ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

黄金町バザール2012 町が背負う記憶

2012-10-28 20:36:43 | art

10月19日~12月16日まで

横浜京浜電鉄「日ノ出町」から「黄金町」一帯の町を挙げて行われる

アートフェステバルです。

パスポート500円を購入し、それがあちこちの展示会場の入場券となります。パスポートは期間中有効。

「黄金町バサールは横浜市の初黄/日ノ出町地区で地域のまちづくりに取り組む「初黄/日ノ出町環境浄化推進協議会 と黄金町エリアマネジメントセンターが共同で開催するアートフェスティバルです。第5回目となる「黄金町バサール2012」ではまちの景観やまちの活動と関係を結びながら展開するさまざまなアートの形をご紹介します。作品展示の他、参加型のワークショップやトークイベント、多様な角度からまちの現在を捉え、豊かなまちの将来を考えるきっかけとなることをめざします。」

以上「黄金町バサール2012」カタログより

 

この紹介文から、十分察することができるけれど、このまちの歴史は暗い。

戦後の混乱期、GHQの支配により行政機関が立ち入る事が難しくなり、闇市が立ち並ぶと同時に麻薬と売春宿が密集し、関東一の青線地帯と言われた。

ごく最近まで、風俗街として在ったが、2005年に横浜市が一掃に着手、そして新しい町への変貌を、アートや若いアーティストへの支援に求めている。

実際訪れてみると、うっかり大岡川を渡った先にはごく普通の街の中に風俗店がいくつもある。昭和の香りが漂う崩れ落ちそうな長屋アパートや怪しげなビルもある。

しかし大岡川の河岸は遊歩道に整備されて、とてもこぎれいになっているし、小さなアパートの店子にアーティストのアトリエや可愛いカフェがあって、そういう目で見ると発見がたくさんあって楽しい。

私自身が、町のもつ暗黒の歴史に興味があるので、特に違和感無く、楽しく見て回ることができる。東京や大阪などの大都会のだいたいの町には、大なり小なり大きな声では言いにくいような歴史を持つ。今はすっかり過去を消し去りスタイリッシュ一辺倒の町よりも、未だに歴史を引きずっている町を愛しく思うのは、私自身が、そういう歴史とはあまり縁の無い札幌市で生まれ育ったせいだろう。

吉原も山谷も、浅草のはずれも、同じような歴史を背負い、似た香りを発している。

 

 

建築ユニット「みかんぐみ」が、この都市再開発に、関わった経緯も興味をそそられる。京急高架下文化芸術活動スタジオ黄金スタジオは「みかんぐみ」の曽我部昌史氏の神奈川大学曽我部研究室が設計している。曽我部氏の活動は、越後妻有の農村の再開発(農家の改修)で知られるとおり、地域や町そのものを巨大展示空間として位置づけ、地域に根付く再開発を建築アートとして構築している。私は、土地には歴史と情念のようなものが息づいていると思うので、そこに新しい建造物や新たな生活圏としての新生地域を造るという活動は魅力的に思う。

 

 

 

さて、この黄金町バサール、友人のアーティストが長期レジデンシー作家として滞在し参加している事で知った。

Robert Gutiersz アメリカに拠点を置くフィリピン人アーティスト 

彼のアートの分野はPaintingだという事だけれど、今回の作品もインスタレーション的だね、と言ったら、でも瓶にペイントしている、と切り返された(笑)

なかなかクールでカッッコいい作品。

会期はまだあるし、会場は広い、日曜日には待ち歩きガイドをしてくれるので

もう一度行ってみるつもり。

 

 

 


嵯峨本プロジェクト

2012-09-02 03:06:35 | art

吉祥寺美術館 モジ もじ 文字 展

前哨戦のような展示を竹尾見本帳でみていた。

世の中の人の関心が、少しタイポグラフィに向いて来ているのかもしれない、と何となく感じている。商業印刷の世界だけでも、もう少し、ことばと文字の関係、タイポグラフィの歴史や背景を踏まえた上でのデザインが増えると、日本のグラフィックは必ずもっと美しくなる、と思う。街中に溢れる商業広告が美しくなれば、街の景色ももっと美しくなるだろう。もう少し知的に洗練されると思う。

