ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

絆ばやりに、ちょっと違和感を感じる。

2011-12-30 15:54:45 | 生活改善プロジェクト
私の頭の中は、昨日の続きを延々考えています。

今年の言葉は絆。
家族の大切さを多くの方が実感したということで、結婚するカップルも増えているらしいですね。
クリスマスも我が家でクリスマスケーキを囲む、団欒が好まれたらしく
クリスマスケーキが売れたと聞きます。

家族の絆かあ…

私にはどうも引っかかるものがあるのです。

家族とか親子とか夫婦とか、世の中を構成する最小単位、いわば基本です。
自分の親や子供や夫や妻を大切に出来ない人が、社会的に大きなことを成し遂げようとすることに
無理があるのも分かります。

幸せは毎日繰り返される普通の日常の中にある、と私もしみじみそう思うのです。

ですが、家族や身内の絆がもっとも大切なこと、という空気に危ういものを感じてしまいます。

社会というものは、多くの人が若干の我慢や犠牲を
差し出しながら成り立つものだと思います。
人の価値観や考え方は万別で、すべての人が思い通りになる人間社会はあり得ないし、
誰かだけが大きな我慢を強いられ犠牲になる社会も、歪んでいると思います。

みんながすこしずつ、納得いかなくて、我慢して、何かをみんなの為にさしだして
初めて社会が成り立つはずです。

そういう社会で、身内や家族という最小単位の人間関係が
一番大事で、最も優先されるべきことで、
愛する人を守るためなら、形振り構っていられない、と多くの人が思っていたら
社会は壊れるような気がするのです。

私は個人的に家族というモノに重きを置いていなくて、最小単位は自分、家族といえども他人の一人
と思っているので、若干クールさが極端だとは思います。

でも、社会全体の風潮が、人間関係が濃い人とだけ更に密接につながって行こう
となってしまたら
人とのつながりはどんどん狭く濃くなり
排他的になり
自分と異なるものを受け入れ難くなり
ナショナリズムを形成するだろうと思います。

私と考え方の違うあの人とは分かりあえないし、関係ない。
私と生きている環境や育った境遇の違うあの人は、理解できない。

そうなった社会は、結局窮屈で冷たい。

家族のいない人は、誰とつながればいい、誰との絆を心の支えにすればいいの?


ネットの発達で、国も宗教も違う人と、簡単に出会えて、つながろうという意思があれば
広範囲の人と繋がれるチャンスが出来ました。

SNSで、掲示板で、ブログで
顔も見たことがない人と、会話が出来、友達になるチャンスが出来ました。


私は、そんな顔も知らない人たちとの繋がれるチャンスが嬉しい。
そんな出会いを大事にしたいと思います。

私の生きている生活圏にはいない誰かと、ふとしたのきっかけで生まれる会話
そこから生まれる絆を育むことを、大事にしていくことが
大らかで、価値観が違う人同志が認め合っても生きやすい社会の始まりなのではないかと信じています。

今年だから、家族の絆を温めるんじゃなくて、むしろ見知らぬ人と繋がりたい。

2011-12-29 18:47:01 | 日本文化
今年の仕事も終えて、年末恒例の大掃除をしています。

台所の油汚れを、ゴシゴシ拭き、居間の家具や床拭き、溜めこんだ書類の整理、窓ふき…
とひたすら手と体を動かしますが、
あまり考える作業でもないので、考え事をするのにとてもいいのです。

今この時期に考えること、といえば

今年一年を振り返ること。

いろいろな事を思い出しましたが
今年一番大きな出来事は、やはり私にとっても多くの人と同じように
東日本大震災でした。

地震当日の混乱のこと
テレビやネットで何回も見て、その度に心潰れる思いのする、津波が押し寄せる様子
原発が爆発したこと
首都圏からも水やモノが無くなったこと

震災のこと、と一言で括りきれない、様々な困難が次々と起きて
そのたびに動揺し右往左往し、腹をくくろうとおう心境にたどりつきました。

でも、東京に住む私自身は、直接の大きな被害があったわけでもなく
徐々に普段の生活に戻り
震災の恐怖は、遠い東北での出来事、になっていくのです。

そんなふうに、この大震災への心の距離が段々とフェードアウトしていくことに
違和感を感じるのです。
だって、被災した人たちはまだまだ困難な生活の真っただ中にいて、亡くなった家族への思いも整理できずに
悲しみの中で今日も生きているのです。

