ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

同潤会上野下アパート 取り壊し

2012-07-20 10:25:06 | 日本文化

上野の駅近く、突然異次元に迷い込んだかのようなスポット「同潤会上野下アパート」 とうとう、取り壊しが決まったようです。

今は「表参道ヒルズ」となってしまった、「原宿同潤会アパート」。見る影もありません。

上野下アパートは、上野の裏手、という「取り残された感」いっぱいの場所に、されに「時間が逆転した?」かのような建ち方をしています。

広い通り(清洲橋通り)をちょっと入ると、そこは異空間。

 

 

 

 

取り壊しの後は、マンションが建つようです。

上野周辺も、古い建物が、すごい勢いでマンションに建てかえらています。

ぼろぼろのアパート、昔ながらの「蔵」まだありますが・・・消滅も時間の問題なんでしょうね。

なんとかリノベーションの再利用でもいいので、残ってくれた方が、町の景色は魅力的なのに、と私は思います。

この歴史的アパートは「都市徘徊blog」でも紹介されています。 http://blog.goo.ne.jp/asabata/e/e65ca7b78cd1598a08df4cad336052a7

 

◆朝日新聞デジタル 7月1日配信記事より

 

最後の「同潤会アパート」、解体へ 東京・上野下 関東大震災の復興時に東京や横浜で建てられた同潤会アパートで唯一現存する「上野下(した)アパート」(東京都台東区)が、来年にも解体されることになった。 1929年完成、2棟計76戸の鉄筋コンクリート4階建て。約20人の居住者がいるが、権利者間で今年4月末に解体の合意に至った。14階建てマン…

 

強者どもが夢のあと・・・そんなところです。


『スマイルは0円』 は限界だ

2012-07-20 09:25:25 | 日本文化
最近気になっていることがある。

お店で買い物をすると、包装やショッピングバッグ(紙袋)に入れてくれるときに、セロテープを使う。
小洒落たお店なんかだと模様入りマスキングテープなんかで、ステキに貼ってくれる。

そのテープをベッタリと貼らずに先端をちょっと折り曲げて、はがすときの手掛かりを作ってくれる貼り方、をするところが、最近すごく増えた。
それって、いつからだろう?
少し前には、ベッタリと貼られたテープをはがすのにまずヒト苦労、包装紙を破きたくない主義の私はいつもイライラしていた。
かなり前、女性向けの雑誌なんかで、啓蒙?ビジネスマナー?のコラムなんかで、
「剥がすときの人のことを考えて、心配りしてテープが貼れる女性ってなんてステキ(もしくは仕事が出来る)」
ような記事を読んだ記憶がある。
その時は「ふーん、心配りって大事なのね」と思ったのだが、
今やそれは「気の利いた心配り」というより、接客業のマニュアルに近くなったのかもしれない。

そんなにオシャレでもなく、安いものを買って、こんな風に剥がし安く先を折り曲げたテープを貼ってもらうと
なんだかとっても申し訳ない気持ちになる。このお店に、この買い物に、この人に、そんなサービスをしてもらうのは
普通なことと受け取っていいのだろうか?それとも、このお店この人はステキだな、と感謝するべきなんだろうか。

家に帰って、幾重にも丁寧に包まれた綺麗な紙の包装紙を開けて、悩んだ挙句、結局その素敵な包装紙や紐をゴミ箱に捨てるときに感じる罪悪感に似ている。

…サービスが過剰。
今の日本のサービスは、病気の域に入ってる、という気がする。

美しい過剰包装、いらっしゃいませ、こんにちは+笑顔、割り箸、水、
そして行きついた「心遣い」というサービス。

とはいえ、数年前までは私自身「なんだこのサービスは、プロの仕事か?」と怒ってばかりいた。
接客の言葉遣いとか、たらいまわしの対応とか、品切れを把握していないとか、コールセンターに電話して待たされた時間が長すぎるとか…様々に

