ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

萩の花が好き、おはぎも好き

2012-09-22 19:53:56 | 今日の料理

秋のお彼岸なので、おはぎを作りました。

小豆を煮るのが以外に簡単なのだということを知ってから、よく煮ます。

黒豆も好きなので(豆好きなんだと思います、枝豆大好きだし)お正月以外にもしばしま煮ます。黒豆はおやつ代わりに、サイドメニューの常備菜に、トーストにも意外に合う。

小豆の餡も、バタートーストや、ホットサンドにすると美味しい!

 

小豆は、いきなり茹でこぼして、柔らかくなるまで煮て、煮上がってからお砂糖で味を整えて出来上がりなので、小豆の量にもよりますが一時間も煮ればOK

お餅は、うるち米と餅米を半分ずつにして普通に炊き、すり鉢でかるく潰せばOK

おはぎを丸めていると、和菓子って手での温もりで作るものなんだなあ

と実感します。西欧の人にはちょっと違和感が有るのかもしれませんが。

萩の花が咲きだしています。

大好きな花なので、向島百花園に見にいこうかと、思ったら明日は雨の予報。

昨日から、急に秋になって、暑さは本当にお彼岸まででした。


自分に出来ないことを助けてもらう

2012-09-21 06:32:15 | 生活改善プロジェクト

このブログを、自社WEBサイトから切り離すことが出来ました。

WEBサイトにリンクされていると、あまりプライベートなことは書きにくく(書いてしまっておりましたが)気になっていました。

夏からずっと続いている「身辺整理」の一環でもあり、仕事環境を整えて、

対外的な窓口であるWEBサイトを手直ししたいと考えていました。

しかし

悲しいかな、WEBの知識が皆無なのでどこをどうしたものか解らずに困っていました。人生のキャリアを積んでくるとある程度様々な分野の「専門家」のかたに、伝手をたどって巡り会うことができるような気がします。

伝手のたどり方とか、お願いできるおつきあい、どういうスキルの方なのか等々、「専門家」であればどなたでもいい訳ではなく、やはり信頼できる方には信頼できる方を通じてしか巡り会えないものかもしれません。

ともかくも、親しい友人の知人にお願いして、WEBサイト管理の手段を探ってもらい

今後の管理方法を教えてもらいました。目の前で、ご飯を食べながら、私の乏しい情報で一時間くらい私のノートPCを動かして、解決していただいたときには、まるで知恵の輪をくるりを外してみせられたような、感動がありました。

あとは自分で触って学べば何とかなりそうです。

自分でもどうにもならないことを助けてもらえるって、やはりとても嬉しいことです。私もで自分の専門分野でそんな風に誰かを助けられたらいいのに・・・と、思います。

 

プライベートブログに戻ったので、これからはもう少し自由気ままに書こうと思います。


インディーズ着物ショップの井戸端着物マーケット in ISETAN

2012-09-08 06:27:05 | 独立起業

今年の初夏、目白の古民家ギャラリー「ゆうど」で開催した

インディーズ着物の「井戸端着物マーケットvol.2」

去年、震災後の不安が東京中に充満する中、大好評だった第一回に続き、今年の5月に開催した二回目も大盛況で楽しかった着物のマーケットイベント。

今度は、場所を新宿伊勢丹百貨店に移して、少しイメージの異なる三回目を

9月5日(水)~9月11日(火) 新宿伊勢丹本館7階で開催しています!

 

私は初回からお手伝いに参加して、今回が三回目。

新之助上布の搬入と初日5日の店頭に立ってきました。

今回のメンバーは

雨待ち小町(ユニット)雨が楽しくなるような着物周りがテーマのユニット

重宗珠緒   新進気鋭の友禅作家 インパクトのあるデザインの友禅染

新之助上布  近江の伝統工芸品近江上布の織元

はじめてのきもの小梅 着物が初めての方に最適、セパレートきもの、二部式帯など

モダン機もの☆小物梅屋  モダンでおしゃれな本物の着物周り

山崎佳子(着物スタイリスト) 女の子心をくすぐるセンスの着物周りをセレクト

結城紬・織り子店rico 結城紬を織っている女性三人組 結城紬を使った小物たち

和キッチュ ベトナムで一針一針さしているペタコさんデザインの刺繍半襟など

会場のディスプレイなど

右側は、フェイクレザーの着物!クール!

