金沢に暮らし始めて40数年.。この街で「見たものは、見た」。最近は「軒端に冬の山晴れて見ゆ」って心境に。
金沢暮らしの日々 ~努力は時々 報われる~
普遍的な真理を平易な言葉で@『考える日々』池田晶子
池田晶子って誰?と、恥ずかしながら、小生、まったく存じ上げませんでした。先月のNHKの「100分de名著」で初めて知った次第。早速、この本を取り寄せました。
いや~、すごい人がいたもんですねえ。「いた」というのは、2007年に46歳で病死されたんですね。別に大学の教員ではなく、市井の哲学者ですね。「哲・学者」ではなく「哲学・者」です。本人は「文筆業」とも自称していたようです。
最初から「ソフィーの世界」批判することろから、痛快至極ですねえ。以下、この本のほんの一部を紹介します
「生活に立脚する、とはどういうことか」の章(P24)
・思想は生活に立脚しないことができるかもしれないが、哲学は生活に立脚しないことはできない。
・思想は、どこからか持ってきて取って付けることができるが、哲学はどこからか持ってきて取って付けることが絶対にできない。
・マルクスの考えをもってきて取って付けた人々は、同じことを自分の頭で考えることができるのですか?
・いやそんなことはない、私は自分の頭で考えていると言うのなら、マルクスの本がなくても、手ぶらで、ひとりきりで考えられるのでなけ
ればおかしいのではないですか
「なぜ人は“入門書”を読みたがる」の章(P114)
・なぜ人は、「哲学のすすめ」に際して、入門書を読もうとするのか。なぜ古典を、原典を知ろうとしないのか。古典と原典を読まずに入門
書を読もうとするそのことこそが、哲学とは何かを分かっていないまさにそのことなのだ。
・だいたい哲学入門書なんぞ、読むほうも読む方だが、書く方も書く方である。なぜ、哲学入門書ではなく哲学書を書いてやろうとは思わな
いのですか。「ソフィーの世界の読み方ガイド」なんてのに至っては、恥の上塗りの上を、もう1回コテで塗り固めたみたいなもんである。
池田晶子が考えていることは、日常のあるいは時事問題を入口にしながら、50年後、100年後にも通用する「普遍的な真理」を語っていますよね。一貫して「悩むな! 考えよ!」と言っています。
そういえば、内田義彦も「マルクスについて書かれた本」ではなく、「マルクスの書いた本」を読もう、と言っていたことを思い出しました。
※蛇足ながら 本のタイトルがダブってるのは、ミスではなく、もともとこういう装丁なのです。
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