段々、そうかな?と思えてきた。
このサービスに従事している人は、一体いくらくらいのお給料なんだろう。
私の要求する「プロの仕事」をすることに見合ったお給料をもらっているのだろうか?イヤ、絶対に貰っていない。
それなのに、客のサービスへの要求はどんどん高くなり、雇い主は他社との競争に勝つための最終手段として「良いサービス」を投入しようとする、もう価格競争では疲れきっているから。
現場の一番声の小さい働き手は、対価に見合わない「心遣い」のサービスを、(無償の労働サービスとして)提供せざるを得なくなって、どんどん追いつめられる。

「気の利いた」「心遣い」は魔物だ。日本人なら誰でも持っているはずの美徳メンタリティーとして、社会的に認知されているものだ。出来なければ「日本人のくせに」「気が利かない」「無粋だ」と揶揄され、人間性にマイナスポイントをつけられる。
そうなったら、もうそれは人格問題だ。

そんなエスカレートが、もう行きつくところまで行きついて、サービスの現場の人がどんどん過労死したりしているのだと思う。


結論

もっと大らかに、ルーズになる努力をしよう。自分に対しても相手に対しても。日本社会全体が。

もしくは、日本人が得意とする「心遣い」を要求し、また提供する側もそれを武器にするなら、それ相応の対価を払おう。
日本人のメンタリティーや伝統としての「心遣い」は、それが出来る「余裕」があってこそ。
それが得意ならば、その対価を堂々と要求したい、世界に対して。

私個人的にはバランス主義なので、もう少し社会全体がルーズでいい加減を許容するようになり、いいサービスにはちゃんとした対価が支払われる社会、が好きだ。

電車やバスは、もうちょっと遅れても文句を言わないし、「いらっしゃいませ」に「こんにちは」と笑顔はついていなくてもかまわないし、テープはベッタリ貼ってもらって結構だと思う。

サービスへの過剰な要求と、社会全体の疲弊具合は比例しているのかもしれない。
時給850円の仕事に対して、1200円の見返りを求めることは、もう止めたいと思う、私自身も労働者の一人として。




「制度を改正するために個人を攻撃する必要はありません。」

2012-07-14 05:40:20 | 気になる出来事記録メモ
7月12日 毎日新聞の朝刊 全国版 16面 15段(一面)にこの意見広告が載りました。
広告主は #CIVILACTIONJAPAN(シビルアクションジャパン)

事の起こりは5月に、センセーショナルに報道された
「芸人河本氏の親族が、河本氏が高給を得ているにもかかわらず扶養義務を果たさず、生活保護を受給している」
事件でした。
人気芸人である河本氏は、涙の謝罪記者会見を開くに至り
大物政治家が、この顛末を煽り、
政治の場での生活保護受給資格の改正論議となりました。

私は、この河本氏一連の報道からおきた「ざわざわした動き」「様々な意見や価値観のぶつかり合い」がtwitter上で激しく飛び交うのを見ていました。

そのうち、煽った政治家やマスコミに対して『こういう下衆いやりかたはおかしい』(この広告を企画実行した匿名の「twitter上では#oiehoie氏」の言葉によると)という意見を発しよう
ネット社会の対岸にある報道機関である「大新聞社」に意見広告を載せよう
広告費を募金で募ろう
という発案がされるさまを、twitterのタイムラインで、見ていました。

その後、募金の為の口座が開設され、募金が開始され、次々と募金が入金がされ、批判や新手の募金詐欺だという意見が多く発せられ、開設されたHPはロクに運用されず、広告案をデザインする(ボランティアの?)デザイナーが手を上げ、広告代理店との交渉が始まり、新聞社の選定と交渉が行われ…ているらしい様子を日々twitteri上で、かなりつぶさに見ました。

「ているらしい様子」というのは、すべてtwitterでの当事者のツウィートを読んで知る、というだけで、本当に実際何が行われているかを、確かめる術は何もないからです。