 

 

大人気、和キッチュさんの刺繍半襟

 

 

 

梅屋さんごめんなさい、後ろ姿も素敵です(汗)

 

着物に魅せられた女性が、自分の欲しいものを作っているのが、今どきの女の子に受け入れられる理由だと思います。

着物というと、格式や、作法や、茶道華道、踊りや歌舞伎・・・そんな取っ付きにくさがついて回ります。

でもそこをいったん通り抜けて辿り着いた、やはり着物は衣服でファッションだから、自分が可愛い、お洒落と思うものを身に付けたい、という自然な思いに共感していただけるのだと思います。

そうやって、着物が「古くさい」「特殊」なものから、「カッコいい」「ファッショナブル」なモノになれば、伝統としても衣服としても生き残ると思うのです。

着物姿の店主もお客様もみんな素敵できれい。その姿だけでも見る価値あり!と思ったのでした。


ハンディキャップを持ちつつ働くことについて、全く正論ではない現実論的な。

2012-09-03 11:34:32 | 独立起業

働くこと、について考える機会が最近多い。そういう年齢なんだろう。

若いときはただ闇雲に働いていても先がある気がしていたから問題なかったけれど、だんだんそうも行かなくなってくるのだ、とわかって来た。

大学を卒業してから、数ヶ月間の失業期間はあれど、なんとかずっと仕事をして、生計を立てて来た。

最近私の個人的なことばかりで、なんだか恐縮するけれど、私の個人ブログだからそれも仕方が無いか。

私は、現在働くとか社会生活に追いていくつかのハンディキャップを負ってしまっている。

・女性である(仕事上は未だにハンデだ)

・がんの治療中

・20歳からずっと持病と障害の境界線上のようなモノを抱えている(ただし外見からはだいたい見えないので普通の人に見える)

・・・トリプルネガティブということばが思い浮かんでしまった(乳がん用語です)

最近はがんに罹患してもその後の人生が長くなり(すぐには死なない)社会復帰をする人も多いし、治療をしながら働く人も多い。けれど、がんになった人の約半数は、仕事の仕方を変えるもしくは離職する、ことになっている現状がある。治療費は高額で、生活費も必要なのに、職場や社会が受け入れてくれない。

もっと、がん患者の仕事に理解を。最近そういう趣旨の報道が多い(私が当事者になったので気になるだけなのかもしれない)

・・・難しい問題ですね。

日本は今景気が悪いし、日本の社会は「普通」から外れた人に対して不寛容だし、「24時間働けます」という人を想定した仕事のシステムだ。

がん患者は、体調も安定せず、薬などの副作用もあり、定期的に跳梁に寡欲必要があることが多いから、日本の従来の普通の職場では受け入れがたいと思う。

 

もうひとつは、障害を持った人の働き方について。

上記の理由で、障害を持っているとやはり非常に受け入れられにくい。

障害者を雇用してほしい、もっと社会で生きていけるように。と障害を持った側はずっと主張して来たが、ほとんど受け入れられているとは思えない。

乙武氏のように手足はなくとも驚異的に明晰な頭脳と行動力があるようなひとは、その能力で十分仕事ができるのだと思うが、障害と引き換えにそれほどの能力を贈ってもらえることは稀だと思うし、もし有ったとしても自分も周囲も気づけないかもしれない。

私は、一見分からないので、なんとか隠して社会や仕事の場に滑り込んで生きて来た。

その方法がいいとも思わないし、正当だとも思わない。周りに迷惑をかけていると思う。でも、今の日本では、そうするよりほかになかなか生きていくだけ十分な報酬をもらえる仕事に有りつけない。

今のストレスフルな社会で、鬱やその他の精神病に罹患してしまう人がとても増えていて、その人たちの生活をどうしたらいいのか、どうやって働けばいいのか、大きな問題になって来ている。「鬱病であることを申告しただけで、十分働けるのに門前払いだ」という嘆き。尤もだ。差別だと思うし、悲しいと思う。でも、残念ながら「ある日急に休んでしまうかもしれない恐れの有る人」とわかっていて、雇用する勇気と余裕は今の日本社会にはほとんどない、と思う。

だったらどうしろというのか。諦めろ、社会の片隅で消えていけというのか・・・

 

日本は未だ女性というだけで、働きにくい。女性にもっと社会進出を、と叫ばれてどれほど経っていると思っているのか。「青鞜」の時代からなんですよ。

「雇用機会均等法」なるものが成立して、少しは進んだのではないか?ですって?だって雇用「機会」均等法ですよ、雇用条件均等でもなければ、労働条件均等でもない。

門戸は少し開きましょう、というだけ。

未だに、働きたい女性はレジスタンスを続けている、おそらく孤独に。

 

だから、それが良い訳ではなく、全く正しくもないが、「普通」の範疇に入らない人間は、戦って権利を勝ち取る厳しい道しかないのだと思う。今の日本は、「普通」以外に大して本当に酷く不寛容な、余裕の無い社会だから。


孤独を畏れる。

2012-09-02 20:26:46 | 生活改善プロジェクト

********** 思いつき。**************

自分はどうしてこんなに「楽しく仕事したい」ということにこだわるのだろう。

楽しい仕事、というのは、自分の能力を発揮しそれが役に立つと認められていると実感できること、だと思っている。

逆に、苦手なことを失敗を繰り返し、反省したり自己嫌悪に陥ったりしながらそれでも苦手でしかない仕事、ほど苦痛なものはない。

 

