。別れ際、狐は王子に、こんな忠告をした。
「人間はこういう真理を忘れている」とキツネは言った。「でもきみは忘れちゃいけない。飼い慣らしたものには、いつだって、きみは責任がある。きみはきみのバラに責任がある・・・」 「ぼくは、ぼくのバラに責任がある・・・」と王子さまは忘れないために繰り返した。 (星の王子さま 池澤夏樹訳・集英社版)
さて、私が敬愛する学者、安冨歩には「誰が星の王子さまを殺したのか」という著作がある。副題が「モラルハラスメントの罠」とあるように、これまでの視点とは全く異なった超解釈の「星の王子さま」評論である。
たった一本のバラを「飼い慣らした」という訳語の意味とは・・。王子は何に苦しみ、何を欲しがり、そして何故自殺してしまったのか・・。安冨歩は、モラルハラスメントを主題にして、これまでにない「星の王子さま」の悲しい(残虐な)物語性、普遍的な思想性を提示している。
ここでは、論点の中核をなすコトバの「飼い慣らす」(apprivoiser)の意味、その訳語についてのみふれたい。
ちなみに「星の王子さま」は版権が切れたのか、多くの日本語訳がある。私も興味本位だが何冊かもっている。
岩波書店版の内藤濯(あろう)は、「飼い慣らす」を使うが、安冨によれば、「なつく」「仲良くする」「じぶんのものにする」「めんどうをみる」など、適当に訳し分けていて、それが逆に原文のニュアンスを損なっていると批判している。 池澤夏樹(集英社版)は「飼い慣らす」で統一していたが、以下の3名は、「飼い慣らす」は一語も使っていない。石井洋二郎(筑摩書房版)は、「なじみになる」を使用。河野万里子(新潮社版)は「なつく」と「絆を結ぶ」に訳し分け、野崎歓(光文社版)も河野と同じように訳した。
▲重松宗育の「星の王子さま、禅を語る」という本を読んでから、・・実は三十代後半になってから「星の王子さま」を読んだ。呆れるほど、わたしは晩熟(おくて)の読者になろうか。重松のこの本は文庫本にもなっている。「アリス、禅を語る」という著作もある。内藤濯の岩波版がどこかに隠れてしまった。濯は「あろう」と読むが、フランス訛りかと思いきや、中国の「孟子」からだそうだ。
安冨歩は「飼いならす」という訳語を最もふさわしいとしている。「apprivoiser」という原語の意味、使われ方は、幾つかのフランス語の原書をもとに厳密に検証された。
「飼いならす」ことは主従的な力関係として一方的な行為であると、安冨は断定する。しかし、相手もやがてこちらを飼い慣らしてくる、なついてくる。そんな双方向のニュアンスを含んだ内藤らの訳し方に、安冨は疑義を申し立てている。つまり、最初から、王子は愛情を注いでバラを飼いならしたのではない。バラの方こそが一方的に王子を飼いならすようにしたのだ。(別れ際に、狐が王子に何と言ったか、思い起こしていただきたい)
しかし、「星の王子さま」の全体としてのテーマは、「絆をつくりだす」(creer des liens)ことである。それゆえ「王子とバラとは、たがいに飼いならされた」という説に収斂されていったと安冨は分析した。しかし、ここにハラスメントがあったとするのが、安冨流のユニークな主張であった。多くの評論・テクストを参照して検討されているが、複雑さを極めるのでこの辺にしておく。
前章で論じたように、被害者が加害者との関係を「お互いさま」と理解するなら、モラル・ハラスメントが成立する。決定的に重要なことは「飼いならす」という方向性のある概念を、「関係を取り結ぶ」という双方向の概念に、単純に置き換えてしまうのである。そうするとそこに隠蔽が生じ、ハラスメントが芽生えることになる。サンテグジェペリは、人間を人間でなくしてしまう抑圧に対して、常に怒りを表明した。彼はそのような抑圧に対する鋭い感受性を持ち、告発し続けた。この抑圧という魔物に取り憑かれた人物に立ち向かいつつ、しかもその人物を倒したり、排除したりするのでなく、そういう人物に取り憑く魔物を「飼いならし」、その人との間に関係を取り結ぼうとしていたのだと思う。そうやって社会を成り立たせる人間の関係をひろげようとしていた。これは実に高潔な思想であった。 (「誰が星の王子さまを殺したのか」134pより)
安冨歩は徹頭徹尾、明晰に論を進めていて、著作前半での要諦は、バラによる星の王子さまへのモラル・ハラスメントであり、狐のセカンド・ハラスメントである。
「星の王子さま」を読まれた方なら分るだろうが、童話の枠を超えるほどの非現実的なストーリー、含みのある会話が特徴である。登場する人物、動植物が語ることばも頗る隠喩に富む。たぶん子供には理解できないだろうが、感受性の強い子ならば強いメッセージやイメージを受けとめられるはずだ。いや、話の展開や登場するものたちの会話がシュールで面白い。だから、なんとなくでも「絆をつくる」ことの大切さなど、多くの子供達には感じられると私は信じたい。
とはいえ、安冨歩のような読み解き、つまりモラル・ハラスメントの構造が伏流していることを、子どもたちいや大人たちも気づきはしまい。かといって、実際の人間関係や、「ハラスメント=嫌がらせ、心理的圧迫、いじめ、困らせること」の意味やそのニュアンスを知ることができたら、「星の王子さま」はまた、新たな世界を切り開いてみせるだろう。
彼方の星からやってきた、たった一人の小さな王子が、地球に来て何を見て、誰と会い、どんな話をし、そして死んでしまう。そんな悲しくも、物語の真実を考えてもらうだけで、作者のサンテグジェペリは至福に包まれるであろう。私は「星の王子さま」を遺書に近しいものとして読んだ。それは別の機会にする。
