ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

「会社組織」を見くびるな

2012-04-19 19:26:01 | 独立起業
経済状況も、実感としてあまり改善しないようですし、
東日本大震災から立ちあがっている、とも言いにくい、本当に困難で閉塞した日本、だなあと感じます。

高度成長期に仕事をしてきた世代の人には想像が難しいのではないかと思いますが
「会社に入って仕事をどんなに続けても、その先に豊かさや幸せな人生を想像できない」
という、全く悲しくなる現実を、今の日本の若者を生きてます。

そもそも、昨日まで技術立国日本、経済大国日本、を象徴してきた巨大企業は
完全に斜陽産業への道をたどっているのです。

大学を卒業して、一流大企業に就職する、というかつて(短い間でしたが存在した)黄金エリートコースは、もはや消滅したといってもよいかと思います。

それでも、就職活動をする学生は、まだそんな現実を見て見ぬふりなのか、名の知れた企業に殺到していますが
その結果、どこの企業にも採用されず、途方に暮れつつその日暮らしの刹那へ転落する若者が溢れてきました。

その一方で、企業なんか、会社なんか信じられない、と見切って
自由業へと踏み出す、ノマドワーカーなんてものももてはやされてきました。

私は、大学を卒業し企業に就職して会社員生活をして、その後中小零細企業を転々として
そして自由業になりました。
いろいろな立場を経験して、身に沁みて感じたこと
それは「本当にいい組織というのは、大きなパワーを持っているから可能であれば、
そういう組織の一員として仕事をすることが自分にとっても社会全体にとっても効率的だ」ということです。

最近体を壊して無職へ転落!の危機にさらされましたが、本当に身近な仕事の仲間が心の底から有難いと思いました。
わずかでも隣の人の役に立っている、という実感が、人生を救ってくれるものです。

ただ、働き方というのは人それぞれ大事にしたいことが違ってくるでしょうから、組織に属して働くことも
一人で働くことも、どちらがよくてどちらが悪いとも一概には言えないと思います。
大事なのは、自分が仕事と人生を通じて何をしたいか、何をしたくないか、なのではないかと思います。
組織に属して働いていると、なんだかその辺が曖昧になりがちです。会社員の大前提として、毎月の給与がちゃんと得られるので、それが自分の仕事と自分の存在の対価であることをうっかり忘れるからですね、きっと。


そんな結論に至った理由を書きます(自分の備忘録でもあります)

○自分ひとりの力というのは、自分で思っている以上に微力

組織で仕事をしていると、自分以外の人の助けを借りたり、組織の看板を背負ったりしていることを
見失いがちになります。
自分が仕事への意欲旺盛で、何かを成そうと頑張っているときほど、自分の力だけで結果を得たような錯覚を持ちます。でも、それは本当に錯覚です。自分の知らないところ、自分には見えないところで、仲間や上司や部下や、経営者が頑張って得た成果を目いっぱい使わせてもらって仕事をしているのが、自分なのです。

そして、みんなお互いに得手不得手をカバーしあって均衡を保っているのが組織です。
自分ひとりになってみると、思い知るのが、自分には出来ないことがこんなにたくさんあったのか!ということ。
そして、それを組織(の仲間)に頼ってきたことを痛感します。

○誰かの役に立っている自分を探す困難さ

自分ひとりで仕事をするのは、成果も失敗も実は見えにくいものです。
「それいいね、助かったよ」と言ってくれる人は基本的にいない、報酬と次の仕事という形で還って来ることもありますが、それすら果たして自分の仕事への正当な評価なのか?という自信の無さを自分に問いかけているようなものです。
組織で仕事をしていれば、すぐ隣に誰かがいて、自分のアイディアを問いかけてみることも、それに対しての評価を得ることも、すぐに出来るのです。疲れて溜息をつけば、気遣ってくれる時もあるし、愚痴を吐けば誰かの耳に入ります(無視されるかも知れませんが)
良くも悪くも、周りの人に影響し影響されて仕事をしているのです。そのこと自体が大きなパワーの源です。
誰かに迷惑をかけることもあれば、誰かの役に立つこともある。自分の仕事の存在を、実感しやすいのです。

