ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

ご近所コンサートで浦川宜也さんのバイオリンを聴く

2011-09-27 09:28:56 | 生活改善プロジェクト
とってもローカルなんですが、台東区の施設 生涯学習センターが10周年を迎えました。

私が今の家に引っ越して10年、同じ時に出来たこの施設

台東区立図書館が入っています。
かなり立派な図書館で、社会人向け学習スペースも、パソコンルームもあり
ビデオやCDも貸し出していて、近所にあるのはとっても便利。
雑誌も新聞も読み放題、図書館っていいですね。

小さなトレーニングジムもあり、小さいながらマシンも揃っているし
インストラクターも常駐して、レッスンもあり、2時間200円。
シャワーもあり、なんてステキ。

貸出している会議室や工作室、和室(炉も切ってあってお茶事もできます)
もあります。
私は毎週和室で行っているヨガに参加。和室のヨガ、すっごく快適。

箱モノ行政にはネガティブな意見を持っていますが
これだけ便利だと思っていると、「公共施設」の恩恵に預かってるんだな~と自覚せざるを得ません。

さて、その「台東区立生涯学習センター」の10周年記念
ふれあいコンサート ヴァイオリンとピアノの夕べ

施設内のコンサートホール(まである!)ミレニアムホール

ヴァイオリンは、浦川宜也氏
ピアノは、田中美千子氏

さすが東京芸大を区内に擁する台東区だけあって、大御所がこんなにこじんまりとしたコンサートに出演してもらえるんですね。

会場は500人くらいの収容の小さなシューボックス型のホール。

お客さんは、年配の女性が多かったですが、ご夫婦もちらほら。
いいですね、ご夫婦でコンサート。

クラッシックコンサート、といえば、私にはサントリーホールの華やかな印象が強烈に。

なんといってもバブル期に連日満員のサントリーホールでバイトをしていた身としては
ドイツの世界的オケ、世界的マエストロ、2000人の観客はきらびやかで
休憩時間にロビーではワインが楽しめて…

コンサート帰りには六本木でご飯を食べて…

そんな時代もあったんです。

私自身の年齢も生活も変わっていって、仕事帰りに自転車でご近所の区立の施設で
ヴァイオリンのコンサート。1000円で聴く。

私もそんな落ち着いた生活になったんだなあ、
とともに、こういう日常的で身近なコンサートの楽しみ方って、
ヨーロッパ的なんだろうな、と思いました。
豪華で高価、きらびやかなコンサートだけではないっていうことは、音楽文化の成熟ではないかしらん。

浦川氏の演奏は、なかなか熱の入ったいい演奏でした。
すっかりヴァイオリンの和声を堪能できました。
アンコールをン弾き終わって、ニッコリほほ笑んだ姿が、ああいい演奏会だったな
という思いを増してくれました。

★画像は浦川宜也氏HPより拝借。


小野照先神社で、雅楽を見る

2011-09-23 22:48:51 | 日本文化
今日はお彼岸の中日、秋分の日です。

台風が過ぎて、あんなに暑かった夏が一気に過ぎ去ってしまったかのように
肌寒いくらいになりました。
暑さ寒さも彼岸まで、の言い伝えがあまりにそのとおりです。

地元にある大きな神社、小野照先神社で秋の例祭があるということを、ポスターで知りました。
足利学校と雅楽の夕べ
夕方 17時からです。

昼間、西麻布のギャラリー ル・ベイン で開催されている
「ヘルマン・ツアップ&グルドン・ツァップ カリグラフィーの世界」
を見た帰り、日も傾いて、ほの暗さと肌寒さが本気になって来た時間に、小野照先神社を訪ねました。

災害と神道をテーマの講演を聴き

すっかり日も落ちて、地面に置かれたろうそくの光が澄んで見える中
舞台で2曲演奏&舞が披露されました。








雅楽の調べは思いのほか大きく迫力のある音色で
邦楽特有の、音程の揺れと不協和音がとても心地よくて

プロローグの演奏が始まってしばらくすると、舞楽の舞者が二人登場して

一対で舞う姿を見ていると源氏物語の中で、光源氏と頭中将が青海波という楽曲を舞う場面を思い出していました。
美男で競い合った二人が、こんな風に優雅に力強く舞う姿は、それは美しいだろうな

