ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

給茶スポット、増えればいいな!

2011-06-29 21:12:12 | 日本文化
象印マホービンと全国茶商工業協同組合連合会が、やっている取り組み
ロックdeお茶


マイボトルに自分で淹れたお茶を持って歩こう、という取り組み。
そしてお茶を外出先でマイボトルに淹れることが出来る、給茶スポットとお茶Bar。

お茶を給茶してもらえるなんて、それもプロが入れた美味しいお茶なんて、嬉しいです。
加盟店は少しずつではりますが、増えている様子です。
給茶スポットを調べてみると、家やよく行く場所の近くにもあるので、早速給茶してもらおうと思います!


ペットボトルのお茶が全盛ですが、こう暑いと甘いものではなくさっぱりとお茶。
緑茶はカテキンやポリフェノール効果や血糖値を下げたり脂肪を燃焼させたり、といううたい文句の健康ドリンクとしても。

淹れたお茶を飲み慣れてしまうと、ペットボトルのお茶は別の飲み物だなあ~と思います。

この「ロックdeお茶」の取り組みの最大のライバル、清涼飲料水のメーカー数社は
巨大メーカーで力も強いでしょうから、
象印と全茶連が多少頑張っても、広げていくことはなかなか難しいかもしれません。

でも頑張ってほしい!

町の小さなお茶屋さん、ぜひ参加してください。
参加してPRして、緑茶が携帯飲み物になるよう、広めてください。

みんながマイボトルでお茶を持ち歩く都会の光景、カッコイイと思います。
ペットボトルが散乱する道端を見ると、ああこんなに使い捨てられていいくペットボトル達、本当に資源の無駄、
と悲しくなります。
ペットボトルが必要なシチュエーションも、もちろんあると思うので
ペット飲料が無くなればいいとは思うわないのですが、
自分の飲み物を持ち歩くマイボトル、素敵な習慣だと思うのです。

象印さん、一気にブレイクするようなインパクトがあって抜群にカッコイイマホービンを作ってください!
こういうときhがデザインの出番、いいデザインなら、マイボトルを持つことがカッコイイのだ、
とおのずから語ってくれるはずです。

そして、急須で淹れたお茶の美味しさをもっと知ってほしいと思います。
カテキン飲料より、急須のお茶のほうが効果が高いのです。
なにより、お茶は日本のデフォルトな飲み物だったはず…
いつから、珈琲や炭酸飲料に取って代わられたんだろう?



お茶好きな私は、以前からマイボトルに(残念ながら、象印マホービンではなくって、スターバックスのボトル)に
緑茶はもちろん、ほうじ茶、紅茶、ハーブティ、桑茶、烏龍茶…色々なお茶を日替わり、その日の気分や、気温や体調で決めて、持って歩くことが多いです。

その日の予定で変わりますが、普段の用事ならマイボトルが定番の荷物になっています。

私は自分がカフェイン中毒だと思っているくらい、コーヒー好きでもあるので、
1日1杯以上の珈琲は、必ず飲みますしカフェも好きなのでよく入ります。

お茶も、ゆっくり本を読んだりおしゃべりしたりPCを使ったりするときに、いい雰囲気のカフェで
美味しいのを飲みたいな。
珈琲もお茶も、本物で美味しいものが、普通の生活の中の普通の選択肢として
広がればいいなと思います。

物をつくること、と、物をもたないこと。

2011-06-27 20:57:09 | 生活改善プロジェクト
今、私の個人的なマイブームは、モノの整理です。

きっかけは、ずっと家で過ごしたGWの長い休でした。

キッチンの引き出しや、クローゼット、私の自室など、気になっていながら、
いつも手を出せず、雑然としたまま放置してあったところを思い切って整理したのです。
そして、心も体もかなり軽くなり、気力が出てきました。

整理というのは、その大半が、捨てる決断です。
決断ができてしまえば、後は後ろを振り返らず、あれもこれもどんどん捨てること。

そうして整理してしまうと、モノが溜まっている状態は、心が滞っている状態なのだと分かりました。
溜まっているモノに対して、心の一部分を割いたままにしているようなものなのだなあ、と。
そうして、モノが溜まるとグチャグチャになるように、心も、余計な気遣いや後悔や後ろめたさなどの
負の要素でいっぱいになり、無駄に心を浪費することになるのだと。

ですが、その肝心の「捨てる決断」が大変です。
私はモノの実態に価値を置く、そういう価値観の人間なので、
モノを情報だったり記録だったり(デジタルデータとか、写真とかそういうもの)に置き換えてヨシ
とすることが出来ないのです。
情報や記録ではない、モノそのものが私には重要で意味のあることなのです。
そういう価値観だから、モノを作ることが好きだし得意なのでしょう。

