このコロナ騒ぎでは、どこへも行けませんでしたので、以前に訪問した場所を紹介しようと思いました。そこで、今日はここ所沢です。
これだけ見ただけでは何だか分かりませんね。そこで
このマンホールを見てください。「ところざわし おすい」と書いてあります。そして、その上の絵を見て、見てください。なんで、飛行機の絵なんだろう?じつは、知る人ぞ知る、所沢市には航空公園という公園があります。そこには日本で初めて国産旅客機として登場したYS11の実物機体が置いてあり、日本の飛行機開発史が展示された記念館もあるのです。そこへはまた後程行くとして先へ
どうやら、またお寺らしき処へ来ました。入って見ましょう。
イチョウの木でしょうか、大きな木が境内にあります。
曹洞宗寺院の藥王寺といい、東光山自性院と号します。藥王寺は、新田武蔵守義宗が当地に潜み隠れていたもののその後草庵となしたと伝えられます。孝山俊和(慶長19年1614年寂)が臨済宗より曹洞宗に改めたといいます。本尊は薬師如来の木像で、身丈け五十五センチメートルある。寺の縁起によると、新田義宗は戦に敗れた後、再起の時を待つために主な家臣に言い含めて、軍勢を群馬県に引き返させ、それから「義宗は北国に落ちて行った」と云いふらせ、自分は密かに所沢に隠れ住んだ。ところがその後、足利氏の勢いは日増しに強くなり、遂に南北朝も統一され、戦乱も収ったとの話が伝わって来た。そこで義宗は髪を落とし衣を着て、今までの隠れ家をお堂に改めた。そして一体の薬師如来を彫刻し、その腹の中に守本尊をまつりこみ、戦死した一族や部下の菩提を弔いながら毎日を送り、遂に応永二十年(一四一三)この地で亡くなった。
こういう説明がありました。本尊は昭和三十七年解体修理の際、永禄十年(一五六七)修理の墨書体内銘があった。境内には、明治三十年に義宗の子孫が建てた「新田義宗終焉之地」の碑や、江戸時代の女流俳人三上里恵の句碑などがあります。
こんな可愛らしい親子連れのお地蔵様もありました。
このお地蔵様は古そうですね。顔がわからないくらいに摩耗してます。
どうやら本堂に来ました。
これが扁額です、東光山と金文字できれいに書かれていました。
つづく