と思うほど、ゆったりとして優雅な動きのでありながら、とても力強い舞でした。

舞楽の舞ははじめてみましたが、能楽の舞とはまた違う力強さとスピード感でした。

衣装も美しく、ライトアップの光に映えてなお舞を美しく見せたような気がします。


薪能もとても好きですが、野外で観る舞と邦楽の音色は、澄んだ感じと周りのざわざわとした音が混ざって、その雑音が混じることでかえって見ている私を違う世界に連れて行ってくれます。

1時間、雅楽を観て、神主さんのごあいさつのお話でお開きになりました。
神社の例祭ですから、秋の実りに感謝するお祭りですね。
帰宅したら、早速お米の収穫がニュースになっていました。

灯りを消す

2011-09-18 09:44:48 | 日本文化
仕事をしている(主にPCで事務処理をしている)部屋が暗いと思っていた。

100wの白熱電球が3個付く照明器具で、2個の電球が切れたままになっていた。

やっときっかけをつかんで、60wの蛍光電球を2個買ってきて付けた。
とても明るい!

白熱電球のオレンジ色の光がほの暗かった今までは、よくこの部屋に来ると眠たくなった。
眠る準備にちょうどいい暗さだったのかもしれない。

蛍光電球が120w追加されると、思いのほか白くクリアな世界に変わった。
眠たくなるのを阻止してくれるようだ。
この明るさなら、夜の事務作業がはかどりそうだな、と思った。

なんだか夜の仕事を自分で増やしているようなものだな…と思って
ふと、日本中が明るすぎるわけがなんとなくわかったような気がした。

先進諸国と比べても、日本の照明は異様に明るい。
夜も不夜城のごとく、昼間も明るさの死角が生じることの無いように
そして、消費意欲をかきたてて、労働意欲が落ちないように
隅々まで明るく照らしている。

もう少し、暗くてもいいんじゃないか、と電力需要の不足と節電の夏になって
つくづく思っていた。必要以上に明るすぎるんだ現代の日本は。

でも、自分の身近に明るさを感じてみて、
今よりも暗くすることは、日本の社会にとってそう簡単なことではないのではないなと思った。

日本もつい数十年前までは、「闇」が隣にあった社会だった。
「闇」への畏れを主題にした優れた文芸や、美術、芸術作品がたくさんある。
生活の中に、すぐ隣に「闇」が普通に存在していて、みんなそれを受け入れて暮らしていたのだろう。

経済力がつくに従って、日本から「闇」排除されていった。
どこの国でも経済的に豊かになれば、「明るく」なる。
日本はその「暗がり」から「明るさ」への振れ幅が特別大きいのかもしれない。

昭和8年に谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」を書いている。
もうころ時代から、日本の社会から「陰翳」は失われつつあったとうことだ。
谷崎潤一郎はこの煌々とした異様な明るさを予見していた、鋭い洞察力だ。

日本がこれほど明るさを求める珍しい国なのは、日本が急速な経済発展を遂げた稀有な国だからではないだろうか。

歴史の流れのなかで、必然のように発展してきた先進諸国にとって「闇」は排除しなくても共存できる余裕があったのだと思う。
日本は無理やり急速な発展を目指してきたから、「闇」急いで消し去らなければならなかった。
そうしないとこんなに勢いよく急いで発展が出来なかったのだろう。
そして明るくなった。
明るくなると「闇」はさらに暗くなる。さらに暗くなった「闇」をさらに明るく照らそうと
もっと明るくする。そんな循環に嵌っているのだ。

この循環を断ち切るのは、そう容易なことではないと感じる。
明るい社会は「闇」を受け入れることにアレルギーを感じだすからだ。

照らし出さなければならない「闇」は、光だけではなくて、人の心、社会の暗部
それも、明るく照らそうと社会自身が必死になればなるほど、さらに「闇」暗さはまして
見えないところへと追いやられて、居場所を失っていく。
でも光あるところに闇は必ず生じる。影は決して消えて無くならない。
なのに四方八方から光を当てて一寸たりとも影が生じないよう、なんだかとっても虚しい努力をしているように思える。

私は自室に蛍光電球をつけてしばらくは、快適だと思った。
しかしそれもつかの間、疲れてきた。
蛍光灯の白い均一な明るさは、いくらでも頑張れると自分への無意識の圧力にあるような気がする。眠くなれずに、もっと頑張れる、もっともっといろいろなことが出来る。