モノに価値や意味を見出したり、与えたりすることが得意なのです。
モノ主義、とでも申しましょうか。

だから、実態のない「モノ」である、情報やバーチャルな世界には、実は私はあまり興味が無いのです。

そんな、「モノ主義」の私なので、捨てる決断には、自分を納得させるだけの理由が要ります。
この「モノ」がここにあることで、自分は何を得て何を失うのかという対話をしながら
モノと向き合う作業になります。
それはモノではなくて、自分と向きあっている作業なのですが、
そんな膨大な自分自身を突きつけられることを繰り返して、捨てることを決めることになります。

それは結構しんどい作業なのですが、その結果、整理されて残ったモノたちは、自分の本質に近いので
整理された後は、自分自身がよりクリアに見えるような気がするのです。

私にとって、「モノ」とは自分自身、分身だったのだと、色々と整理してみて分かりました。
集積された「モノたち」も自分の総体一面だし、一つ一つの「モノ」も自分自身のかけら、部品なのですね。

モノを整理して、たくさん捨てて分かったことは、自分自身がいかにこのモノたちに投影されていたか
自分自身の心を削って、モノを買ったり作ったりする、自分の習性でした。

私は、モノの実態に価値観を置くからこそ、モノに支配されやすい。
モノに支配されやすいから、モノが溜まる。
モノが溜まるから、新たなモノが生まれない。

そんな逆説でした。

モノが好きだから、モノを溜めずにスッキリしておかないと、モノは作れない。

それでは、自分が作ったもの、欲しくなって手に入れたものはどうしたらよいのだろう?

そうして得た結論は、本当に好きなものかどうか考えること、でした。
実際にモノを作ったり、買ったりすることより、考えることが自分にとって意味のあることなのだと。

モノやアイディアを、本当に好きかどうか吟味する。
その考えること自体を楽しもうと思うことでした。

考える、想像する、思考する、事をもっと真剣に、楽しもうと思います。
出来たモノよりも、その過程を大切にしていこう。

そうして身の回りに残ったモノたちを一生大事にしていこう、と思います。
私にとって、これから大事になる「次なるモノ作り」は、「思考と過程」
そしてその先にある「修理と再生」なのかもしれません。

それは、私の人生も、「修理と再生」の段階に入ったということなのかもしれません。

夏は、いかにも日本らしい。

2011-06-23 22:03:22 | 生活改善プロジェクト
夏至の日から、急に暑さが襲ってきました。
連日の真夏日越えの、東京です。

今年は、節電問題もあり、皆さん冷房を控えよう、という社会現象が起きています。
なんでもかんでも日本人のお得意の
右へ倣えというのも、どうかと思ったりもするので、若干考えましたが

エネルギーを使わない方向へ、生活をダウンサイジング、ということには賛成です。
特に東京という大都会は、江戸(時代)に戻ればいいのでは(江戸時代というのは、特に江戸はとても豊饒な文化が熟成された時代です)
とよく考えてしまう私にとっては、省エネに反対する気持ちはありません。

なので、我が家もなるべくクーラーを控えるようになりました。

もともと、長い間冷房の効いた中に居るととても冷えて体が辛いので、
汗をかきながら、窓を全開にして風を通しています。


gallery園さんでは、冷房設備はなくて、暑くなかったわけではないのですが、とても快適でした。
縁側に座って涼んだり、畳のひんやりした気持ちよさを感じたり
縁側のある大きな窓をや玄関を開け放して、風を感じたり
蚊取り線香の香りがずっと漂っていたり







冷たいお茶が美味しかったこと。
(麦酒派の人は、ビールが最高に違いないです)

日本家屋と、伝統建築の底力を感じました。

ああ、こんな家なら、クーラーなんてなくてもきっと夏を乗り切れる!
そう思いました。

暑くなってくると、食欲が落ちたり
日差しに疲れたり
体力を消耗します。

私自身も、体調が良くないので、実際のこの蒸し暑さはとても堪えます。
それに増して、クーラーで冷やされた体は辛い。

毎日のお風呂、温かいお茶、ショウガ湯が必須。
そして、体調を整えるのに気休めかもしれないけれども、効くように思って毎日寝る前の日課になっているのが
お灸(せんねん灸)です。