モジ もじ 文字 展では、「嵯峨本プロジェクト」がどうしても見たかった。

「嵯峨本」

江戸初期に、京都で行われた出版事業。

角倉素庵が本阿弥光悦、俵屋宗達らとともに日本文学の古典を古活字(木活字)で印刷事業の総称およびのその出版物を「嵯峨本」という。京都の嵯峨に本拠地を置き行われたので「嵯峨本」と名付けられている。

本阿弥光悦の書(能書家として有名、その独特な書体は光悦体と呼ばれる)や俵屋宗達(琳派の画家、デザイナーとして活躍)による美麗な料紙や装丁

そして、古活字で組まれた出版物として、画期的なプロジェクトであり、日本の美しい本を代表するものである。(と、ここまでは私のつたない知識と見解)

以下は、印刷博物館HPより拝借

嵯峨本は、京都・嵯峨の地を舞台に刊行されたことからそう呼ばれています。行・草書体の漢字とひらがなよりなり、表紙・料紙・挿絵・装丁に美術的・工芸的意匠がこらされているほか、2字から4字をつなげて作った木活字により印刷されている点が特徴です。光悦らは、これらの活字を用いて、『伊勢物語』や『方丈記』などの古典文学書を中心に印刷、出版を行いました。ここに紹介する嵯峨本『徒然草』もその一つで、鎌倉時代に吉田兼好によって著された随筆の傑作が版本となっています。慶長中頃に刊行されました。

 

 

この、画期的な印刷プロジェクトを、現代に新しく再現しようとしているのが「嵯峨本プロジェクト」

嵯峨本は、いまではもうその版は残存せず、印刷物のみ現存している。

この現存している嵯峨本の古活字で組まれた組版を、デジタルフォントとして再現し組む、というもの。

デジタルフォントを用いて組版を再現したものから、古活字を彫り、組むという組版模型も展示されていた。(その摺はどうにかならないものだろうか、と思ったのだけれど)

 

嵯峨本の活字がデジタルフォントに!

それだけで、私は目の前がキラキラしてしまう。自分には手が届きそうも無いけれど

そういうことをやってみたい、と学生の頃考えたことがある。私が考えたのは、古活字の復刻と、現代フォントを使ってデジタル組版で「今」の嵯峨本を作りたい、というもので、さすがに古活字をそのままデジタルフォント化する、とは思うも寄らなかったのだけれど。

この「嵯峨本プロジェクト」で作られたフォントは、プロトタイプとして一般には後悔しないということだ。

展示会場でみた

文字組 → 連綿体に変換 → 異字に入れ替え

のようなことを組版システムとしてできるらしい。

この先、このプロジェクトがどう進んでいき、何を生み出すのか

ものすごく楽しみであり、必ずこのフォントを利用したいデザイナーからの実用フォント化の要望が出ると思っている。そして、このプロジェクトの作業そのものが、これから生み出される日本語フォントに、多いに影響を与えると思う。

「ことば」というツールなのか媒体なのか、が社会に於いてどういう意味を持つのか

自らに問いかけている人が増えているように思う。話しことばと文字が、お互いにこれから日本語としてどう変化し何を生むのか、じっと見ている気がする。


タルコフスキー再び

2012-08-05 23:04:39 | art

渋谷ユーロスペースで、パンドラ配給の「タルコフスキー生誕80周年記念映画祭」

8月4日から始まりました。

A.タルコフスキーは、熱烈なファンがいる監督、寡作ですが美術史に燦然と輝く美しい映像なので、芸術関係者、愛好家にとっては、必見のもの。

時々、このような形で集中的に公開されてきました。

4日の初日に「ノスタルジア」、今日「サクリファイス」「惑星ソラリス」と3本観ました。これからまだ観ますが。

どの作品も、私自身過去に1回以上は観ています。学生時代に一度観てずっと見ていない作品もありますが。初めて見たときの鮮烈な印象を忘れることができません。

こんな美しい映像が、こんな暗示的な詩や場面が、こんな俳優のアップの表情が・・・

と驚きました。おまけに「能」上演を観るときによく似た睡魔への誘いも。

 