そうして人は疲れてしまうんだな。

精神的危険を感じたので、2個付けた電球を1個外すことにした。

今日は静かに過ごそうと。

2011-09-12 10:42:43 | 日本文化
いろいろな記念日。
記念日といっっていいのかな?佳い思い出の日ではなくて、忘れてはならない辛い思い出の記念日になりました。

個人的なことではありません。

一日中、メディアで持ちきりだった
3.11東日本大震災と9.11同時多発テロ事件
二つの11の日から半年と、10年の記念日です。

3.11から半年の間、
あまりの大災害とその後起こった非日常的出来事の連続で
私は、気持ちが高揚したまま、その妙な高揚感を持ち続けて仕事をしたり生活をしたりし続けました。

その高揚感が、私自身には精神的に「喝」になって、
ボヤっとしていてはいけない、しっかり仕事しなくっちゃ、毎日ちゃんと生活しなくっちゃ、という自律の気持ちを持続させてくれました。

10年前の9.11のころの自分を思い出してみました。
10年間でいろいろなことが大きく変わりました。
自分自身も随分いろいろなことを10年の間に経験できるものだな、と思います。
この10年は、超大国アメリカが失墜し、大きな不況が何回も起こり
中国の存在感が急速に増し、世界のいろいろなことが変動した10年でした。
そんな世界の変動に、私の生活も容赦なくパンチを浴び続けて蛇行していたようにも思えます。

2011年、何も解決していませんが、なぜか私の心は落ち着いた日を迎えました。
まるで、火の中で心の平静を保っている修行中のような気持ちです。

朝からヨガのレッスン中、ヨガの体はキツイポーズの最中に、なぜか笑顔になれることを感じました。苦しい顔をして、ヨガのポーズは取れないものです。

午後は、おはぎを作りました。
小豆を煮て、もち米を炊いて、おはぎを作るのは初めてです。
お彼岸ではないですが、心の中で東北にお供えするつもりで作りました。
出来たおはぎは美味しくいただいてしまいましたが。
自分でお菓子を作って、おいしくいただく
そういうことを、幸せだと心から思えるのは3.11と9.11に遭遇して、考え方や生き方を少しずつ軌道修正してきたからだと感じて、
このおはぎはやっぱり今日作るべきだったんだと思いました。

世の中は何も解決していません。

戦いの中でも平穏な心を忘れるな、ということだと感じました。

その土地で生きる、こと

2011-09-08 00:17:42 | 日本文化
東日本大震災から、もう半年が経とうとしています。
時間の経つのが早いことに、そして半年経ってもまだ瓦礫が山積する被災地の惨状に、
ため息が出るばかりです。

私は被災者ではないので、心理的動揺も収まり日常生活に戻っています。
電力供給パニックも、節電が声高に叫ばれていた猛暑も、過ぎて行きました。
気がつくと、もう季節は秋です。

大津波の被害に遭った東北の海岸の地域
福島第一原子力発電所の周辺の避難地域

報道を見ている限りは、被害の終息にはまだ程遠く、
壊れたままの建物、瓦礫の山はまだ撤去、処分されずどうしようもなくその場にあり
非難指定区域はいつ帰宅できるかめどさえ立たない状況のようです。

大津波の被害地の多くは、地盤沈下を起こして浸水する状態で、客観的に見ればもうそこには住めないだろうと思える状態、もしくは次の被害にどう備えて堤防などを整備するか
それが果たして現実的なのか、という難しい問題を抱えて、地域の復興はまだ見えてこないようです。

福島の避難指定区域に至っては、原発がまだ終息しない状態では、帰宅の目途の立てようがありません。

私は、とっても傍観者的に見ていて、この被災地は「この土地はもう住めない」と住民が諦めることしか次の復興への道はないだろうな、と思ってしまいます。
大津波の被災地の海岸地域は、高台に新しい町なり村なりを作るしか
放射線の高い地域は、帰れない前提で新らしい土地へ移って生活設計を始めるしか
ないだろうと思います。

しかし、それはとっても都会的感覚で、もっと事態は困難なのだ、と気づきました。

この大都会東京に住む人の多くは、地方から東京に移り住んで来た上京者です。
上京者も、賃貸住宅に住んで、定期的に引っ越しをする人も、家を買い、そこを終の棲家にしている人もいますが、何世代もその土地に住んでいる人に比べれば、土着の感覚は薄く、いわば仮住まいの感覚です。