何よりの違和感は
震災の被災地が、今回は東北で東京ではないことが単に神のみぞ知る偶然だということで
私自身が何もかも失う被災者ではない、ということが単なるたまたまで、
たまたま被害のなかったワタシ、たまたま被災者になった東北の人
その「たまたま」に対する不条理だという思いです。
その思いは、たまたま被害のなかった私ではなく、被災した人のほうがもっと強く思っているだろうということ。

だから私はこの震災を他人事のように忘れて行ってはいけないのだと思うのです。

被災した人の悲しみと苦難を忘れないために、
同じ被災国に生きる同邦人として出来ること何か、ずっと考えてきました。
何年も忘れずに、自分の身に起こったこととして感じて行けることを、行動としてしていきたい
と思います。

何か、行動として長い時間継続できることをしたいと思いますが

もうひとつ、手段が見つかりました。

寄付という、ある意味安直な手段ではありますが

岩手県の「いわて学びの希望基金」への寄付を10年続けようと思いました。
http://www.pref.iwate.jp/view.rbz?cd=33420


私が、両親に一番感謝していること
それは、大して勉強をしていたわけでもないのに、高校、大学へと進学させてくれたことです。
おまけに大学は、高校生の時あまりに勉強をしなかったので、一年浪人までさせてもらっています。

特に大学では、それまでの人生では想像がつかないほど深い知の世界が存在していること
知の世界への扉はすべての人に開かれていて、自分自身が叩けばいつでも誰でも踏み入れることが出来るということ
そして
その世界がとてもワクワクする楽しい世界だということを
教えてくれたところなのです。

自分の知らない世界がたくさん存在していて、どの世界も恐ろしく奥の深い迷宮だということ
そのことを垣間見たことが、私の人生をとても面白くしてくれたと思っています。

なので、進学をさせてくれた両親に本当に感謝しています。

おまけに私の母校は、個性的な人が平然と存在する雑多なところだったので
高校までは自分がちょっと変わった性格と嗜好の高校生だったことに居心地の悪さを感じていたので
この雑多なところに放りこまれたことで、やっと自分の居場所を見つけたように思いました。

この大震災で、心ならずも進学を断念せざるを得ない多くの子供たちがいることを残念に思います。
私の出来る寄付はとても微力で、どれだけの役に立てるのか?とは思いますが
学びたい、進学したい、と望んでいる子供の希望をかなえるお手伝いをしたい
と思います。

そんな形で、自らの意思で子供を持たなかった私の、社会的責任を、ちょっとだけ
果たせれば…と思います。

幸せって一体なんだ?いまだにわからない。

2011-12-28 08:37:32 | 生活改善プロジェクト
もう12月28日になりました。
年末も押し詰まってきました。

仕事もあと一日、年賀状もだして、今年一年を総括したい気持ちになっています。

私個人的なことですが、
2011年は、ただただ「幸せ」だと感じた年だった、ことをコッソリ告白します。


東日本大震災があり、タイの洪水があり、ユーロ危機があり
日本全体がとても困難なこと続きの年でした。
そんな状況においても、私は「幸せ」を感じ続けた年だった、なんて
あまりにも自己中心的すぎて、言いにくいので、こっそりつぶやいておきます。

3月11日の大震災からしばらくは、精神的に動揺もしました。
見聞きすることすべてに、泣きたくなってばかりいたことを覚えています。

体調もしばしば持ち崩すことが多く、夏の暑さは体力的にきつかった、と思います。

夏からは、病院での検査続きでした。

経済的にも、緊縮財政を続けて、毎月家計簿と帳簿とにらめっこだったし
いつも心の片隅に「無駄遣いしちゃいけない、経済的に厳しいんだから」ということがこびりついていました。