久しぶりに観た、タルコフスキーの世界は、若い頃の衝撃とはまた違った感情を沸き立たせるものでした。歳を取るって、こういうことなのか。と一人ごちたりしました。

どの回もかなり込んでいて、若い女性が一人できている姿が多かったのが印象的でした。圧倒的に男性好きのする作家だと思っていたので。一人で、渋谷ユーロスペースに古い映画を見に来るきれいで若い女性、がたくさんいるのは、ちょっと嬉しいことです。

 

今改めて発見したこと。

水の表現の美しさは言わずもがなですが、特に美しいのは汚れて淀んだ水、本来なら汚いはずのものをこの上なく美しく表現できるのだと言うこと。

若いときにはその手法や映像美ばかりに目がいきましたが、今観ると、この監督は人間を、人間だけをナイフでえぐるように描いていたのだと言うこと。

女性への視線が固定的だということ。タルコフスキー自身の母親への葛藤からでしょうか。女性という存在に対してかなり硬直的なイメージで描いていますね。

女性を憎み女性を愛した人生だったのかもしれないなと思わせられました。

タルコフスキーの映画は、その哲学的、詩的、極限まで追求する美的なところに魅力を感じていましたが、とても人間をを愛し、人との関係の構築に苦しんだのだということを、今は読み取ることができました。

そして私自身を振り返り、そこまでの他の人間への愛がないことに気づかされました。

その差異には、時代、国や民族性、文化、の違いがあるはずですが、芸術というのは人間をとことん愛せないとできないものなのだと、思い知ったような気がします。もちろん愛と憎しみは表裏一体。

 

最近、私はちょっとセンシティブなのかもしれません。

かなりこの3作も胸に迫るものがありました。最も好きな「ストーカー」を観たときは何を感じるだろう、ちょっとドキドキします。

先日の、PMFコンサートのブラームスとR.シュトラウスといい、全身がざわざわとする感動を味わうこのごろです。

 


クリスマスに聴きたいクラッシック。だって。

2011-12-24 11:07:45 | art
クリスマスイブイブの23日

ツイッターのタイムラインを眺めていたら
クラッシック音楽のインターネットラジオ番組を見つけました。

インターネットラジオ OTTAVA オッタ―ヴァ
http://ottava.jp/

フォローしているMUJIのアカウントから、MUJIがスポンサーでした。

昨日は、クリスマスに聴きたい音楽リクエスト特集、メールでもツイッターからでも参加してね♪
ということだったので、リクエストをしました。

様々な方がクリスマスらしい、と思っている様々な曲が流れて
なるほどね~、こういう曲なのね、と人の価値観や趣味を垣間見た気がして面白いと思いました。
私のリクエストでOAしてもらったのが、

・マーラー交響曲第五番 アダージェット

・サンサーンス交響曲第三番 二楽章

ラジオでリクエスト曲が採用されてOAされる、聴いた方の感想コメントを読めたり
とういのも楽しい体験でしたが

このところあまり音楽に接していなかったので
久しぶりに聴いた、自分の好きな曲、でとても心が揺さぶられました。

私は、精神的に落ち込んでいるときには、どんな好きな曲も心を荒らす騒音にしか聞こえない
心を落ち着けようとしても、音楽を受け付けなくなります。

そういう経験を何度もしているので
改めて、「自分が好きなはずの曲」を聴いて
懐かしく、そして初めて聴くような高揚感さえ得られるなんて
今の私はきっと元気なのだ。

時に、この二曲のような、メロディアスで感動的に盛り上がる曲聴いていたら

震災の時の恐ろしい映像が蘇ってきました。
そして、こんな出来事があっても、時間は容赦なく過ぎるもの
でも時間が過ぎてもうクリスマスの季節になる、そういう時間が経つからこそ癒えることもあるかもしれない
という気がしてきました。