○一人でなにもかもをこなすのは非効率的

自分ひとりというのは、自由なようで実はとっても不自由です。
自分をきちんと律しないと、糸も簡単に仕事自体を失ってしまうからです。誰も守ってくれませんし、言い訳をしたくても、誰も聞いてはくれません。
あれもこれも手一杯の時でも、どんな小さな雑用でさえも、うっかりないがしろにすれば、信用と仕事をすぐに失います。その緊張感はなかなかなものです。
自分をコントロールできない意志の弱い人間は、一人で仕事をして生きて行くのは無理です。

○役割分担の功罪

上記の理由から、役割分担はという方法は偉大です。
自分の得手とすることに特化出来れば、こんなに幸せなことはありません。
ただし、組織の都合と自分の能力の兼ね合いはいつもちょうどいい具合にはいかないので、自分の得手としないことを分担しなければならなかったりします。

そして、たとえ自分の得意とすることであっても、その分担が固定化すると窮屈です。

だから人事って難しく重要なものなんだと思います。

不得手なことを担って苦労しているうちに、意外な自分の可能性を発見することもありますが、それはやはり自分の力だけで能力を開発したわけではなく、人に発見してもらったり伸ばしてもらったりしているものです。
苦手なことを自分に課して一人でもがいているだけでは、克服できません。
他者からの視点や、発見、指摘がとても大事です。



もはや昨日の大企業には、この先の明るい発展と成長が無条件に用意されてはいないことは、はっきりしました。
ただやみくもに大企業一流企業をめざすのは、今やあまり賢い選択ではないと思います。

これから、自分の力を試してみよう、と一人で働くことを目指す方は、是非佳き経営者を目指してほしいと思います。
今の社会にはまだ無かったり、不足していたりする分野や、自分はこれが得意で腕を生かしたい、という分野がある方は、ぜひ沈みゆく巨大戦艦なんかにしがみついていないで、一人で漕ぎ出してほしいと思います。

そういうふうに新しい視点の産業を生みだして行かなければ、もう日本は立ち行かなくなるだろうと思います。

一人で漕ぎだす方は、ずっと一人でいないでください。
是非仲間を集って、いい組織を作ってどんどん仲間を育て自分も育っていくべきだと思います。

ただし…経営者も、長くその位置に居ると、一人で出来る限界を痛感した昔の一人ぼっちの自分を忘れてしまうようです。
自分自身の中で、経営で頭を痛めている自分ばかりが肥大して、なにもかも自分で成し遂げてきた、自分が社員の面倒を全面的に見ている側だと、これまた錯覚してしまうことがなんとも多いのです。
どんな優秀な経営者だとしても、最初の出発点は、自分ひとりの無力を痛感して悩んだはずです。そしてそれを助けてくれる仲間を集めてこれたから、今の大きな自分(の組織)になっている。

一人では出来なかったあんなこと、こんなことも、仲間が集って出来るようになったという経験を忘れずに居られる経営者が、自分も組織も仲間もそして社会も、そして自分の人生そのものを大きく出来るのだと思います。

これから、社会に出る人たちへ
自分の力を信じて、自分の努力の可能性を信じて、何かにぶら下がることなく自力で仕事をみつけてください。
そして今の閉塞した日本を変えてください。
ただし、一人気ままにこじんまり自由にやろう、なんて、ただの甘えです。
大きなうねりになるべきです、仲間をかき集めて、巻き込んでみんなで大きくなる。

私も、まだそれを目指します。(気持ちだけは)


裁判員制度は、木嶋裁判でひとつのハードルを越えたのか

2012-04-17 20:24:32 | 日本文化
注目の裁判の一審で判決が出ました。
東京・千葉・埼玉での殺人事件、木嶋佳苗被告者の裁判です。

私も個人的に、判決の行方に興味を持っていました。
死刑判決が出るかどうか、という点です。
結果的に死刑の判決が出たことに、私は違和感を持ちました。

この事件は発覚時から、センセーショナルに報道されてきましたし、
次々と暴かれる木嶋被告の私生活も好奇の目にさらされました。

この裁判が注目されたのは
その犯罪と被告個人への好奇心からだけではなく

裁判員裁判で死刑が求刑されることが確実視されていたこと
3つの殺人事件とその背景を解き明かす為に、100日という裁判員裁判としては異例に長い期間が設定されたこと
直接的物証が挙げられていないにもかかわらず、死刑かどうかの判断が裁判員に問われること
被告は3つの殺人容疑について、無罪を主張していること