私自身を取り巻いていたのは、そんなままならないことばかりの環境だったのに
いつも「なんだか幸せだな」「こんなに幸せだと思って生きていたことはないな」という思いがいつもありました。

「幸せ」の詳細は、よくわかりません。
なんとなく、いつも楽しかったのです。

ほんの日常のささやかなことがに幸せを感じることが多かったように思います。

今夜のご飯がおいしいって
仕事で素敵な女性に出会えたって
ちょっとした提案が採用されたって
身の回りの整理をしたらすごく気持ちがスッキリしたって
新しい料理に挑戦したら、おいしくできたって

そんなことあんなことが、すごくうれしかった、そのうれしさが私の気持ちを支配していたようです。

客観的にみれば、「幸せ」と表現しにくいだろう出来ごとの最中でも
「こんな体験は滅多に出来ないから、楽しもう」
という思いがありました。

時々、今が「幸せ」ならどういうことが起きたら私は「不幸せ」に陥るんだろう?
と考えました。
考え続けましたが、結局「私はなんて不幸せなんだろう」と思ったとたん「不幸せ」なんだ、ということしかわかりませんでした。
自分で自分を追い詰める悪循環のサイクルに陥ることが「不幸せ」なのだろう。

今年の私は、いろいろなことが次々起きる、人生を何とか切り抜け、迷い、思考錯誤していることが
自分の足で一歩一歩生きている感じがして、楽しいと思えたような気がします。

結局、「幸せ」と「不幸せ」は自分の見方、気持ち次第、だということを
一年を通して実感し続けたように思います。
自分の気持ち、脳内の動きの不可思議さをつくづく感じました。

これから、きっとまたいろいろな気持ちの変化の波が押し寄せてきて
波の高低で思うことがまた変わるのだと思います。

そんな自分の心の変化も、「面白い」と思える客観性を持ち続ければ、
きっと心穏やかに生きられるような気がしています。



自分に近づきすぎると、近視眼的にいろいろなものが見えなくなるのだと思います。
どんなことが起こった時も、少し自分から離れて、自分自身をクールに見る冷静さが、悲しいことも楽しいことも人生にはいつも公平にあることを
ちゃんと思い出させてくれるのです。

なるべく自分に近づき過ぎない、ことをこれからの目標にしようと思います。

クリスマスに聴きたいクラッシック。だって。

2011-12-24 11:07:45 | art
クリスマスイブイブの23日

ツイッターのタイムラインを眺めていたら
クラッシック音楽のインターネットラジオ番組を見つけました。

インターネットラジオ OTTAVA オッタ―ヴァ
http://ottava.jp/

フォローしているMUJIのアカウントから、MUJIがスポンサーでした。

昨日は、クリスマスに聴きたい音楽リクエスト特集、メールでもツイッターからでも参加してね♪
ということだったので、リクエストをしました。

様々な方がクリスマスらしい、と思っている様々な曲が流れて
なるほどね~、こういう曲なのね、と人の価値観や趣味を垣間見た気がして面白いと思いました。
私のリクエストでOAしてもらったのが、

・マーラー交響曲第五番 アダージェット

・サンサーンス交響曲第三番 二楽章

ラジオでリクエスト曲が採用されてOAされる、聴いた方の感想コメントを読めたり
とういのも楽しい体験でしたが

このところあまり音楽に接していなかったので
久しぶりに聴いた、自分の好きな曲、でとても心が揺さぶられました。

私は、精神的に落ち込んでいるときには、どんな好きな曲も心を荒らす騒音にしか聞こえない
心を落ち着けようとしても、音楽を受け付けなくなります。

そういう経験を何度もしているので
改めて、「自分が好きなはずの曲」を聴いて
懐かしく、そして初めて聴くような高揚感さえ得られるなんて
今の私はきっと元気なのだ。

時に、この二曲のような、メロディアスで感動的に盛り上がる曲聴いていたら

震災の時の恐ろしい映像が蘇ってきました。
そして、こんな出来事があっても、時間は容赦なく過ぎるもの
でも時間が過ぎてもうクリスマスの季節になる、そういう時間が経つからこそ癒えることもあるかもしれない
という気がしてきました。