ただ、すべての証明が、「意見広告が大新聞社の15段に載る」というの最後の結論一点のみによってされる、という図式でした。

そして、7月12日毎日新聞15段の意見広告が出たのです。

私自身は、
主宰の#noiehoie氏について
何者だかはっきりしない、けれど自らを右翼と称し(本当にその思想が右翼かどうかは疑問)、反原発デモ等の先頭に立って活動している、ある種の市民政治活動家の部類の人だろう
tweet内容を見ている限り、賢そう(知識水準が高そう)だし、発言に一貫性はあり筋は通っている
という印象を持っていて、
賢い彼の活動キャリアの一端をまんまと担がされたくはないし、頑なに自ら匿名を貫くことに違和感を持っていたし、
なにしろこういうお祭りのような流れに乗じることへのある種の違和感を持ちつつ、でも相当な興味を持ってことの推移を見ていました。
「制度を改正するために個人を攻撃する必要はありません」という意見に対しては同意していたからです。

結局参加しないで傍観しているのもなんだか高みの見物的で嫌だし、きっと私自身が後からなんやかや言いたくなるのだから参加しないのはたぶん卑怯だろう、と思い募金に参加したので広告主の一人でもあります。

多くの実名著名人(文化人・知識人)アカウントは、ほとんど沈黙を守っていました。
賛同、応援の態度を示しつつも傍観を守っていました。
私も、自分が参加したことを公開しなかったので、彼らの気持ち(危惧や保身)はわかる気がします。
フォロワーの多い著名人アカウントが、せっせと協力したならば、また違った活動になり結果も違ったかもしれません。
#noiehoie氏も、ここまで著名人アカウントに「無視」の態度を取られるとは、予想外だったのかもしれません。

広告が掲載された後、一連の活動と広告趣旨を評価する意見があちこちで見られました。
著名な文化人の方々にも。

意見広告がでたことで、この動きは終息するのか、それともwebの発信力が従来のマスメディアを動かしたということが
何かを起こすのか、引き続き見続けて行きたいと思っています。
web上では、匿名、実名入り混じり、様々な価値観や意見が存在し、ぶつかり合っています。そのさまは、テレビ・新聞・雑誌のような従来マスメディアが捨て去ってしまったことのように思います。目を覆いたくなるような誹謗中傷や自分にとって受け入れがたい意見も、否応なしに目に入ります。そこに世の中がある、気がします。

【世の中は、いつも忘れっぽいから】厚生労働省調査へ「胆管癌」

2012-07-11 09:02:44 | 気になる出来事記録メモ
ほんとうに小さな扱いで始まった「胆管癌」事件
中小零細の印刷業の現場をたまたま知っていたので、これは重大なことなんじゃないかという気がしていて、気になっていた。

日本は欧米と違い零細企業の町工場に勤務する人の割合が高い。
大企業を頂点とするサプライヤーチェーンの巨大ピラミッドが社会構造に組み込まれているから。

同じ作業の現場といっても、大工場の現場と零細工場の現場は、何もかもが違う別世界だ。
いまどき「女工哀史」のようなことも、普通に起きていておかしくない、と思っていた。
そんな現場で働く人も、自分の置かれた環境やポジションをよくわかっている。

何もわかっていないのは、常に恵まれた環境にある「大手」の人の方だ。お王の中小零細の現場に比べて、自分たちの環境がどれほど特殊なのか、何も知らない。まあ知る必要もなく生きていける、のかもしれないが。