様々な異例が揃った裁判だったからでした。

結局、第一審のさいたま地裁の判決は死刑、となりました。
木嶋被告は控訴しています。

私の、この裁判での死刑判決への違和感は
よく問題視されている一般市民から選ばれる裁判員が死刑を言い渡すことは重すぎる、ということではありません。

裁判員が死刑判決も言い渡す重圧は、今の日本社会に必要な責任分担ではないかと考えます。
法治国家として裁判で犯罪を裁くことで、犯罪を抑止している仕組みを持つ社会に暮らす以上
同じ人間同士で、裁く側裁かれる側になることは避けらないことです。
誰かが裁かなければならないのであれば、その誰かが自分かもしれない、という責任感と緊張感は誰もが持つべきだと思っています。

日本はこれだけ凶悪な犯罪が増えているのですから、誰かが取り締まってくれるはず、
誰かが社会を、自分を守ってくれるはず、という
なんとなくぼんやりとイメージする「お上」のような権力や権威をもった誰か?を想定する
今やもうそんなのんきな社会ではなくなっていると思います。

私が感じた違和感というのは…
直接的な物証がないにもかかわらず、市民が有罪と判断したことです。
裁判という正式な手続きと、法律に乗っ取った検証がされていたことには違いないのですが
どこか、魔女裁判のような、見えない社会からの空気の圧力のようなものに流されて出た判決のように感じたからです。

この判決は、本当に提出された証拠や証言だけに基づいて、導き出されただろうか?
裁判で争われた証拠は、裁判員が判断の材料とするものとして十分に積み上げられたものだったのだろうか?
疑わしきは被告人に利益に、と教科書で習った裁判の大原則は守られたのだろうか?
いかにも現代社会の歪みを顕わにしたようなこの事件の背景から導かれた犯罪、この種の犯罪を社会は許すまじ、
というとうに失われてしまった道徳規範をより強固に思い出させるための旗印の役目を負わされてはいないだろうか?

そんな疑問がぬぐえないのは、やはり裁判員裁判であったから、だと思うのです。

私も、木嶋被告が裁判で自ら語った生きざまや価値には憎悪を抱きました。
でもそのような感情は、法廷の外で繰り広げられていた下世話な報道や、木嶋被告の姿などから喚起されてることは否めません。

木嶋被告に嫌悪感を感じる、健全な市民である私。
健全な市民である、裁判員の出した、日本の善意のような判決。
もし私が裁判員であっても、この判決を選んだだろうか?この判決を選ぶ道しか用意されていなかったのではないか?

たまたま裁く側に立たされた裁判員の間で、真摯に知的で論理的な議論が交わされて
その結果の致しかたない死刑であり、その結果を出すことに善良な市民が傷ついている、という構図に

どことなく、作られた物語のような分かりやすさを感じます。

抽せんで選ばれることが大原則の裁判員というものは、善良で、知的で、人を裁くことに真剣に向き合う人ばかりなのだろうか?
そんなに、現実の日本社会は健全なのでしょうか?

この裁判に臨んだ裁判員の方々には全く悪感情は持っていません。

ですが、結果を見ると、巧妙に仕組まれた構図が見えるような、誰かが書いた設計図通りに導かれた結果のような
薄気味悪さがじわじわと湧きあがるのをを禁じ得ません。
そんな気味悪さは、どこまで行ってもグレーでしかないことがどこで黒と線引きされたのか、その過程が隠されているからだと思うのです。
市民が判断するという新しい裁判は、そこを暗黙の了解にできない仕組みになりました。
それは社会全体としての市民の成熟度を求められてると思うのですが、今回はその答えが出ていないと感じます。

木嶋被告は控訴したので、控訴審が開かれます。
その際には、捜査で得られた状況証拠のみをどのように判断することで、殺人の立証となり得たのか。
殺人しかあり得ないという判断の論拠は、殺人とは別の被告の素行悪行から類推することによって正解を導き出しているのか。
第一審ではブラックボックスになっている部分を、明快に説明してほしいと思います。

裁判は人が人を裁いているのですから、見えざる手によって操作されているかもしれないという
気味悪さを持っていてはいけないと思います。

できれば、その作業は一般市民である裁判員にしてほしかった、少し残念に思います。