イブの今日、自分のCDを引っ張り出して全曲通して聴いてみました。

ああ、音楽っていいな。

今は便利にYouTubeで聴くことが出来ます。
クラッシックに興味のない方も、ちょっとだけどうぞ。
意外にイイと思う。

マーラー交響曲第五番 第四楽章
http://www.youtube.com/watch?v=cz2ZByOq6YU

サンサーンス交響曲第三番 第二楽章
http://www.youtube.com/watch?v=Hmo30e15Bzg&feature=related

ほかの方がリクエストして、マーラー二番、五番が続けてOAされました。
この曲もクリスマスにふさわしい、敬虔な祈りの曲です。

マーラー交響曲第二番「復活」
http://www.youtube.com/watch?v=_wnT3lKydrQ&feature=related

居場所がある、それも幾つか。

2011-12-21 21:05:04 | 生活改善プロジェクト
私は、自営業で仕事をする傍ら、小さな会社にも属しています。
二足の草鞋、ですね。

それはそれで、時間が足りないとか、いろいろなことが中途半端になる、とか
自分で逃げ道を作ってしまう、とか、
いろいろと良くないな、と自分で思うこともあります。

暫くの間、どちらの仕事も休んでいたのですが、久しぶりに会社の方へ復帰しました。
小さな会社で、どう考えても大それた仕事をしているわけではない立場の私、
以前は、職場での自分の立場や職域や権限が小さい立場で働くなんて
働く意味があるのだろうか?くらいに思っていました。
それはそれで、ある意味向上心が旺盛だったとも言えるのですが
今にして思うと、足もとが見えていないことも、勘違いも、多々あったように思います。

さて、その小さな職場の小さな仕事にひっそりと復帰したのです。
ところが、そのささやかな場所が、すっかり自分にとって必要なところで、
ある種の居心地の良ささえ感じさせてくれるところだったということに
気がついて、自分ながらビックリしました。

小さな仕事ですが、少しくらいは会社の仲間の役に立ってたのかしら?
誰かの指示を受けたり、誰かにお願いしたり、こうしたらいいんじゃないですか~?と小さな意見を言ってみたり
そんなことが、とても大切でした。

そして、自分の中で、自営の別のほうの仕事では使わない、頭や気持ちの部分を使っていたり
一人経営者の立場とは全く違った見方をしていたり
家庭の中で家事をしているときには、あまり意識しない思いがけない自分に出会ったり
そんなふうに、自分がいろいろな顔や頭や体を持ち合わせていて
引き出しがいろいろとあるんだということを、実感したのです。

こんな自分も、私なんだ…

人間は、一つの役割だけに固執せず、
いろいろな組織や、仲間や、社会に少しずつ足やら頭やら手やらを突っ込んで生きている
そういうほうがいいと思うのです。

人は、決して一面を観ただけではでは分からない、多面性を持っているものだから。
自分の良さを出来るだけ、多くの人に知ってもらったり、役に立ったりする場は
多いほうがいいと思うのです。
そういう場所は、思いがけないところに存在していて
自分で見つけて、自分で築き育てていくしかない、のが大原則なんです。

心の糸は、ある日突然

2011-12-18 10:56:23 | 生活改善プロジェクト
張っていた心の糸が、プツンと切れて、ふっとまた繋がりました。

思えば、私は夏から少しずつ緊張していたのだと思います。
グレーの検査結果が続いた夏から、病気の診断、手術が済むまで
ずっとハイテンションを保って生活してきました。

今年の春から、心のテンションは上がり調子
3.11の東日本大震災で、更に緊張度が跳ねあがり
そのある意味ショックが落ち着いて、今度は自分自身の体調でまた緊張が高まっていました。

