昨日の「NHK首都圏特報部」
7月 6日(金) 「命の薬が使えない ~がん患者の苦悩~」
2月からキャンペーンで伝えてきた「がんを生きる」。
最後の放送となる今回、「がんで闘病しながらどう生きるのか」をさらに考えていく。
今回NHKが独自に行った2500人の患者と家族に向けたアンケート調査で、
治療の経済的な負担が大きいと答えた人が70%以上にものぼった。
医療の進歩でがんは、「長くつきあえる病気」になってきた一方、それを支える最新の抗がん剤などの投与で医療費は高騰。
高額医療費を支える制度を利用しても毎月10万円もの薬代を、背負わなければならない患者もいる。
また途中で治療を断念してしまう患者も少なくない。
番組ではがんを乗り越えて生きる人たちにどんな支えが必要か、考えていく。
NHKでは、2月から「がんを生きる」キャンペーンを実施しているので、このテーマの番組は最近とみに多い。
確かに癌の治療費は高額だ。実際受けてみて、それまでの医療費自分の常識を覆されて、ビックリする、と思う。
私自身も、「高額医療費制度」を利用しているが、それでも自己負担額は生活を圧迫するレベルだと思う。
癌医療は、ここ10年くらいで劇的に進化しているらしい。
癌は、「死に至る病」から、「慢性疾患」になった、と言われている。
少し前までは、癌は告知を避けられるほど、致死率の高い病気だったが、早期発見、治療薬の開発、手術の進歩、放射線治療の進歩等々で、癌をり患すれば死に直結するということも無くなってきて、癌は普通に告知されるようになった。
考えてみてほしい、
それまで致死率が高かった、病気が治るようになった、しかし治癒というわけではなく、生存するためには治療の続行が不可欠な「命の引き延ばし」作戦でもある。
それまでは、死んでいた病気の人がさらに生存するためには、費用がかかる。死ねば治療費はそれ以上かからないのだから、当然だろう。
医学も科学だから進歩を前提に研究される。進歩のためには研究費や開発費が投入される。
その費用は、どこかで調達しなければならない。
経済が発展している状態なら、上がり続ける研究や治療の費用に対応できるだろう。
でも、経済が停滞している今、その費用はどこから捻出するのだろう。
自分で稼げる以上の治療費は払えない。それは基本だと思う。個人レベルでも国家レベルでも。
そういいきってしまうと、「では貧乏人は死ねと言うのか」「何人も平等に生きる権利があるのに、経済差で命の重みが違うのか」ということになる。
・………………
ところで、そんなに生きたいですか?
どうしてそんなに生きたいのですか?
医療が発達して、病気の発見や解明が進み、かなり自分の寿命がわかるようになった。
自分の寿命は可能性がある限りどこまでも延ばしたい、という生き方で本当にいいのだろうかと思ってしまう。
自分の寿命は自分で決めませんか。治療の終了が経済的要因だっていいではないですか。
自分には可能な治療、不可能な治療がある、その可能不可能を分けるのは経済的要因かもしれないし、自分の生理的身体的要因かもしれない。環境のせいかもしれない。
ひとそれぞれに、可能なこと不可能なことがあるのは、差別でも格差でもなく個性かもしれない。
持って生まれた、遺伝子に組み込まれた「寿命」というものかもしれない。
その命の限界を受け入られず、手に入らない延命の術を渇望する方が、人間として不幸な状態に思えてならない。
「生きたいのに生きられない」気持ちがもたらす絶望感。
それが、お金の問題だと思う辛さ。お金って魔物ですね。
もっと自然に成り行き任せの死を受け入れられればいいのに。
どこまでも追求すれば果てのないのが人間の欲望です。
そして、その欲望の究極は「生きること」なのでしょう。
果てることにない「欲望の増殖」に人間が食いつぶされる気がしている。
7月 6日(金) 「命の薬が使えない ~がん患者の苦悩~」
2月からキャンペーンで伝えてきた「がんを生きる」。
最後の放送となる今回、「がんで闘病しながらどう生きるのか」をさらに考えていく。
今回NHKが独自に行った2500人の患者と家族に向けたアンケート調査で、
治療の経済的な負担が大きいと答えた人が70%以上にものぼった。
医療の進歩でがんは、「長くつきあえる病気」になってきた一方、それを支える最新の抗がん剤などの投与で医療費は高騰。
高額医療費を支える制度を利用しても毎月10万円もの薬代を、背負わなければならない患者もいる。
また途中で治療を断念してしまう患者も少なくない。
番組ではがんを乗り越えて生きる人たちにどんな支えが必要か、考えていく。
NHKでは、2月から「がんを生きる」キャンペーンを実施しているので、このテーマの番組は最近とみに多い。
確かに癌の治療費は高額だ。実際受けてみて、それまでの医療費自分の常識を覆されて、ビックリする、と思う。
私自身も、「高額医療費制度」を利用しているが、それでも自己負担額は生活を圧迫するレベルだと思う。
癌医療は、ここ10年くらいで劇的に進化しているらしい。
癌は、「死に至る病」から、「慢性疾患」になった、と言われている。
少し前までは、癌は告知を避けられるほど、致死率の高い病気だったが、早期発見、治療薬の開発、手術の進歩、放射線治療の進歩等々で、癌をり患すれば死に直結するということも無くなってきて、癌は普通に告知されるようになった。
考えてみてほしい、
それまで致死率が高かった、病気が治るようになった、しかし治癒というわけではなく、生存するためには治療の続行が不可欠な「命の引き延ばし」作戦でもある。
それまでは、死んでいた病気の人がさらに生存するためには、費用がかかる。死ねば治療費はそれ以上かからないのだから、当然だろう。
医学も科学だから進歩を前提に研究される。進歩のためには研究費や開発費が投入される。
その費用は、どこかで調達しなければならない。
経済が発展している状態なら、上がり続ける研究や治療の費用に対応できるだろう。
でも、経済が停滞している今、その費用はどこから捻出するのだろう。
自分で稼げる以上の治療費は払えない。それは基本だと思う。個人レベルでも国家レベルでも。
そういいきってしまうと、「では貧乏人は死ねと言うのか」「何人も平等に生きる権利があるのに、経済差で命の重みが違うのか」ということになる。
・………………
ところで、そんなに生きたいですか?
どうしてそんなに生きたいのですか?
医療が発達して、病気の発見や解明が進み、かなり自分の寿命がわかるようになった。
自分の寿命は可能性がある限りどこまでも延ばしたい、という生き方で本当にいいのだろうかと思ってしまう。
自分の寿命は自分で決めませんか。治療の終了が経済的要因だっていいではないですか。
自分には可能な治療、不可能な治療がある、その可能不可能を分けるのは経済的要因かもしれないし、自分の生理的身体的要因かもしれない。環境のせいかもしれない。
ひとそれぞれに、可能なこと不可能なことがあるのは、差別でも格差でもなく個性かもしれない。
持って生まれた、遺伝子に組み込まれた「寿命」というものかもしれない。
その命の限界を受け入られず、手に入らない延命の術を渇望する方が、人間として不幸な状態に思えてならない。
「生きたいのに生きられない」気持ちがもたらす絶望感。
それが、お金の問題だと思う辛さ。お金って魔物ですね。
もっと自然に成り行き任せの死を受け入れられればいいのに。
どこまでも追求すれば果てのないのが人間の欲望です。
そして、その欲望の究極は「生きること」なのでしょう。
果てることにない「欲望の増殖」に人間が食いつぶされる気がしている。