そして、これは「町工場vs大手工場の現場」に限ったことではない。

「現実を知らなきゃいけない」のは、「持たざる人」のほうではなく、「持っている」方の人なのだし、そちら側からしか物事を解決できないのも現実社会というものだと思う。


◆7月11日 時事ドットコム

600の化学物質分析へ=患者の職種調査も-印刷会社の胆管がん・厚労省

 大阪市の校正印刷会社の元従業員らが相次いで胆管がんを発症した問題で、厚生労働省は11日までに、発がん性物質による職場の健康被害を防ぐため、10年かけて約600の化学物質について調査する計画をまとめた。
 職場で規制されず使用されている約6万の化学物質のうち、年間の製造・輸入量が1トンを超えるものについて発がん性を検討。文献などで危険性を絞り込んだ約600の化学物質について、発がんの危険性を調べる。危険性が確認されれば、防毒マスクの着用や排気装置の設置といった規制措置を取るとしている。
 また、印刷会社以外にも胆管がんを多く発症する職種がないか、病院を通じて患者の職種も調べる。(2012/07/11-05:35)

【世の中は、いつも忘れっぽいから記録メモ】フィルム映画の行方

2012-07-08 06:38:10 | 気になる出来事記録メモ
映画のデジタル化は2013年に完了する、らしい。
デジタル化の完了とは、イコールフィルムプリント映画の終了 を意味しているのだろう。

技術の進歩には、必ず光と影両方の側面がある。

マイナーな単館系ミニシアター、アート系、名画座と言われる映画と映画館をずっと愛してきた(わりには足を運んでいないのが罪だとは思う)映画好きとしては、負の面の心配で、心がいっぱいだ。

フィルム映画は、どうなっていくのか。
ミニシアターは激減するのか。
地方の単館系映画館は消滅するのか。
実は、デジタルよりもフィルムの方が、長期保存に適しているということであればフィルムアーカイブはどうなるのか。

以下、あちこちの記事 備忘録 ***************************************

☆東宝株式会社 公式HPより

映画館のデジタル化

○映画=テクノロジーの進歩
「2010年、3D元年」という言葉を一度は耳にしたことがあるでしょうか。

映画は、常に時代の最先端技術とともに進化します。一般的に映画の誕生とされる、フランスのリュミエール兄弟によるシネマトグラフの一般公開(1895年12月28日)から1世紀以上が経ち、テクノロジーの進歩とともに数々の名作が誕生。そして現在、日本では急速に映画のデジタル化の動きが広まっており、それをさらに加速させたのが3D大作映画の公開でした。

3Dについてご説明をする前に、まずは映画館のデジタル化について触れておきたいと思います。


○映画館のデジタル化とは


従来、映画館で作品を上映する際には、アナログフィルムを使用していました。このフィルムを一切使用せず、デジタルデータであるDCP(※)を素材とし、デジタル・プロジェクターで上映する方式のことを「デジタル上映」といいます。

デジタル上映が普及すると、デジタルカメラで撮影した映像をコンピュータで編集し、データ形態で映画館に配信しプロジェクターで上映することが可能となるため、製作・配給・興行のそれぞれの段階で作業の効率化が可能となります。

この動きは、2005年のハリウッドメジャースタジオによるDCI標準化(※)の発表を契機に、アメリカを中心に進んできました。一方、日本では映画興行側(映画館)が受け持つこととなる、サーバーやプロジェクターへの高額な設備投資の関係上、慎重な姿勢が保たれてきました。

しかし、2009年から現在にかけての3D映画の大ヒットを受け、2006年に96スクリーンと言われたデジタル上映可能なスクリーン数は、2010年末時点で763スクリーンと増加し、映画館のデジタル化は一気に進むことになりました。
※DCP(Digital Cinema Package):暗号化・圧縮化された映像・音声・字幕データ等全てを含む上映用ファイル。
※DCI(Digital Cinema Initiatives):デジタルシネマの映写及び配給に関する技術仕様を制定することを目的に、2002年にハリウッドのメジャー映画制作スタジオ7社が設立した業界団体


○デジタル化のメリット

映像品質向上映像や音声がデジタルデータ化されているため、フィルムにおけるテープ表面の磨耗による品質劣化がなく、鮮明な画像を常にお客様に提供することが可能。様々な上映形態の実現1本のファイル転送で複数スクリーンでの上映や、オンライン配信によるスポーツやライブの生中継が可能。字幕版と吹替版の切り替えも簡単に。コスト削減撮影費用、フィルムを扱う人件費、発送・保管にかかるコスト等が削減可能。

