秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

さようなら 大おじ様   SA-NE

2010年05月02日 | Weblog
4月21日夜、
神戸の大おじ様が、94年の生涯を終え、神様の元に、旅立った。
洗礼を受けた、クリスチャンだった。
若い頃、東祖谷を離れ、一人で中国上海に渡り、働き、終戦後は
友人と引き揚げ港のある舞鶴市に、戦災孤児の施設
「舞鶴学園」を創設した。
それから後の人生は、福祉の仕事に、尽力した。

故郷東祖谷の、ご先祖様のお墓参りに、年に二度、神戸の家族と共に、帰省していた。
母親のお墓を、新しく建て直し、
お墓の前に、平伏して、お祈りをしていた、それを初めて、見た時、私は軽い衝撃を受けた。
数年して、主人が逝って、一人になって、私の両親に、真っさらな気持ちで
向きあった時、気がつけば、やはり私も同じように、両親の墓に、平伏して
深くお辞儀を、していた。

昨年、12月、娘達を連れておじさんの家を、訪ねた。
二回目の、訪問だった。
「ルミナリエ」を見に来たんです。なんて、言いながら、本当の目的は
おじさんとの想い出を、一つでもつくりたかったのだ。
娘達には、話していた。
亡くなってから、駆け付けても、意味がないのよ。生きている間に
一緒の時間を持ちなさい。これが、多分最後のお別れになるから。

やはり、それが、最後のお別れになってしまった。
一緒に、ワインを頂き、昼食のテーブルを、囲んだ。昔話を、聞きながら
穏やかな時間が、過ぎた。

少しずつ、歩を進めながら、庭からつながる、路地まで
私達が見えなくなるまで、見送って下さった。

息子さんが、おじ様を囲んで、写真を沢山、写して下さった。


おじ様の、告別式は、教会で執り行われた。家族、友人、親戚、
多くの方々が、参列した。
賛美歌を、聞きながら、涙が落ちていった。おじ様と、話した
一つ一つの、言葉を、思い出していた。

病室での最後の朝、
「おはよう~」と長女がいつものように声を、かけると、
その朝だけは、おじ様は、いつものように
「おはよう」とは答えず、軽く手を上げて
「さよなら」と言い、長女が、
「死んでも絶対に、泣かへんよ~」
とおどけて答えると、
「ヨロコビ!よろこびぃ!」
と微笑んだと、聞いた。

おじ様には、わかっていたのだ。
その朝が、最期の朝であることが。


49年間、
たくさんの方を見送ってきたが、
あんなに美しい、死に顔を見たのは、初めてだった。
気高く、聡明で、お顔からオーラさえ、放っていた。

祖谷の親戚の数人は、おじ様の顔を、撫でて、お別れをしていたが、
私にはそれは、できなかった。
尊敬し、ずっとお慕いしてきた、おじ様に、ただ、深くお辞儀をして、
「ありがとうございました」
とおじ様に言った。

おじ様を、囲む、子供達や、お孫さんを、見つめながら、感無量になった。
故郷を離れ、一人で、ゼロから生き、家族を持ち、幾つもの新しい命が、繋がっていた。
おじ様の、遺伝子を継ぐ者達が、おじ様を取り囲んでいた。
愛の涙が、賛美歌に、解き放されていた。


30年前、教職員になった長男が、家を出る日に、おじ様が、言った言葉。
私のこれからの、人生の糧になりました。

「神様以外を恐れるな!」
そして、
「人と別れる時は、いつもこれが最期だと思って、さよならを言え!」

ありがとう。
おじ様。
もう会えないね。
もう電話の声も、聞けないね。
柔らかいおじ様の声。ゆっくりした、優しい声。

私はおじ様のように、寛容にはなれないけれど、
おじ様の背中に
学んだ事は、きっちりと心に刻みました。

さようなら おじ様。ありがとう おじ様。




コメント
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