われわれは、避けられないことを、耐え忍ぶことを、学ばなければならない。
われわれの生活は、世界の調和と同じように、相反する事物から、種々の異なる調子から、 優しいのと激しいの、鋭いのと平たいの、柔らかいのと重々しいのとから、組み立てられている。
その一方の側しか好まない音楽家は、何を表現しえよう? 音楽家は、それらを混ぜ合わせて、一緒に用いることを知らねばならない。われわれもまた、もろもろの幸と不幸をともに用いることを知らねばならない。
モンテーニュ 「エセー」 第3巻13章より(訳・松浪信三郎)
つね日ごろ、あい反するものを調和する見方、考え方というものを心がけている。
大まかにいえば、美しいもの、みにくいもの。聖なるもの、俗なるもの。新しいもの、古いもの等々。これらの良い方と思える一方だけを、見ようとしない人々がおおいのは何故だろう。
自分の価値観に合うものにしか心が動かない。汚いもの、穢れたもの、見にくいものはなるべく敬遠する。そんな心情はあたりまえなのか。
誰というわけではないが、その人が芸術家で、ただ美しいものだけにこだわって、何かを表現していたとする。
その作品は(音楽でも絵画でも)たぶん感覚的な美しさしか認知されないとおもう。
唯美主義に基づく芸術作品は、その表現技術として理にかなう感嘆をもたらすかもしれない。が、一方でその作品の背景にある歴史的ななにか、いやその現実である反世界を捨象したものだ。(こういう表現しかできない、ナウ)
瑞々しい林檎をそのまま教科書的なテクニックで描いても、動悸が速くなるようなときめきを覚えるだろうか。
たとえばセザンヌ。美しいリンゴと、そこの空間との境界、林檎のマテリアルと空気感のディテール、目では確認できないような色彩。
また、いずれ腐っていくだろう、林檎の生の儚さ。そんな近未来的な想像力のゆらぎまでも喚起するようなチカラ。
ただ美しいだけでは通り過ぎてゆく印象でしかない。セザンヌは腐って臭い立つさままで凝視したであろう。
わたしはもちろん芸術家ではないけれど、日々の暮らしのなかで美しいものしか見ていたいとは思わない。
自分の感性に合うものだけ、好きなもだけに囲まれて生活することはとても居心地がよく、心身ともに幸せな暮らしをおくっていると思いがちである。
しかし、それは一種のタコ壺のなかにいるのとひとしい。
モンテーニュがいうように、音楽家でも、画家でも、写真家でもない私たちは、日々の暮らし中で「もろもろの幸と不幸をともに用いることを知らねばならない」のだろう。
世界は相対的に構成されいる。
究極のはなし、なぜ人は死ぬのか。生きているから死ぬのである。
病気だから死ぬのではない。死は病気の助けなど借りずに、確実に私たちを殺す。
病気がかえって死を遠ざけた。健康とか医療は、私たちの生をなまぬるく脆弱なものにしたのではないか。
どうしてこんなことを考え、書く気になったのか・・。
久しぶりに穏やかな陽気になって近所を散策した。
裏道を歩いていたら、70歳くらいの老人が立ち往生しているのがみえた。遠目で見るとズボンをおろし、股引を引き上げようとしている。
裏通りといっても一人やふたりはゆきかう。下着とはいえ下半身をむき出したみすぼらしい男をみたら、女性は足早に避けて通り過ぎてゆくだろう。
やはり近くまで来たら、老人は脳梗塞を患わったのだろうか、半身不随らしく、手足が震えて思うままにならない。
手伝うかと声をかけたら「お願いします」と懇願する。股引というよりジャージのようなものでびっしょり濡れている。粗相したのか、すごく小便くさい。
言われた通りそれを腰まで引き上げ、汚れたナイロンのズボンをはかせた。
結構、上等な手提げかばんを拾ってあげ、ほかに手伝うことはないのか聞くと、十分だとても助かったという。
「気をつけて」と声をかけ、老人が杖をつき、よろよろと歩きはじめたことを見守った。
自分の善行を書いたのではない。自分のなれの果てを見たとおもったのだ。老人といっても私と10歳ぐらいの差しかないだろう。
人さまに恥を曝そうとはおもわないから、いまから心がけるべきものを整理しようと思った。
そう、「御襁褓」をじぶんでつけて散歩できる男になること。真率に生きることって、案外こんなことかもしれない。
文明と科学は男をだらしなくさせている。
森ビルとか丸の内のビルの公衆トイレに入ると、そこに立ってズボンのチャックを下す微妙なタイミングで水が2,3秒間流れる。用を済ますとふたたび気持ちよく水が流れる。
その爽快な流水音はある種のラグジュアリーである。これらのトイレット・清掃システムは、ビル側の人件費等コストカットおよびビルそのもののイメージアップに多大なる貢献をしているであろう。
だからといって、それを漫然と受けいれるのは私の「筋」ではない。
長くなってしまった。これを妻に読んでみてくれと言ったら、最初の一行で読む気をなくすといわれた。
誰にでも分かりやすく書け。知識をひけらかすな。
もっともである。そんなつもりはないのにそう判断される。
まだまだだ、自分は。もし生きていたらモンテーニュの爪の垢を煎じてのみたいものだ。
いや、伴侶に叱責されても真率に生きたい。
それが老いへの途ではないのか・・。