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☆シネマトゥデイ映画ニュース 2011年11月24日記事

 24日、現在開催中の第12回東京フィルメックスで公開シンポジウム「デジタル化による日本における映画文化のミライについてPart 2」が開催され、瀬々敬久監督、村上淳、大分県のミニシアター「シネマ5」の田井肇氏、日本大学藝術学部映画学科の古賀太教授らが参加し、活発な議論を戦わせた。

 冒頭、まず田井氏がミニシアターが置かれている現状を解説。それによると、映画が音声を得た「トーキー」、そして色彩を得た「カラー」に続く映画の革命といわれる「デジタル化」。シネコンを中心にデジタル化は着々と進んでおり、2013年にはすべての映画館のデジタル化が完了予定。それに伴い、35ミリフィルム上映がなくなってゆくことが予想されているという。今回のシンポジウムは、それによりアート系などマイナーな映画が上映の可能性が狭まる「映画文化の多様性の危機」が心配されるというテーマで開催された。

 デジタルシネマの設備投資は1,000万円前後。しかし、ミニシアターがその設備を導入するのは困難が伴う。そこで考え出されたのがVPF(バーチャル・プリント・フィー)というシステムである。これはつまり、これまで約20~30万円程度かかっていたフィルムの現像代・輸送コストなどが、デジタル化によって実質ゼロになるため、その分配給会社が浮いたお金をVPFサービサー(現在、日本にはソニー系、ブロードメディア・スタジオなど3社がある)に支払い、映画館からデジタル上映機器の利用料を徴収することで、映画館のデジタル化を推進しようというもの。

 現在、アート系と呼ばれるような小規模公開の映画は2~5本程度のフィルムを現像し、それらを全国に巡回させている。たとえば1本のフィルムが5か所の映画館で巡回上映されるとしたら、VPFのシステムでは配給会社が一か所で上映するごとに7~9万円を払わなければいけなくなる。シンポジウム内では、これが、芸術性は高くてもヒットの見込みが低い作品は配給会社が供給を躊躇(ちゅうちょ)するようになり、アート系映画が観られなくなる、というのがこの問題の本質であるとも指摘された。

 田井氏は「2013年には日本の映画館のデジタル化が完了するといわれているが、それはつまりデジタル化しきれなかった地方単館系の映画館を苦しめ、廃業させるということによってもたらされるもの」と指摘する。また、仮に現像代20万円を稼ごうとする場合、1週間で160~170人程度を動員しなければならないといい、地方ミニシアターの場合、年間上映される作品の中で興収20万円を超えなかった作品は半数近かったという。さらにわかりやすく解説するために、「キネマ旬報ベスト10」「映画芸術ベスト10」に選ばれた作品で、地方のミニシアターで興収の低かった作品が挙げられると驚きの声が。そこに挙げられた主な作品は『エグザイル/絆』『愛のむきだし』『SR サイタマノラッパー』『チェイサー』『イースタン・プロミス』『ヘヴンズ ストーリー』などなど……。「今までは(1館あたり)10万円すれすれで採算を度外視してでもやってきた映画がゴロゴロある。でもVPFによってデジタル化を遂げた場合、半分以上の映画は配給会社から断られるようになり、上映ができなくなる」という警鐘に言葉を失う会場内。

 もちろん日本でも経済産業省がデジタル上映の設備投資に支援金を出すなど、公的な援助も行われている。決してデジタル化は悪の権化というわけではなく、「フレキシブルな上映プログラムが組める」「地方都市でもロードショー作品を早い段階で観ることができる」「オペラやライブ上映といったこれまでにないコンテンツを観ることができる」といったメリットがある。田井氏も「デジタル化という映画史上最大の革命が起きているのに、革命実感がない。デジタル化によって、地方でも東京と同時にロードショーを開始できる。メジャーとマイナーの差が埋められる本当の革命ができるはず。何でデジタル化したのに、映画の入場料が下がらないのかとか、もっとフランクな声が出てきてもいいはずだ」とコメント。いまだ解決策の見えないデジタル問題であるが、日本の映画文化を守るため、これからも活発な議論を期待したい。(取材・文:壬生智裕)