足や腕のツボにお灸を置くと、冷えた体の芯が温まる感じがします。

こうして、夏の厳しさに対抗する覚悟を決めなきゃ、と思っていろいろ手立てを考えていると
やはり日本の真髄は夏にあるように思えてきます。

夏の湿度と気温は、まさにアジアの亜熱帯性です。
この独特の厳しい気候を生きるために
文化が発展したようにさえ、思えます。
家の作り、建築方法といい、衣服といい(日本の夏は麻です)、熱を取る食べ物や夏に滋養をつける食文化といい、
様々な日用品といい、あれもこれも夏の為のもの。

生活の中に、暑さと仲良くする知恵が実はたくさん生きている、
忘れちゃいけないのだと思います。


麻をまとう、涼の風「新之助上布展」

2011-06-21 06:45:50 | 職人芸
大西新之助商店 2011年の最後のイベントは

gallery園 での個展です。



護国寺、豊島岡御陵の裏手の静かな住宅街の中の築80年の古民家で
日本の作家のアートや工芸を企画展示する
gallery園

その静かな室内で、上布を涼やかに展示しています。








私の商品(新之助上布を用いた女性服)も特別参加で展示していただいています。
多くの方に、見ていただけたらいいな。
多くの人の日々の生活が「上布のある生活」になったらいいな、という思いを込めた洋服たちです。

私は、今回は販売には立っていないのですが、精一杯上布への気持ちを送っています!




先日のオープニングイベント
琵琶奏者の榎本百香さんに
新之助上布の着物と帯を着て、琵琶の演奏をしていただきました。
曲は
祇園精舎
レインドロップス
那須与一
でした。

なかなか触れることのない琵琶の演奏を静かな古民家のお座敷で聴いていただけました。
みなさん、琵琶の迫力や凛々しさを味わっていただけたようです。

可憐な榎本さんから発せられる、迫力のある演奏に触れて
薩摩琵琶にも、興味を持ってくださって、また演奏を聴きに来ていただけると嬉しいです。






しとしとと雨の古民家は、とても風情あるところです。





雨の季節ももう少しで終わり…暑い夏がやってきます!
蒸し暑い日本の夏、特に今年は色々暑い要素が多い様子

さらっと涼しい上布が活躍する季節到来ですね。

エネルギーが巡る道ができれば。

2011-06-10 20:04:28 | 生活改善プロジェクト
最近痩せつつある。

5、6年前に太ってしまってから、どうしても少しも痩せない月日がたって、
年齢的にももう元の体重には戻らないのかな~、と思っていた。
痩せようと、食事量を減らしたり、運動をしたりして見ても
長続きしないし、ちっとも痩せやしなかった。

今年になって
春頃から、心も体も「陰」から「陽」になってきているようす。

内に籠る状態から、少しずつ、外へ向かう状態へ変わってきて、明らかに活動量が増えてきた。
身体的にも、精神的にも、動きが大きくなった感じ。

それにつれて、体も少しずつ痩せてきた。
食事も減らしていないし、特に運動を始めたわけでも
何か特別なことをしているわけでもなく、今までと同じように暮らしているだけ。

痩せ初めてことに気がついた時には、何か重大な内臓の病気なのではないか、と疑ったほど、
理由のわからないことだった。

一時的なのかと思っていたけれど、もう4ヶ月くらい、1月に1キロくらいの、少しづつの減量が続いて
元の体に戻りつつある。


今の毎日を振り返ってみると
ご飯を、よく食べている。そして、野菜を多く食べている。
朝、出来るだけストレッチをしている、といっても、5~10分くらいの簡単なもの。
ストレッチの一環で、毎朝起きたら、朝日に向かって背伸びをする。凝り固まった全身を上下に伸ばすように。

動くことが辛くなくなっている、動くことが辛くて億劫で、寝ている、という時間がほとんどない。
この何かかにか動くこと、の中に、家の中のことが増えたように思う。

料理をすること、掃除をすること、片付けること…これは、今年になって何度もお客様を招いたから。
お客様を迎えるために、家を片付けたり床を磨いたり、おもてなしの料理の献立を考えて買い物に走って頑張って作ったり、

私の活性化は段々自分自身を振り返るようになった。
クローゼットを整理して大量の洋服を捨てたり、好きでたまってしまう紙類を
10年以上ぶりに整理したり

そんなことをやっているうちに、無駄なものをそぎ落とすこと、生活を快適に整えること、
が楽しいことに思えてきた。

その価値観は、今までの私には、持ちたくてもなかなか持てないものだった、
私にとって第一に大切なのは社会に参加して認められることで、自分の足元、「生活」自体に心と時間を費やすことは、虚しいことだと思っていた。
忙しくておまけにとても疲れていて、だから便利と時間をお金で買い、欲しいものを次々買い、
ものに囲まれることで満足しつつもどこか息苦しくなっていた、ような気がする。

そうして私は生活にも心にも、余計なものを溜めこんだまま、重たい思いをしていたのだろう。
そのせいで、体にも余計なものを溜めこんでいたのだ。

今、私のエネルギー消費が少しずつ増えて、自分自身が活性化しているのを感じる。
私のエネルギーを自分の日常生活の充実の為に消費するようになっている。
私の活性化は、外を向くことよりも、自分を掘り下げることに向かっているようだ。
それは、内向きのエネルギーだろうか?