コンスエロの話に戻る。彼女の著作「バラの回想」のタイトルが象徴するように、彼女自身が「バラ」だという設定にした回想記であり、サンテグジェペリへのレクイエムでもある。
安冨が妻コンスエロの本を読んだ形跡はない。原書はもちろん、彼は内外の「星の王子さま」関連の重要な文献を読み込んでいるが、コンスエロについての資料を参考にしていない。知らないはずがないのに、何故か無視されている。この本自体の真贋を問う論争は、フランスのサンテ・ファンを騒然とさせたらしいが・・。読む価値はないと、安富は判断したのであろうか。
だが、バラ=コンスエロだとしたら、この本の内容を類推するに、安冨にとってモラル・ハラスメント説を補強する材料になったことと思う。様々な状況において「ハラスメント」という行為は、単なるいじめや抑圧などの一方的プレッシャーだけではない。時には、愛たっぷりに抱擁するかのごとく優しさの仮面を被ったり、ツンデレ的駆引きのような高度な愛情テクニックを使った、ハラスメントの高等な技があったら何とする? こうした複雑かつ微妙な愛情表現こそが、後々にハラスメントだったと分ることは十分に有りえる。サンテとコンスエロの夫婦はまさにそれではないか。
フランス人は世界に抜きんでて個性を重んじ、ある意味「我がまま」をごりごり押し通す人々だ。お互いに「飼いならし、飼いならされる」という、駆引きする感覚の男女関係は、それこそありふれたフランス的日常であろう。
二人は1941年からニューヨークに移り住み、翌年「星の王子さま」を英訳出版(母国語での出版は没後1946年でガリマール社から)。1943年、コンスエロを「置き去りにして」、連合軍に志願し、北アフリカ戦線に赴く。1944年、ロッキードP38に乗り偵察に出撃するも行方不明となる。
安冨には多くの著作に書いている私事がある。実母と、かつての妻からハラスメントを受けていた事実である。エリートになるべく英才教育を強要され京都大に入り、社会人になってからもバブル期の住友銀行で猛烈に働かせられ、精神の均衡を失うぐらいにまで実母と妻からハラスメントを受けたという。そのことをしつこいほど、安冨はあらゆる著作に記すことを欠かさない。それほどのルサンチマンとして残るハラスメントであったかどうか、当事者の安冨にしか分からない。それを傍から、どうこう言う権利は誰にもない。
しかし、私は、安冨の、身内によるハラスメントの受けとめ方が不思議に思い、腑に落ちないことがある。家族の女性から、どれほどの溢れる愛情を注いで欲しかったのだろうか・・。愛情は目に見えないが感じとれる。ハラスメントもその意味では同じかもしれない。安冨は、星の王子さまなのか。
彼はいま愛を注いでほしい受け身の存在ではなく、限りない愛をそそぐ女性として生まれ変わっている。その美しさは、日を追って磨かれている。五十を超えたおっさんには見えない。凄い人だ。
▲最近の安冨歩
▲この2,3年の、彼の変容ぶりは素晴らしい。かつてはチェ・ゲバラを目指した男だった。まさしく愛情の履歴を物語っている。
なぜ、私が星の王子さまの「飼いならす」について、ぐだぐだと書くことになったのか。
前回のブログで、西欧の思想史における「人権、自由」などが普遍的概念かどうかを、自分なりに確かめてみようと記した。手始めに未読の長谷部恭男の著作「法とは何か」を読みはじめた。序章の「法はあなたにとってどういう存在か」で、「星の王子さま」の「飼い馴らすことで得られるかけがえのなさ」が論じられているではないか。
「王子とバラの関係」が、「私たちと国家との関係」に置き換わって論じられていた! ということで、わたしは再び、安冨先生に教えを乞うたわけなのだ。
(※)バラのほかにバオバブの木の話も大切だが、いつかにしたい。
▲「マイケル・ジャクソンの思想」は未読。傑作との世評高い。初期の満州国の経済分析、フィールドワークなどの一連の書はいまだに読んでいない。
▲妻の書棚にあった本を追加。今の世が生き辛いと感じている人にはすすめたい。アドラー心理学よりも、格段にいい。岩波から出た「複雑に生きる」が見つからない。あと一冊あるはずだが、それが何なのかも忘却。
(※)追記: サンテとコンスエロの関係性、その強度、バランスは誰も知りえることではない。文字化された情報を参考にすれば、よりハラスメントした方は「どっち」かの事実認定はかなり難しいだろう。「どっちも、どっち」という力関係は、ハラスメントとして捉えて過不足のない心理学的分析の対象になるのだろうか。私は素人だから、「ハラスメント」そのものの定義というか、実体がつかみきれないのだ。安冨教授は、「ハラスメント」を説明する際に毎度、個人的な事例に引きつけて噛み砕いてくれる。しかし、当然のごとく個人差、性格などの微妙な違いがあってしかるべきで、「ハラスメント」なる概念をよく考えると普遍性(?)は乏しい、少なくとも一般的な家庭ではハラスメントは常態ではないはずだ。であるから、犯罪にまで発展したこの種の事件を説明するとき、「ハラスメント」なる用語はきわめて便利に使われてしまう。そんな危険な言葉でもあるし、当事者に都合よく解釈される可能性もある。やはり、社会関係性の視点からの「ハラスメント」の実証的なアプローチが求められるのではないか。(5月31日 記)
わたしも以前、間違って覚えてたけどな。
よい論評です。
安冨教授の名前は各所に出てまいります。この記事は訂正します。他の記事について追々訂正することにしました。恥を曝して、戒めとします。
教授には改めて、別のところで謝罪します。これからも、ご教示、ご意見をお願いいたします。有難うございました。