心のテンションが高いというのは、私にとってはとても大事なことです。
体調の悪化よりも、心の調子の低下、無気力状態の陥ることが、私のとっては最大の恐怖です。

その点では、いろいろなことをハイテンションで通り抜けてこられたのは本当に幸せでした。
今年は、最高にいい年だといってもいいと思っています。

さて、退院して、両親の身の回りの世話を焼いたりや食事作りをしている間も
ずっと緊張は保ったまま過ごしていましたが

両親も帰り、さあ、ゆっくり病人しよう、と思ったとたん
心の糸がプツンと切れたようでした。
痛い、熱っぽい、疲れる、という思いがどっと押し寄せてきて
ああ、自分は病人なのにこんなにがんばっていた、と
そう思えば思うほど、痛みも疲れも増して行きました。
毎日、寝たり起きたり、ああいつ元気が出て元通りの生活になるんだろう、とぼんやりと考えながら

でも、術後2週間近く、そういつまでも日常生活に支障があるほど痛いはずはなく
増してや、そうそう痛み残る手術でもないはず、
痛みが少ない術式を選んだはず。術後はすぐ仕事復帰が出来ると、事前に医者から言われていたはず。


きのう、ふと、
痛いと思うから痛いんじゃないのか?
心の持ちようで、全然なんともないんじゃないのか?
心が、弱い方へ流れているだけなんじゃないのか?
そう思いました。

仕事も、年末の大掃除も、年賀状も、やらねばならないことを普通どおりに
やってみればきっとちゃんと普通にできちゃうんだ、
そんな気がしました。

そう思ったとたん、痛みは去って行きました。
あれれ?と自分でもびっくりするくらい、リハビリの体操をして創部を動かしてみると
更に痛みは軽減するようでした。
そうか、痛いと思ってじっと寝ているから余計痛かったのか!
そして、ふっと心の糸が繋がって、また張り出しました。

人間の心は本当に弱くて
ちょっと甘やかすと心身共にどんどん弱くなっていき
ふと気がついて背筋を伸ばすと、
心も体も元気になる

当たり前のようなことですが
何事も心持ち次第
自分を甘やかせば、際限なく堕ちて行くのです。

もう、すっかり元気になりました。

病棟雑事

2011-12-14 09:03:08 | 生活改善プロジェクト
病気の話題ばかりになっていますが、入院時見聞きし感じたことを少し。

なにせ私にとってははじめての入院と手術の経験なので、見聞きすること体験すること、すべて初めてでモノ珍しく
面白いと感じることばかりです。

特に面白いと思ったことは
食事が予想を反して美味しくて、毎回メニューも豊富で楽しかったこと。
当たり前といえばそうなのですが、
3食1900kcalに計算されていて
食材も野菜がふんだんに使われていて、味付けも出汁が濃く塩味は薄めで、とっても女性好み?なヘルシーメニューです。
ほぼ毎回フルーツも付きますし、朝は牛乳パックが付きます。時々パンになったりもします。
長く入院する人もいますから、飽きないよう、そして食事が毎日の生活の張りやモチベーションになる、ということをよく考えて作られてるんですね。
食べることは、本当に生きることへのモチベーションになることを、しみじみ実感しました。
この痛い検査や治療が終わったら、美味しいものを食べよう、と思って自分を励ますとか
一日経つと、今日もゴハンが美味しくてハッピーだった、と思えるものなのです。

そしてもう一つ面白かったのは、毎朝担当の医師の先生方が偉い先生から若手の先生まで揃って
ぞろぞろと回診に来ること。
その時の行動や言葉にそれぞれの先生のポジションとかそれぞれの関係性とかが垣間見られて、
医者の世界もいろいろ大変だな、ととっても面白くて
毎朝回診時には、うっかり主治医の顔を見て笑っちゃわないように我慢して、神妙に患者らしくしているのが大変でした。


私が手術を終えて、手術管理病棟から元居た一般病棟に戻った時
病室には、若い女性の患者さんが新しく入っていました。

私が入院したのは癌専門病院だったので、入院患者はすべからく癌の患者さんです。
病気の性質上、若い人は少なくて50代から上の方が圧倒的に多いのですが
ちらほら、若い患者さんも見かけます。