イブの今日、自分のCDを引っ張り出して全曲通して聴いてみました。

ああ、音楽っていいな。

今は便利にYouTubeで聴くことが出来ます。
クラッシックに興味のない方も、ちょっとだけどうぞ。
意外にイイと思う。

マーラー交響曲第五番 第四楽章
http://www.youtube.com/watch?v=cz2ZByOq6YU

サンサーンス交響曲第三番 第二楽章
http://www.youtube.com/watch?v=Hmo30e15Bzg&feature=related

ほかの方がリクエストして、マーラー二番、五番が続けてOAされました。
この曲もクリスマスにふさわしい、敬虔な祈りの曲です。

マーラー交響曲第二番「復活」
http://www.youtube.com/watch?v=_wnT3lKydrQ&feature=related

クラッシック音楽のライブ それもトゥランガリラ交響曲。

2011-10-23 17:41:54 | art
テレビでN響アワーを観ていたら、
なんとこの秋のN響定期演奏会で
「トゥランガリラ交響曲」アンドレイ・プレヴィン指揮 
というプログラムを発見。

貧乏なので滅多にライブには行かない私ですが、これは聴きたいな、と思い

滅多に行かない渋谷までのこのこ、NHKホールまで行ってきました。

この曲はクラッシックのなかでも、現代曲の部類に入るし、なにせ1曲で80分と長いし、人気曲ではありませんから、ライブのプログラムにはなかなかなりません。

土曜日の午後、若者で混んでいる渋谷を通ってNHKまで。

お客さんはほぼ満席でした、老夫婦が多いのでビックリ。

結構多いかったんです老カップル。
それも、会話らしい会話をしていないから、絶対ご夫婦。
ご夫婦でこの曲のコンサートか…どんなご夫婦なんだろう?興味あります。

この曲は、10楽章まであります。
約80分、の休憩なしです。

人間ですから、演奏者はともかく、聴いている方としてはずっと緊張感を持って集中して聞くのはムリ。

初めのうちは、ところどころ眠たくなったり、大音響に起こされたりしなががら、

曲を聴いているのですが、慣れてくると視覚からの情報も面白くなってきます。
指揮者はご高齢のため座ってるし。指揮台の前にピアノがあるのでほとんど見えません。

弦楽器の弓の上げ下ろしや、管楽器の揺れ具合で、どのパートがどの音を出しているのかが見えてくる。
曲の骨格が視覚情報からはっきりしてくるんですね。
そうすると、あっちのパート、こちらのパート、打楽器奏者やソリストの動きを追うのが忙しくなってきます。

そのうちそれにも疲れてきて、観ていて聞いているんですが、頭の一部分で全然関係ないことを考え始めます。

夕ご飯何食べよう、とか、毛糸を買いたいな、とか。

変なことを考えつつ、耳で聴いて目でオケの動きを追っていると
目の前でライブ演奏をしていることが、夢かうつつか不思議になってくる、おかしな感覚に陥ります。

そうこうしているうちに、オケも指揮者も曲にのってきて、
演奏自体が盛り上がってきます。
9楽章で、演奏者の熱気と緊張感が伝わってきて、こちらも興奮気味に。

10楽章でフィナーレで爆発して、最後の音は背中がゾワっとしました。

弘法筆を選ばず…空海と密教美術展

2011-09-03 10:18:23 | art
台風接近で、不安定なお天気。
この展覧会もとても混んでいるとの情報を得て、こういうお天気を狙っていかないと!と
行ってきました。
会場は入場制限はしていませんでしたが、やや混み状態。
ゆっくり見られる、というわけでもなく、人気の展示品は人の頭越しに覗き見る感じです。