生活を変えると、体も変わる。
当たり前のようだけれど、実際の心と体の変化は、なんだかワクワクする。
身軽になって新しい世界に、進み入るような気分だ。
「自分が変わる」ということは、素敵なことだと思う。

世の中全体のエネルギー消費の在り方も、外に向かう事だけが活性化だろうか?
活性化して、代謝が活発になる、ということは、
ものを多く作って消費して、ゴミをたくさん出すことだけではないように思う。
自分自身が軽くなるような、そういう活性化があるはずだと思う。

文化財レスキューをぜひ。

2011-06-07 08:52:10 | 日本文化
国立公文書館の展示を見に行きました。
「はたらく動物」



人間とともに、労働をになってきた様々な動物たちについての解説や記録の古文書を公開でしていました(公開は6月3日で終了)

私は、紙が好きなので、古文書や書画、文書を見るときは
ほぼ、内容ではなくて、紙とその記録の方法(墨書きなのか、版本なのか、など)に注目、
そちらを見に行っているといってもいいのです。

この展示も、やはり版本の綺麗さとか、公文書にどのような文字を書いているのかなあ、とかそちらに目が行きましたが、動物の細密な版画は面白かったです。

もうひとつ、常設展示に、法律の発布に関する文書が展示されていました。

古いものから麻生太郎元総理大臣が決裁した、法律の公布の文書もありましたが
大臣の決裁は今でも「花押」なのですね!印章じゃないのですね…
知りませんでした。
大臣になると花押を作るのか。
そうして、花押にもいろいろ、うまい下手があるなあ~と笑ってしまいました。

そして、たくさんあった公文書館関連のチラシを見ていると

文化財レスキュー

のものが。

東日本大震災の被害は広域に渡っていて、様々な文化財が被災し、破壊されたのです。
公立の博物館がそっくり津波に流されてしまったり
書画や美術品が破損したり
古文書や公文書が水に浸かったり
文化的価値の高い建築物もたくさん壊れてしまいました。

東北地方の特有の文化的な歴史の記録が、大きな被害に遭っているということは
歴史の記録から、東北地方のものに大き穴が開くことになってしまいます。

東北地方は、関東、近畿以西のものとは違なる固有の歴史、文化、風土を持っていますから
その歴史の記録が失われることは、他の地方の記録に替えられるものではないのです。

文化財修復は、今に生きるために、今すぐに必要とはされないことだけに
忘れられがち、後回しにされがちですが
このこともまた、時間との戦いなのです。

きっと、この国の政府(政治家)には見落とされるであろう
文化財修復の分野。

日本が、文化立国、観光立国を目指すなら尚更、心を向けてほしい。
文化庁は頑張ってほしい。

そして民間に実はたくさんある、文化財修復の企業や技術者、機構にも頑張ってほしい。

撮影日和

2011-06-04 22:00:05 | 独立起業
しばらく梅雨寒な日が続いていましたが、
今日は久しぶりに初夏の日差しが戻ってきました。

1か月前から、予定していた(1週間の雨天延期後)の写真撮影です。

前回のコレクションとは、商品コンセプトとデザインが大きく異なる展開にするので

新たなフォトグラファーさんと、モデルさんを、改めてお願いしました。

弥姫乎さんとのコラボレーションコレクションも、
今年も、浅草の弥姫乎SHOPでお取扱いただいています。

こちらのモダン&粋なイメージ・世界観も、浅草イメージや着物のモードをよく表現していただいていたので
一つの「職人仕事」の表現になっているところがとてもいいのです。
モデルさんにもとっても素敵に着こなしていただいていて、my favorit collection なのです。

そちらの新たな展開があるときには、プロモーションも考えなければなりませんが…

この時のモデルさん(バイオリニストのマヤ・フレーザーさん)は東京都交響楽団の団員になられたので、
またお願いできるのかな…?