病室に新たに入っていたのは、20代くらいと2、30代の若い女性でした。
20代と思われる一番若い女性は、漏れ聞こえてくるご家族の会話から、まだ生まれたばかりのお子さんがいるようです。
彼女は、お母さんと旦那さんに付き添われて入院してきました。
家族の前では、明るく元気に振舞っていたのに、みんな帰ってしまって、ベットに一人になってからは
カーテンを閉め切った中からずっと鼻水をすする音がが聞こえて来ました。

とても気になったので夕食時にカーテンを開けて食事を取っているときに、思い切って声をかけてみました。
私自身も、手術を終えてずいぶんと自分自身に余裕が出ていたのかもしれません。
手術後に使うテープ剥がし?の余ったのを使ってね、と声をかけて、大丈夫?と聞くと
一人になったら急に心細くなって号泣しちゃいました、とニッコリ答えてくれました。
やっぱり…と思って、あっという間に終わっちゃうよ、麻酔で気持ちよく眠れるから、
術後もそんなに痛くないから大丈夫、と話すと、ちょっとホッとしましたと笑顔で答えてくれました。

その夜はやっぱり一晩中すすり泣いているらしい声が聞こえました。

まだ20代の若さで、お子さんも小さくて、きっと今後の不安で一杯だろう。
この病気は、転移や再発という不安も付きまとうので尚更いろいろ考えてしまうのだろう。

翌朝、手術に向かった彼女を「がんばってね~」と見送ったあと
今度は、一人で残ってベッドの後始末をしていた、それまで呑気そうに笑いながら彼女と頓珍漢な会話を得いていたお母さんが、
嗚咽し始めました。

お母さんの心配も、いか程だろう。

その姿をみて、手術の時に心細そうに私を見送った両親の心中は、やっぱりこのお母さんと同じだろうな、と思い
両親を面倒くさいと思っていたのに、なんだか私も泣きたくなりました。

同じ癌という病気だという、なんとなく緩やかな連帯感らしいものが、入院患者同志の間に流れているのを感じましたが

癌といっても病気の個所も、程度もそれぞれで
私のように早期で手術も軽く、能天気にしていられるヒトもいれば
何度も再発を繰り返し、手術も出来ないような人もいるのです。
それぞれ、年齢も違えば環境も違う、みんな事情はそれぞれ…そう考えれば、同じ病気といっても、本当に神様は不公平です。

でも不思議と病室や病院全体に、重たく暗い空気、よりは
病気の人がこんなにも大勢いて、みんな痛かったり苦しかったりするのに
平然とした顔をして頑張ってるんだな、という明るいものを感じます。

ヒトは意外と強い。
本当にそう感じました。






手術後に変わったこと

2011-12-08 12:32:23 | 生活改善プロジェクト
手術が、あっけなく終わりました。
手術中は全身麻酔がかかっているのでもちろん、術後酸素マスクと点滴に繋がれてしんどかった時間も
過ぎてみれば一時のこと。
起きられて、動けるようになると、もう遥かかなたの出来ごとになりつつあります。
のど元過ぎれば熱さを忘れる、の典型ですかね?

麻酔から目が覚めた時にまず湧きあがってきた感覚は
「ああ、久しぶりにぐっすりよく眠ったなあ」
という、爽快感でした。

その後、麻酔が覚めるに従って痛みが襲ってきましたが…

手術に入る前、手術台に移されて、いろいろな装置を取りつけられている最中に考えていたことは
「執刀医の先生って、偉そうなモノだなあ」
という不謹慎なことでした。
麻酔医や看護師さんが忙しく術前の準備をしている最中に、時々指示をしながら悠然と待っていた
執刀する外科医の人たちの姿が、とても面白く感じたのです。

その後はあっという間に麻酔がかかってしまいましたので、残念ながら知りませんが、出来れば彼らの動きをずっと見ていたいと思いました。


さて、手術が終わって、

体の一部分が摘出されて、なにか欠落感が湧くのか?
多くの人の手で、自分の命が救われたことに、深い感謝の気持ちが湧くのだろうか?
生き延びた自分自身や、これからの人生に新たな決意や愛おしさが湧くのか?