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☆「フィルム映画を捨てないで!」
国際フィルムアーカイブ連盟 70周年記念マニュフェスト 国立近代美術館フィルムセンターHPより

映画フィルムは、わたしたちの文化遺産の欠くことのできない一部であり、また、わたしたちの歴史と生活のユニークな記録ともなっています。フィルム・アーカイブは、公的なものも私的なものも、そうしたフィルムを収集し、安全に保管し、文書化し、現在の人々と未来の世代とが、研究のためあるいは楽しみのために、それらを利用できるようにすることに責任を負っている機関です。

 現在、65を越える国々から130以上の加盟がある国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF/フィアフ)とその会員機関は、過去70年にわたって200万以上の映画フィルムを救済してきました。その一方で、特定のジャンルや地域、映画史の時代区分については、その映画作品残存率が10%を大きく下まわっているという事実も知られています。

 FIAFはその70周年を機に、世界に向かって新たなスローガン「映画フィルムをすてないで!」を提起します。もしあなた自身のところできちんと映画を保管しておくことができないのなら、FIAFとその会員機関は喜んでそれができるアーカイブを探す手助けをいたします。映画フィルムは、文化的にかけがえのないものであり、それが特に専門家の手にあれば、長期にわたって存続できるものなのです。

 今日の映像技術が、デジタルの分野で達成される発展を力にして前進していることは十分に認めつつも、しかしFIAF会員は、今後も映画フィルムを収集しフィルムとして保存し続けることを決意しています。この方針は、デジタル・ボーンの映像遺産を保存するための効果的な方法の開発に対して相互補完的な関係をもつことになります。映画を作りまた保管する、プロとアマチュアとを問わないすべての人々に、また、世界の映画遺産を安全保護することに責任をもつすべての政府関係者に対して、FIAF加盟機関は、強くこの使命遂行への協力を求めます。

 「映画フィルムをすてないで!」というスローガンは、フィルムの所有者が、そのフィルムを、より安定したフィルム・キャリアに転写することによって、あるいは明らかに重大な情報欠損を引き起こすことがない解像度でデジタル・ドメインにスキャンすることによって、フィルムのコンテンツを適切に確保し得たと考えたとしても、当のフィルムを投棄・廃棄してはならない、ということを意味しています。フィルム・アーカイブやミュージアムが映画フィルムをフィルムのまま保存することを決意しているのには、次のような理由があります。

●映画フィルムは、映画作家の直接的な監督のもとに創造されたもの、あるいはカメラマンによって捕らえられた歴史的瞬間の記録です。いずれのタイプであれ、それらはますます重要となる可能性を秘めた人造物であり、世界の文化遺産の一部です。フィルムは手で触れることができ、目で読み取ることができるモノであり、美術館・博物館が所蔵する作品や歴史的文物と同様に、慎重な取り扱いを必要とします。

●映画フィルムは物理的・化学的に脆弱であるとも言えますが、適正に保管され怠りなく扱われれば何世紀にもわたって存続できる安定した素材であるとも言えます。その寿命は、のちに開発されたビデオテープのような映像キャリアなどよりもはるかに長いということがすでに証明されています。一方、デジタル情報は、機械的な読み取り/翻訳がなければ価値をもたず、また、デジタル情報が載っているキャリア素材は、物理的・化学的な劣化に対して十分な耐久性を持たず、さらに読み取り/解釈に必要なハードウェアやソフトウェアは陳腐化を免れません。