前半は、空海の自筆の書が並びます。
伝空海だけではなく、空海筆、もあり、見応えがあります。


空海筆の書を見ていたら不思議な感覚へ陥りました。
~8世紀頃に生きていた人がいて、現代人と同じ言葉を話したり書いたり
この漢字の文章は8世紀に書かれているのに、21世紀の私が読むことが出来る。
漢字だから書かれている意味も少しわかる。

1200年の時空を越えて、偉業を成した人と今私が共有しているものがある、
という不思議な感覚を覚えました。
そこに記されている

書が美しかったから、だと思います。

空海が唐から持ち帰った仏具や経典
その目録など

高野山や東寺所蔵の、密教資料
そう、両界曼荼羅図(血曼荼羅)がありました。
迫力がありましたが、当時のもっと鮮やかな色彩で観る迫力はいかばかりだろう?
とかなり経年変化が激しい(当然)実物を見て思いました。

それにしても℃の資料も表具や修復の見事なこと。
特に修復はどれも緻密で美しく修復されていることに感動しました。

そのあと、空海滅後の密教資料

そのあとにいよいよ仏曼荼羅
東寺の立体曼陀羅の仏が配置されて、その間を縫って歩ける(360度見られる)
まるでテーマパークです。

私は持国天立像に魅せられました。
恐ろしいという感情は全く受けません、ただ美しいと思いました。
とても静かな静的な印象を受けました。

このテーマパーク展示?回遊式?はとても楽しい展示でした。
展示最後のフィナーレというところも、憎い感じです。

密教と美術の密接な関係を実感できました。

私は漢字(書)の美しさ、意外と自由奔放さが心に残りました。





おわらないアトリエ

2011-07-29 21:13:30 | art
「忘れっぽい天使」という鉛筆の線で描かれた、可愛らしい天使の絵を好きな方、多いのではないでしょうか?
私も初めて見たときから、そのかわいらしさと線の力強さにとりこになりました。

一筆書きのようにシンプル線で、一見子供のいたずら書きのようにくっと描かれているのに
それはそても美しいバランスの造形で、簡単な線がこんなに饒舌なのか、と驚かされます。

クレーの展覧会はこれまでも東京で開催されるたび違うテーマや切り口で、紹介されてきました。

7月31日で終了の、
国立近代美術館「パウルクレー おわらないアトリエ」展

は、国立美術館では初めてのクレーの展覧会だそうです。

「おわらないアトリエ」というテーマの通り

その、創作過程や手法に注目した構成の展覧会でした。


○アトリエの中の作品たち

クレーのアトリエを飾っていた絵に焦点を当てています。
クレーにとって、アトリエ自体が一つの作品のように
綿密に計算されて、自作の絵を選び飾って作られていたことが分かります。

クレーの絵の不思議な空間の描き方を考えると、構造物としての強い空間に意味があったのでしょう。
空間を描くいた絵がたくさんあります。

○油彩転写の作品



素描から、油彩転写の手法を使って油絵にした作品を
素描と油彩転写の作品を並べて、展示してくれています。
素描の印象と、油彩転写になった時の印象の違いが鮮明です。
クレーの線と色彩がいかんに共鳴しているのかがよくわかります。