今回の撮影は、前回の非日常の雰囲気とは反対の「日常着」の世界を前面に出したくて
とても身近な人・場所で臨みました。





「日常」というテーマの風景を切り取るのは、フォトグラファーさんのお仕事ですが、
私にとっての「日常」でなじみの深い風景や人は、フォトグラファーさんにとっては新体験なことばかりなのに
私のイメージする「普通」「日常」感をくみ取ってくださっているのが分かりました。

表現することというのは、繊細な感性があってこそ、ですね。

表現者である人は常にその繊細さを磨いているのだなあ、と思います。

私自身も、私の中にあり何かをイメージし、思考を表現して伝えることをしようとするならば
やはり鈍感に傾いてはいけないな、と自戒しました。

常に繊細な感性を保つことは、なかなか困難なことでもあるのですが…


今日は、夏の暑さが戻ってきて、程良く暑くて、夏の雰囲気が切り取れたようです。
暑い夏を涼しく過ごすための日本の製品のイメージが、もうひとつ増えました。

自分の世界が広がっていくよう、でも散漫にならないよう、軸はぶれないように
この上布の、布のもつモノの持つ力、が引き締めてくれているようです。
私も、ぶれずに。


“非常時“と“いつも”のこと

2011-06-01 09:05:09 | 日本文化
今日から6月、衣替えの日です。
季節の節目をまた一つ通って、次の季節へと進んでいく感じがします。
衣替えの今日、東京はまだ肌寒いまま、夏は遠くにある感じです。

今年の春は、寒いのか暑いのか、気候が安定しないからか
私もすっかり体調を崩してしまい、周りも風や胃腸の調子の悪い人が多いです。

体調が悪いのであまり運動もできませんが、強張った心と体を温めるのに
家でヨガのポーズをとっています。

ヨガのクラスは、お休み中です。
ヨガの先生が、震災被災地のボランティアへ参加しているのです。

このことを知った時、
そうか、先生も頑張っているのだな、という応援の気持ちと
少し寂しい感情が湧きました。

ここにも「プチ被災者」がいて、ヨガを、先生を必要としているんだけどな…

そんな思いです。

東日本大震災で、東京は直接の甚大な被害は少なく(天井が落ちて亡くなられた方も居ました)
被災地ではありません。
震災のショック、交通や電力の麻痺、関東圏に近い福島での原発事故
などで、不安が大きくなり心理的疲労を感じている方が少なくないように想います。

私自身も震災から1カ月くらいは、精神的に不安でとても疲労が溜まっていました。

そんな時に、「ああ、ヨガで心身をほぐしたい」とよく思ったのです。

でも、ヨガクラスはお休み。とても残念でした。
ああ、今こそ私はヨガでリラックスしたいのに、と。
「置いていかれてしまった」そんな寂しさを感じたのです。

被災地の悲惨な被害の状況を目の当たりにしたヨガの先生が、自分が少しでも役に立てば
と考えて、ボランティアに参加した気持ちはとてもよくわかるのです。
そういう人がいてこそ、ボランティアが成り立つことも。

一方、先生の「いつも」の生徒、も「いつも通り」存在している。

この非常時に、何を優先するか、ということ、それはその人の価値観そのものだと思います。

非常時に、非常なこと、を率先して行う人もいる。
非常時に、いつものこと、を優先させる人もいるのです。

「いつものこと」はいつもそこにある、普通のことです。
私の生活にも、「いつもの普通のこと」震災とはあまり関係ないような、「いつもの仕事」もあります。

私は、震災直後から、その「いつもの普通の仕事」を「普通に」することに、普段以上の心を砕いて丁寧に行うようにしていました。
なぜだか、自分でもよくわかりませんが、そうすることが私の最もすべきこと、のように思えたからです。
私にとって「いつもの仕事」は、
とても大切にするべきこと、そして社会つながっている大事な出入り口として
私が出来るもっとも効果的な社会貢献の手段、でもあると考えていえるのです。
だから、私は「いつも」の仕事を、今優先させる。


非常な時に、はるか遠くを見ようとする人もいますが、自分の足元を見る人もいる。

私は、非常時に自分の身の回りを整えることが、結果的には全体の復興に寄与することだ、と思ったのです。
だからと言って、非常時に非常なところに身を置き活動する人の価値観がおかしいとも思いません。
そういう人がいること、そういう行動方法も、必要なのだと思います。

自分自身にとって、大事なこと、優先することは何なのか、という簡単にして難しい問いを
震災という非常事態は、問いかけているように思います。
そして、人の価値観がそれぞれだということも、平常時より顕わにして突きつけているように感じるのです。