そんなことを考えていましたが、

本当のところは、残念ながらそんな殊勝な心持には一切なりませんでした。

唯一感じ入ったことは、
「人間の体というのは、本当に精緻にできた精密機械なんだな」という実感でした。
いろいろな機材や、人工呼吸器や、酸素マスクの大きな機械に繋がれているのに、その機械が補っているのは
人体の機能のほんの一部分でしかなく
この人体がいかに素晴らしい機能で構築されたものなのだ、という驚異の感覚を持ちました。

そして、この程度の手術を受けた程度では、自分の中身は変わらないものだ
ということを発見したのでした。
ヒトの思考や価値観は、そう簡単には変わらないものなのだ、という
若干予感していた結果が待っていました。

手術後、病棟のベットで、今度はしきりに今後の仕事のことばかり
あれもこれもやっていない、こんなことをしよう、今後の方針はこうしよう
そんなことばかりが浮かんできました。
早速感覚はすっかり現実世界に戻っているようです。

そして、手術前より、自分自身はなるべく人の手を借りずに
自立してしっかり生きて行こうという思いが更に強くなりました。

結局、何が起こっても、最後は自分自身次第なのだ、
そういうことを確認した経験だったような気がします。

ただ、病気の治療についてはこれからのほうが大変なのかもしれません。
放射線や化学療法、投薬と検査が、長い期間続くのです。
その過程でまた何か思うことがあるのかもしれません。



築地に避寒するという贅沢

2011-12-04 18:40:23 | 生活改善プロジェクト
築地市場一望できる、高層階の一般病棟に入りました。
築地市場の全貌やレインボーブリッジが眼下にひろがる眺望です。

このところ例年より寒い冬らしい日が続きましたが、ここは21.5℃に管理されて、パジャマでも暖かく
とても快適です。

毎日規則正しく寝て起きて、ご飯を食べて…いったいどうやってすごすんだろう?
退屈で死にそうになるんじゃないかと、思っていましたが、意外にも楽しく過ごせてい、、ます。

まず、若干中毒気味のウェブを絶って、情報を遮断しようと思いPCを持ち込みませんでした。
その決心ももう崩れて、病室備え付けのネットサービスを使って、これを書いている始末です…。
情報絶ちを決めたのでテレビもほとんど見ませんし、人への連絡も失礼しています。

両親と毎日会い、読もうと思って全く読めず溜まっていた本を持ち込み、編みかけの靴下と毛糸だまを
持ってきて、ほぼそれらのことだけで毎日を過ごします。
不思議なくらいに仕事のことは考えません。
きっと暇な時間は仕事のプランで頭がいっぱいになる、予定だったのにすっかり拍子抜けです。
心穏やかです。

ただ、棟全体がとても静かな環境で、あまりの静けさに消灯すると恐ろしくなります。
いつも聞こえていたテレビも車の車輪の音も全く聞こえません、ときどき廊下を歩く看護師さんの足早な
音がかすかに聞こえるくらいです。
このPCのキーをたたく音が異様に響くので、いい加減にしようと思います。
静かな時間帯は、なに聞こえず目をつぶるとまるで深い穴に落ちたような、閉塞感感じて怖くなります。
雑音は現在人のトランキライザーだと言った人がいましたが、本当にそうです。

もうひとつの発見は、意外にもこの平穏すぎる生活が楽しくて、これから起きるさまざまなことへの不安が沸かないことです。
自分自身が意外にも現状保持ができることに驚いています。
自分について、常に変化を望んでいるつもりでいまいしたが
案外そういう認識が違うのかもしれません。

明日の手術が終わり、何事もなかったかのように
この夢のようにふんわりとした穏やかが日が終わりを告げて、
あっと言う間に現実のあわただしさが始まるような気がしてなりません。