●映画フィルムは現在のところ映像にとって最良の長期保存メディアです。それはわれわれが手にすることのできる製品のなかでもっとも標準化され国際化されたものの一つであり、今も高解像度メディアとしての可能性を秘めています。フィルムに含まれる情報は定期的な移し替え(マイグレーション)を必要とせず、また、その操作システムの頻繁な更新を必要としません。

●アーカイブの倉庫に保管されているさまざまなフィルムは、そこからあらゆる複製物が作られる原版素材です。それらから複製物の完全さ不完全さが判定されます。デジタル技術が進歩すればするほど、映像の内容に手を加えたり、恣意的に改変することが容易になってしまいます。しかしながら、不正な改変や不当な歪曲が行われたとしても、もとのフィルムが適切に保管されていれば、比較することによって、いつでもそうした違いを見つけだすことができます。

 映画フィルムを決してすてないで!――たとえ、あなたが何か良い新製品が現れたと思ったとしても。将来、どんな映像技術が現れたとしても、今あるフィルムのコピーこそは、わたしたちを過去の業績と確かな何かとに結びつけてくれているのです。フィルム・プリントは存続します。フィルムをすてないで!

高額な医療費 「生きたい」は妄執

2012-07-07 09:30:54 | Weblog
昨日の「NHK首都圏特報部」
7月 6日(金)  「命の薬が使えない ~がん患者の苦悩~」
2月からキャンペーンで伝えてきた「がんを生きる」。
最後の放送となる今回、「がんで闘病しながらどう生きるのか」をさらに考えていく。
今回NHKが独自に行った2500人の患者と家族に向けたアンケート調査で、
治療の経済的な負担が大きいと答えた人が70%以上にものぼった。
医療の進歩でがんは、「長くつきあえる病気」になってきた一方、それを支える最新の抗がん剤などの投与で医療費は高騰。
高額医療費を支える制度を利用しても毎月10万円もの薬代を、背負わなければならない患者もいる。
また途中で治療を断念してしまう患者も少なくない。
番組ではがんを乗り越えて生きる人たちにどんな支えが必要か、考えていく。

NHKでは、2月から「がんを生きる」キャンペーンを実施しているので、このテーマの番組は最近とみに多い。
確かに癌の治療費は高額だ。実際受けてみて、それまでの医療費自分の常識を覆されて、ビックリする、と思う。
私自身も、「高額医療費制度」を利用しているが、それでも自己負担額は生活を圧迫するレベルだと思う。

癌医療は、ここ10年くらいで劇的に進化しているらしい。
癌は、「死に至る病」から、「慢性疾患」になった、と言われている。
少し前までは、癌は告知を避けられるほど、致死率の高い病気だったが、早期発見、治療薬の開発、手術の進歩、放射線治療の進歩等々で、癌をり患すれば死に直結するということも無くなってきて、癌は普通に告知されるようになった。

考えてみてほしい、
それまで致死率が高かった、病気が治るようになった、しかし治癒というわけではなく、生存するためには治療の続行が不可欠な「命の引き延ばし」作戦でもある。

それまでは、死んでいた病気の人がさらに生存するためには、費用がかかる。死ねば治療費はそれ以上かからないのだから、当然だろう。

医学も科学だから進歩を前提に研究される。進歩のためには研究費や開発費が投入される。
その費用は、どこかで調達しなければならない。

経済が発展している状態なら、上がり続ける研究や治療の費用に対応できるだろう。
でも、経済が停滞している今、その費用はどこから捻出するのだろう。

自分で稼げる以上の治療費は払えない。それは基本だと思う。個人レベルでも国家レベルでも。
そういいきってしまうと、「では貧乏人は死ねと言うのか」「何人も平等に生きる権利があるのに、経済差で命の重みが違うのか」ということになる。

・………………
ところで、そんなに生きたいですか?
どうしてそんなに生きたいのですか?

