金沢に暮らし始めて40数年.。この街で「見たものは、見た」。最近は「軒端に冬の山晴れて見ゆ」って心境に。
金沢暮らしの日々 ~努力は時々 報われる~
金沢城址・宮森坂を下って、定食食った日々

きれいな公園に整備した石川県からすれば「金沢城址」ではなく「金沢城」と言いたいのだと思いますが、僕らにとっては、永遠に城址(しろあと)ですね。
学生時代の4年間は、犀川の桜橋界隈に下宿していたので、朝は鱗町交差点の地下道をくぐり、MROの前を通り、左手に付属小学校(今は21世紀美術館に)を見ながら、兼六園の真弓坂をのぼり、あとは百万石通りを見下ろしながら、次第に近づく石川門を見て門をくぐっていました。
しかし、2年生の後期から学部にあがり、今の二の丸広場あたりに文系の校舎があったので、登下校のルートも変わってしまいました。下校時には、宮森坂を下って、中央公園を抜け、柿の木畠を通って竪町を通り抜け、新竪町に入って下宿へ、というコースでしたね(朝はその反対)。
と言っても学校が終わってすぐに帰れるわけではなく、様々な活動に勤しんでいた小生、様々なところに寄らねばならず、しかも夜中遅く、またキャンパスに舞い戻り、深夜に寝るためだけに下宿へ帰るというような生活でしたね。
でも、幸いなことに柿の木畠を通過するので、晩飯には困りませんでした。2大巨頭が、「ト一亭」(ずいぶん前に閉店、すき焼き定食が450円だった)と、「中華の北京」(店は今も健在、小エビ天定食うまかったなあ)ですねえ。
当時は、店名は思い出せないけど、他にも安い定食屋がたくさんあったような気がします。今も懐かしいのはタテマチを少し横に入ったところに、店名は忘れたけど、店のど真ん中に囲炉裏みたいなのがあって、女剣劇の主人公のようなキリリとした風合いのおばちゃんがやってる店。焼き魚定食なんかを食っていたような記憶があります。
もう40年以上前の、70年代の話です。城跡は公園になり、城内に続き宮森坂もきれいに整備されたけど、今もこの道を歩くと、あの頃の自分に出会えるような気持になります。


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コメント ( 14 ) | Trackback ( 0 )
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遠い記憶に。
自分のイメージでは、柿木畠辺りの印象と、そのお店が残っています。なにせ、細かい所番地は、分からなかったもので。
友人が連れていってくれました。
一度だけの記憶です。
安く定食が食べられる店。色々ありましたね。
八来食堂って、行かれたこと、ありましたか?
確かに、柿木畠って独特の雰囲気ありますよね。今もたまにその界隈を歩きます。当時は、まあバイクはもちろん、自転車すらない生活でしたから、遠方には行くことはなく、狭い範囲で生活してましたが(笑)。
「八来食堂」ってわからないです。どのあたりにあった食堂でしたか?。
地図を見たり、ネットで検索してみたりして、思うに、横山町辺りにあったのではないかと。
各種定食が、学割で、500円。
ご飯の大盛りは、どんぶり2つを重ねたくらい。
味噌汁が、ちょっと小ぶりなどんぶりに入っていました。
間口の狭い入り口を入ると、カウンターがあって、奥に座敷がありました。
いつも学生で賑わっていて、金大祭のパンフレットに「安い店 八来」と、名刺広告も出してくれてました。
ネットで検索しても、なにも引っ掛からないのが不思議です。
小生、犀川の桜橋周辺に下宿していたので、賢坂辻~横山町方面は、当時はほとんど行ったことなかったです。「八来食堂」も初めて知りました。きっとすてきな定食屋さんだったんでしょうね。当時ってどんぶり飯モリモリって店、ありましたよね。こんなこともふくめ、金沢という街自体が、学生を大切にしてくれる街だったと思います。
このブログにも書きましたが、50年以上の歴史を持つ小将町の「寿司 おでん まるよし」を知ったのも、つい最近だったのですが、1年通っただけで 閉店になってしまいました。長年にわたって金沢の街と学生たちを見守り続けてきた店が、どんどんなくなってゆくのは本当に寂しいです。
量を求めるなら八来、味ならお多福という感じでした。
どちらも今では無いようです。東京ストアーも横山店は無くなっちゃいましたね。
八来食堂って相当な人気店だったみたいですね。加えてお多福、加登長は僕もよく行きましたね
ところで横山町の東京ストアーって 今はクスリのアオキがあるあたりなんでしょうか
金沢を離れて30年になりますが、ずいぶん変わりましたね。(所属サークルのイヴェントで2,3年に一度は金沢に行きますが。)
確かにこの賢坂辻を下りた界隈って、学生向け?の店、たくさんありました。。
記憶の輪郭が、少しはっきりしたように感じています。
きむともさん、コメントありがとうございました。
私の方が、少し早く金沢を離れていますが、4年位は重なっているみたいです。
どこかですれ違っていたかもしれません。
私は、東山で暮らしていました。
タテマチを少し入ったところにあった女主人の定食屋
さん。
たぶん「ごだい」(漢字うろ覚えなのでカナで)です。
現在「ビストロ高柳」になっています。
高柳のマスターも、この定食屋さんをよく覚えてます。
横からいきなり失礼しました(実は長いこと毎日読ませていただいてます(笑))。
うん うん 「ごだい」・・ 確かにそんな名前だったように思います!!。あの女将さんの風貌を彷彿させる店名ですねえ。
これからも拙ブログ、のぞきに来てくださいね。
私は86年入学でなぜか教養部の院に進学したのちに学部に参りまして6年ほどお世話になりました。
東山ですか。私の友人で東山や主計町で数人で一軒家を借りて住んでたのがいたので、よく通いました。主計町の家なんて、真っ青な壁でびっくりしたものです。
当時は、観光もそれほど多くなくのんびりした地域でしたね。