油彩転写の線の汚れやにじみを生かした表現が、独特のファンタジックさの味わいを生んでいることが
分かります。

○切断・再構成の作品
○切断・分離の作品



切断やその断片を回転したり再配置して新しい表現を模索した様子が紹介されています。

なぜ、わざわざ絵を切断して再構成する必要があったのか。
絵を見ながら考えました。

自分の絵を、完成品ではなく新たな素材として捉えなおして、それをモチーフに切ったり動かすことで
無意識、形而下の作品を生み出すことをしているのだろうと思います。

それは、私たちが(デザイナーが)、PCで画像処理して作品を作る作業に、きっと近いのではないかと思います。
たとえばDJがレコードを使って、新しい音楽をつくるのと根本的には同じなのではないかと考えました。
そう考えると、クレーが作品の一部を切り取って、そこだけを新たな作品にした意味がよくわかります。
クローズアップだったり、切り取る前の作品には表れていない形而下の意味を見いてしているのだ、と。

○うら・おもて両面の作品

なぜ両面に作品を描いたのか。
この展覧会の説明だけでは、私としてはまだ謎です。
「両面に作品を描くことで、時間的、物理的3次元4次元の意味を持つ」という説明ですが
それは、今結果としてそのような意味を見出すことは可能ですが
クレーの意図は分からないままです。

○特別クラスの作品
後世や世の中の評価とは別の、クレーにとって大事な作品があった
それを画家本人がわざわざ分類していたことを知りました。
クレーの大事にしていたモノ、が垣間見られる作品です。


今までとは少し違った角度でのアプローチを試みた展覧会。
「忘れっぽい天使」だけではないクレーを知ることが出来ます。

やはり線の印象深さと、色彩で表現される異次元につながっているかのような空間表現が
印象に残りました。

アトリエの中の作品たちのコーナーに「少女の裸体」という絵
具象画ですが、そぎ落としたタッチで光と影を描いてている
クレーの画家としての力量を感じる印象深い作品でした。

白井晟一展@パナソニック電工ミュージアムで受けた衝撃

2011-03-27 16:16:34 | art
今日までだった。
お昼ころになってしまったが、入場すると、う~、混んでいる。
混んでいる美術展は、好きじゃない。

このところ、最終日駆け込みの展覧会が続いている。
単に私がグズグズしているからだ。
本人は少しの自覚しかないけれど、子供のころから「お前はグズだ」とよく言われた。
屑じゃないです、念のため、愚図です。

とにかくグズグズしていたら最終日に駆け込む羽目になり
ゆっくり見られなかったのはとても残念。

精緻な製図や、パース図に魅入りながら、
親和銀行東京支店は、何も知らない頃、実際に見た記憶を思い出した。
もう壊されてしまっている。
悲しことだ。

当時、なんだかすごい建物だな、と思った鮮明な記憶がある。
実際の建築物は 無知な通りがかりの女の子の目にも焼き付くほどの迫力だったのだろう。

原爆堂計画のコーナーで、ものすごい衝撃を受けた。
原爆のすべてを物語る、建築物だ思った。
こういう造形を生みだした白井晟一は、確かにすごい。

現実に進行中の核の恐怖と相まって、さらに衝撃が大きかったのかもしれない。

モノリス…も思い出した。(2001年宇宙の旅)

そんな衝撃のなか、とても気になったのが
親和銀行や、原爆堂の モニュメントの書体フォントの美しさだった。

オールドローマン体であることは分かった。
…パペチュアだろうか?

建築の直線と曲線の対比の様子と、この書体はものすごく共鳴しているように思えた。

書に造詣の深い建築家であるから、恐らくタイポグラフィにも造詣が深かったのだろう。
ドイツに留学しているから、尚更だろう。

墨で書かれた書と、タイポグラフィ。
文字というのはなんて美しいのだろう。そう思った。

写真は、浅草に現存する慈照寺(白井設計)


琳派芸術@出光美術館 第一部

2011-02-06 23:05:01 | art
家に籠りがちで
ずっとインプットを怠っていたので、久しぶりに、どうしても観たいと思った展覧会をを訪れてきました。

