楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

2024-01-06 17:42:38 | 日記

しばらく、ご無沙汰していました。本日は、こちらから参ります。

武蔵小金井駅、南口からこのバスで行きます。

降りた場所から、すぐのところにあるのがここ幡随院です。浄土宗系単立寺院の幡随院は、神田山新知恩寺と号します。幡随院は、演蓮社智誉向阿幡随意上人白道和尚が徳川家康の招きにより慶長8年(1603)神田駿河台に新知恩寺と通称して創建、元和3年(1617)池之端へ移転、万冶2年(1659)浅草へ再転、延宝年間(1673-1681)浅草幡随院と通称したといいます。開山の演蓮社智誉向阿幡随意上人白道和尚は、館林善導寺、和歌山万性寺などを開山、熊谷寺を中興したという高僧です。関東十八檀林の一つとして、数多くの末寺を擁していました。台東区の区画整理に伴い、昭和14年当地へ移転しました。

とありました、この日はあいにく門が閉まっていて、中へ入れませんでした。

しばらく行くと、ややひらけた場所に鳥居が見えたので奥へと向かいました。

神明宮と書かれた提灯がぶらさがっています。

 

なかなか怖そうな狛犬のお出迎えです。

前原神明宮という神社だそうです。この日も、お正月の三が日でちらほらと初詣に見える人たちがいました。地元の神社は大切ですね。ところで、この前原神明宮とは、小金井市前原町にある神社です。前原神明宮の創建年代等については不詳ながら、天正年間(1573-1593)の創建と伝えられ、上小金井村の鎮守社だったといいます。明治42年(1909)小金井神社に合祀されたものの、昭和22年(1947)に復座したといいます。この記念碑ですが、これは「このたび境内地及び参道一九九六平方米が所有者鴨下良輔氏より社域として提供されたので、これを記念して有志相計りここに碑を建立して後世に伝えるものである。」とありました。

末社の稲荷社もちゃんとあります。

扁額は、はっきりと神明宮とあります。

本殿の脇に、このような舞台のような、何かを入れるような枠が置かれていましたが、催しものでもあるのでしょうか?

                     つづく


さて、それでは帰りのコースへ

2023-11-21 20:42:48 | 日記

普光妙寺を出て大通りから眺めると、やはり、こんなに大きなお寺だと見直しました。

橋を渡って駅の方向を目指します。

そろそろ陽も陰って来たようですよ。

おやおや、また、こんなお地蔵様のある場所へと来ました。

普通の民家のようですが、以前はお堂になっていたような感じにも見えます。それでは、次回に調べて報告することにします。

                   つづく


何とも大きいお寺に驚いた

2023-11-06 20:17:53 | 日記

さて、中へ入って見て見ましょう。

木が生い茂った広い境内です。

竹林もあり涼しそうですね。忠魂碑が2基も建っています。

ここは、地蔵堂でしょうか、屋根の形が目を引きます。

本堂へ来ました。見てください、この立派な建物を思わずお参りしている人との対照が。

ところで、ここでお寺の住職さんとお会いして話すことが出来ました。丁度、庭の手入れをなさっているところでしたが、このお寺を維持して行くことの大変さを感じました。お顔は掲載しませんが、優しそうな方でしたよ。

古めかしい菩薩像などいろいろな石像が並んでいました。ところで、この普光明寺というお寺はどんなお寺なんでしょう? 真言宗智山派の寺院で、寺伝によると大同元年(八〇六)に律宗の比丘が開山したと伝えられています。本尊は不動明王です。鎌倉時代の正安三年(一三〇一)、金沢称名寺の第三代長老である湛睿が記した『観経玄義分見聞集』の奥書には「・・・于時 正安三年辛丑五月廿二日羊尅 於武蔵国新倉郡大和田郷普光明寺令書写了」とあり、当時学僧であった湛睿が、普光明寺において書き写したことが見えます。この普光明寺と、その周辺(大和田郷)は、すでに鎌倉幕府の支配下にある土地(国衙領)でした。江戸期には、泉蔵院(竹間沢)千光寺(上宗岡)地蔵院(亀久保)、龍泉寺(大和田・廃寺)、長勝院(館)、西光院(針ケ谷・廃寺)、観音寺(下宗岡・廃寺)の七ヶ寺を末寺・門徒寺として擁していた小本寺格の寺院でした。本堂前にある地蔵堂には、源頼家が奉納したと伝える千体地蔵尊が納められています。これは、三十三年ごとに開帳の行われる秘仏です。山門は、享保年間の建立と言われ、「その作り工にしてことに高し」と江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に記されています。中央に掲げられた扁額の「福壽山」は江戸の書家、佐々木玄龍の筆によるものです。普光明寺には、中世の末から両墓制という、墓石を建てる場所(境内)と、遺体を埋葬する場所(三本木・ハケ上)を別にする風習が見られたそうです。

                          つづく

 

 


しばらくお休みしてました

2023-11-03 11:12:28 | 日記

今、大和田氷川神社へ来てます。それでは、境内を一回りして見ましょう。

ここには、小さな社があります。狛犬も左右に鎮座していますよ。

どうやら、ここが本殿のようです。ちょっと寂しい感じに見えますね。

「お前は何者じゃ」という顔で睨まれました。

見事なしめ縄に目が行き、その下にはきめ細かい彫り物が見えました。

また、傍らには見事な装飾瓦が飾られていました。それでは、お暇して次へと進みます。

出ると、すぐ傍にお寺もあります。普光明寺というお寺でした。

このお寺は、どんなお寺なのでしょう?中へ入って見ることにします。

                  つづく


その先には何があるんだろう

2023-10-26 19:57:19 | 日記

周りを見ると、こんな碑もありました。

それでは、先へと進みます。

目の前に、大和田公民館へという標識が現れました。そちらへと向かいましょう。

しばらくすると、このような公園がありました。散歩の途中の憩いの場所ですね。

やって来ました、ここが公民館の入り口です。高齢者が増えて、みなさんの集まりの場所のようでした。

その先へと進むと神社があります。大和田氷川神社というそうです。

大和田の氷川神社は、縁起によると、延暦二十一年(八〇二)の創建といわれる神社です。祭神は素盞嗚尊です。この氷川神社のある大和田一帯は、古くから鎌倉幕府の支配する土地(国衙領)で、「大和田郷」といわれていました。拝殿の奥にある入母屋造りの本殿は、江戸時代の享和年間に再建されたもので、正面に千鳥破風と、唐破風の向拝を付けています。本殿の壁面には、みごとな白木の彫刻が施されています。作者は浅草当代の名工といわれた島村源蔵で、左面「鞍馬山の天狗と牛若丸」背面「養老の滝の伝説」右面「神功皇后と武内宿禰」の三題が、風格ある江戸彫りの刀法によって、透し彫りにされています。この氷川神社と、普光明寺の間には「いざ、鎌倉」への道として利用された中世の道「鎌倉道」が通っています。大和田氷川神社所蔵の文化財としては、無形民俗文化財として中野の獅子舞、 大和田囃子、 大和田氷川神社はだか神輿などがあるようです。

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