私もそうですが、働き手の父親の職業が、あちこちを転々とする「転勤族」と言われる会社員の場合
子供は幼いころからあちこちを転々として育ちますから、どこかの土地が故郷だという感覚が薄くなります。
今住んでいる我が家が、故郷であり家であって、その土地や地域になかなか根付けません。

しかし元来人は、昔から土地とともに生きてきた歴史があります。
農業でも漁業でも、土地や海があって成り立つ生活です。
土地に根付いて生きるもの、それだけ人の生活と土地は不可分でした。
ヨーロッパでも、土地に根付いていない放浪の民は「ジプシー」と呼ばれ
差別的に見られてきました。

今の自分のような都会の漂泊生活者は、いわば現代のジプシーですが、
都会が大きくなり、現代版ジプシーが多数派になってきているのです。

そんな都市生活者が、大震災で、原発事故で、土地を奪われた地方で土着の生活を送っていた人の
本当の痛みがわかるのでしょうか。

傍観者で都市生活者である私のような人は、

ああ。早く復興が進めばいいのに
復興を進めるために、「もう住めない」という諦めが必要なのに
なかなか進まないな…

と思うことも至極当然ですが、「もう住めない」と決断する感覚が、きっと根本的に違うのです。

行政も、国の機関、上部機関は、早く復興を進めよう
新たな都市計画の図面を引こう、と焦っていることでしょう。
でもきっと自分も住民としてその土地に生きてきた現場の市町村の役場の人たちは、そうそう簡単に割り切れる問題ではないのだろう、だから遅々として進まないのだろう。

やはり、
土着の土地を持たない、捨ててきた都市生活者の意見を押し通すことはできないと思います。

何世代も住み続けてきた土着の「もう住めない」自分の土地、をどうするのか。
ははあまり直視されていないようですが、実はとても深刻な問題だと思います。

もっと心の問題まで切り込んだ議論と対処がない限り、住めなくなってしまった土地と人とが離れられないまま、どうしようもなく時かばかりが過ぎ、住めなくなった人の生活も、心も復興出来ないのだと思います。

元来土地と人が不可分であること(あったこと)、をもっと真剣に考えるべき時なのでしょう。

弘法筆を選ばず…空海と密教美術展

2011-09-03 10:18:23 | art
台風接近で、不安定なお天気。
この展覧会もとても混んでいるとの情報を得て、こういうお天気を狙っていかないと!と
行ってきました。
会場は入場制限はしていませんでしたが、やや混み状態。
ゆっくり見られる、というわけでもなく、人気の展示品は人の頭越しに覗き見る感じです。

前半は、空海の自筆の書が並びます。
伝空海だけではなく、空海筆、もあり、見応えがあります。


空海筆の書を見ていたら不思議な感覚へ陥りました。
~8世紀頃に生きていた人がいて、現代人と同じ言葉を話したり書いたり
この漢字の文章は8世紀に書かれているのに、21世紀の私が読むことが出来る。
漢字だから書かれている意味も少しわかる。

1200年の時空を越えて、偉業を成した人と今私が共有しているものがある、
という不思議な感覚を覚えました。
そこに記されている

書が美しかったから、だと思います。

空海が唐から持ち帰った仏具や経典
その目録など

高野山や東寺所蔵の、密教資料
そう、両界曼荼羅図(血曼荼羅)がありました。
迫力がありましたが、当時のもっと鮮やかな色彩で観る迫力はいかばかりだろう?
とかなり経年変化が激しい(当然)実物を見て思いました。

それにしても℃の資料も表具や修復の見事なこと。
特に修復はどれも緻密で美しく修復されていることに感動しました。

そのあと、空海滅後の密教資料

そのあとにいよいよ仏曼荼羅
東寺の立体曼陀羅の仏が配置されて、その間を縫って歩ける(360度見られる)
まるでテーマパークです。

私は持国天立像に魅せられました。
恐ろしいという感情は全く受けません、ただ美しいと思いました。
とても静かな静的な印象を受けました。

このテーマパーク展示?回遊式?はとても楽しい展示でした。
展示最後のフィナーレというところも、憎い感じです。

密教と美術の密接な関係を実感できました。

私は漢字(書)の美しさ、意外と自由奔放さが心に残りました。