とても好きな琳派の展覧会

琳派芸術 光悦・宗達から江戸琳派 @出光美術館
第一部 煌めく金の世界 

二部構成で、今日が一部の最終日だったし日曜で、混んでいました。
うーん、人の頭越しに展示ケースを覗き見る、というチョッと私が嫌いな状態。

出光美術館は、丸の内のオフィス街、出光興産の本社ビルの9階にある、日本美術に長けた美術館。
あまり広くはないのですが、国立博物館みたいに大きいと、疲れてしまって
この30分くらいで観られるコンパクトさが、私は好きです。

見終わった出口の先に、広い窓から皇居が見える休憩スパースがあって、その景色も開放感も好きです。


光悦・宗達のコラボレーションは、江戸時代当時はとても斬新で先端の尖ったデザインなのだと思います。
今みても、そのデザイン性に学ぶことが多くて、飽きません。

金銀箔や泥を存分に使いこなしていることも琳派の特徴ですが、
いつも思うのですが、今見るものは皆銀が焼けてしまっていて、黒く見えるのです。でもこの絵が描かれた当時は目映い銀色だったのでしょうから、絵の印象は全然違ってみるはず。

金箔の背景に秋草が描かれた屏風には、黒々涙した(銀泥?箔?が泣いているので)半月が描かれています(銀泥だから黒くなっちゃったのです)あの月が、銀色だったら絵の印象もがらりと明るいはず。
そしてどうしてぼってりとした半月なのか。


 
目映い金箔の屏風は、どのような空間を演出したのか。
とても京都的なこのしつらえ(屏風や襖絵)は、明るさも今と違う当時の屋敷で、どのように観られていたのかしら。

でも、私は日本画の緑色が好きです。
紅白梅図の曲がりくねった幹に描かれた苔が、なぜかとても好き。
緑青に、心が惹かれます。



この美術館で陶磁器を見るとき、いつも思うのは
阪神淡路大震災で破損の被害が出た「バウアー/コレクション」のこと。
そして、どの美術館よりも厳重にテグス固定をされている展示品のこと。
今回も、尾形乾山の陶器が何点もありましたが、とても厳重に固定されていました。
バウアーコレクションのとても端正なフォルムの磁器が破損したことを知ったときは、本当にショックでした。
学芸員の方もそうだったでしょう。
  
久しぶりの美術館で、私の、頭?心?の中のいつもと違った箇所をが刺激されて、今日はいい休日。
やはり刺激やインプットは必要なのですね。


晩夏の選曲

2009-09-07 22:46:11 | art
山梨県北杜市で行われた、ヴァイオリンリサイタルへ
行ってきました。

北杜市って、どんなところだろう?
山梨県に行くのは久しぶりでした。

新宿駅で特急「かいじ」に乗り込んでワクワク。

甲府から、各駅停車に乗り換えて、長坂駅へ。
わー、なんて懐かしい感じののんびりした山間の駅

ヴァイオリンリサイタルは
「カナダからの贈り物」

ヴァイオリニストのマヤ・フレーザーさんはカナダ人のお父様をお持ちです。
ピアノのアンジェラ・パークさんは、カナダからつい二三日前に来日されたばかり、とのこと。

ラベルのピアノソロ
組曲 鏡 より

ヴィヴァルディ 四季より 夏

ドビッシー ヴァイオリンとピアノのためのソナタ

ヴォーン・ウィエリアムス グリーンクリーブスによる幻想曲
             揚げひばり

うーん、夏の終わりに、ラヴェルやドビッシーの透明感はとても似合います。

ピアノとヴァイオリンの掛け合いが美しいドビッシーのソナタ。
どちらのアーティストも、消え入るような細密な音が折り重なって
それまでざわざわしていた会場も、ピンと張りつめて静かなったくらい。

揚げひばり という曲は、はじめて聴きました。
なんて、素敵な曲。20世紀な旋律ですが、難解ではありません、心地よい境地に誘ってくれる曲、お二人の個性に合っていたのではないかしら。

早い時間から始まったので、終わってホールを出てきてもまだ薄暗いくらい。

ヒグラシが鳴いていました。

空がきれいでした。