思うに、私の得意で能力を役立てられる範囲は、とても狭い。しかし、あまり競合相手は居ないようで(要はニッチな市場)そこにハマると、とても楽しく仕事ができる。

そんな状態になると、仕事以外のことをしたくなくなるので、それはそれで厄介なことになるのだが。

まあ、残念なことにニッチな市場を開拓するのはそう容易ではない。

だからあまり需要は無い、故に私は楽しく仕事ができる場面になかなか出会えない、という仕組み。しかし、私の狭い能力のうちの一つに、諦めず挑戦し続ける、というのがあるので、あちらこちらの職場に漂着しては、自分の需要開拓をし続けている。時々は開拓に成功したりするけれど、だいたいは需要と供給のミスマッチ状態に陥る。

 

こんなことを繰り返しているのは、要するに私が自分自身の孤独を自覚していて、

その孤独を畏れているからだと、思い至った。

人間、みんな孤独だということくらいわかっているし、自分だけが深い孤独に居るなんてファンタジーを、さすがに信じてはいない。

ただ、私自身は、自分の抱える孤独を制御することもできず、忘れることも出来ず、

常に仲良くしているくせに、深く畏れているようなのだ。私はいつも隣に居る孤独が怖い。

だから、私は楽しく仕事がしたい。

 

そこで気がついた。

人一倍孤独を制御できず畏れていることそのものが、私の最強の武器になりうる唯一のものなのだと。

これ以上、私を救ってくれる武器はなかったのだ。

そんなことを、今更気づいた、なぜは、夏の終わりの休日の夕方、アイロン掛けをしながら。

欠点は、最強の武器(となりうる。)あとは努力次第。


嵯峨本プロジェクト

2012-09-02 03:06:35 | art

吉祥寺美術館 モジ もじ 文字 展

前哨戦のような展示を竹尾見本帳でみていた。

世の中の人の関心が、少しタイポグラフィに向いて来ているのかもしれない、と何となく感じている。商業印刷の世界だけでも、もう少し、ことばと文字の関係、タイポグラフィの歴史や背景を踏まえた上でのデザインが増えると、日本のグラフィックは必ずもっと美しくなる、と思う。街中に溢れる商業広告が美しくなれば、街の景色ももっと美しくなるだろう。もう少し知的に洗練されると思う。

モジ もじ 文字 展では、「嵯峨本プロジェクト」がどうしても見たかった。

「嵯峨本」

江戸初期に、京都で行われた出版事業。

角倉素庵が本阿弥光悦、俵屋宗達らとともに日本文学の古典を古活字(木活字)で印刷事業の総称およびのその出版物を「嵯峨本」という。京都の嵯峨に本拠地を置き行われたので「嵯峨本」と名付けられている。

本阿弥光悦の書(能書家として有名、その独特な書体は光悦体と呼ばれる)や俵屋宗達(琳派の画家、デザイナーとして活躍)による美麗な料紙や装丁

そして、古活字で組まれた出版物として、画期的なプロジェクトであり、日本の美しい本を代表するものである。(と、ここまでは私のつたない知識と見解)

以下は、印刷博物館HPより拝借

嵯峨本は、京都・嵯峨の地を舞台に刊行されたことからそう呼ばれています。行・草書体の漢字とひらがなよりなり、表紙・料紙・挿絵・装丁に美術的・工芸的意匠がこらされているほか、2字から4字をつなげて作った木活字により印刷されている点が特徴です。光悦らは、これらの活字を用いて、『伊勢物語』や『方丈記』などの古典文学書を中心に印刷、出版を行いました。ここに紹介する嵯峨本『徒然草』もその一つで、鎌倉時代に吉田兼好によって著された随筆の傑作が版本となっています。慶長中頃に刊行されました。

 

 

この、画期的な印刷プロジェクトを、現代に新しく再現しようとしているのが「嵯峨本プロジェクト」

嵯峨本は、いまではもうその版は残存せず、印刷物のみ現存している。

この現存している嵯峨本の古活字で組まれた組版を、デジタルフォントとして再現し組む、というもの。

デジタルフォントを用いて組版を再現したものから、古活字を彫り、組むという組版模型も展示されていた。(その摺はどうにかならないものだろうか、と思ったのだけれど)

 

嵯峨本の活字がデジタルフォントに!

それだけで、私は目の前がキラキラしてしまう。自分には手が届きそうも無いけれど

そういうことをやってみたい、と学生の頃考えたことがある。私が考えたのは、古活字の復刻と、現代フォントを使ってデジタル組版で「今」の嵯峨本を作りたい、というもので、さすがに古活字をそのままデジタルフォント化する、とは思うも寄らなかったのだけれど。

この「嵯峨本プロジェクト」で作られたフォントは、プロトタイプとして一般には後悔しないということだ。

展示会場でみた

文字組 → 連綿体に変換 → 異字に入れ替え

のようなことを組版システムとしてできるらしい。

この先、このプロジェクトがどう進んでいき、何を生み出すのか

ものすごく楽しみであり、必ずこのフォントを利用したいデザイナーからの実用フォント化の要望が出ると思っている。そして、このプロジェクトの作業そのものが、これから生み出される日本語フォントに、多いに影響を与えると思う。

「ことば」というツールなのか媒体なのか、が社会に於いてどういう意味を持つのか

自らに問いかけている人が増えているように思う。話しことばと文字が、お互いにこれから日本語としてどう変化し何を生むのか、じっと見ている気がする。