医療が発達して、病気の発見や解明が進み、かなり自分の寿命がわかるようになった。
自分の寿命は可能性がある限りどこまでも延ばしたい、という生き方で本当にいいのだろうかと思ってしまう。
自分の寿命は自分で決めませんか。治療の終了が経済的要因だっていいではないですか。

自分には可能な治療、不可能な治療がある、その可能不可能を分けるのは経済的要因かもしれないし、自分の生理的身体的要因かもしれない。環境のせいかもしれない。
ひとそれぞれに、可能なこと不可能なことがあるのは、差別でも格差でもなく個性かもしれない。
持って生まれた、遺伝子に組み込まれた「寿命」というものかもしれない。
その命の限界を受け入られず、手に入らない延命の術を渇望する方が、人間として不幸な状態に思えてならない。

「生きたいのに生きられない」気持ちがもたらす絶望感。
それが、お金の問題だと思う辛さ。お金って魔物ですね。

もっと自然に成り行き任せの死を受け入れられればいいのに。
どこまでも追求すれば果てのないのが人間の欲望です。
そして、その欲望の究極は「生きること」なのでしょう。

果てることにない「欲望の増殖」に人間が食いつぶされる気がしている。



夏越の祓いに茅の輪をくぐっていろいろ払い落したい…

2012-07-01 09:15:26 | 日本文化
今年も6月の晦日を迎えました。
夏越の祓い、茅野輪をくぐりに
毎年初もうでをしている近所の神社(小さいけれど古い神社のようです)矢先稲荷神社にを訪ねました。
思いのほかひっそり。
夕方5時から、払いの儀式があるようなので、その時間は人が来ているのでしょうか。

昨年も夏越の祓いに行きました。
去年は小野照先神社、こちらは富士塚があり(けっこう大きい)夏越の祓いに合わせて「山開き」が行われていました。
山開きの日だけ、富士塚登山が出来るのです。
それも一興でしたが、

今年は、ひっそりお参りしたかったので、よりこじんまりした矢先稲荷へ。





矢先稲荷神社

「寛永19(1642)年11月23日、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立。
京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけられました。
ご祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀りります。ご神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼(じげん)大師(天海大僧正)によって寄進され、「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっています。

創建以来、創業、学業、人徳の成就と武運長久の神徳に、武士、町人を問わずに尊信を篤くしました。
ところが約60年後の元禄11(1698)年9月6日、浅草を中心として大火で焼失してしまい、三十三間堂の方は深川に移転を命ぜられてしまいましたが、その鎮守である当社は信仰心の篤い町民の要望で当地の産土神として再建が許されました。
その後も関東大震災、東京大空襲などで幾多の困難に遭いましたが、いずれも難をくぐりぬけて現在に至っています。」
(浅草名所七福神 から抜粋)


昨年の夏越の祓いから、一年、世の中も私個人も周りでは様々なことが起こり過ぎて
いささか疲れました。
毎日毎日、現在進行形で増大している不安をニュースで煽っていますから、世の中のけっこう多くの人が疲れているのではないかと思います。

矢先稲荷神社は、ひっそりしていて、心落ち着きました。
梅雨の晴れ間、妙に暑くて夏がそこに居ることを感じることが出来ました。

茅の輪をくぐると、嫌な気分がスッキリ取り払われて、ひょっこり爽やかな夏が目の前に現れそうな気がしましたが
そうそう簡単なものでもないです。
ただ、茅の輪を三回行ったり来たりくぐっていると、なんだかそれは黄泉の国に向かる地下世界へ繋がっているような気がしました。

夏越の祓いには、「水無月」を食べないと。
そう思って、神社の周りの和菓子屋さんへ行っても、ない。
そうか…水無月を食べるのは、宮中の習わし。京都の風習だったのでした。
京都に住んでいた時、6月晦日に、仕事中に、同僚の女性が「今日はみんなで食べようと思って」といって水無月を買ってきてくれたことを思い出しました。京都人には当たり前の習慣だったのですね。

ここはお江戸の下町でした。水無月、下町の古い和菓子屋さんにはなかったのです。