このブログではたいへん珍しい話題ではありますが、このごろまたしてもマスコミを賑わせているイジメ問題。
痛ましい事件の増加を受け、あわててお役所が対策機関を設け、「傍観者も加害者である」と至極真っ当なことをわざわざ声明にしましたね。
おいおい。
今さらどんだけ当たり前のことを言ってんだい。
わたしゃそんなこととっくの昔に知ってたよ。
...と容赦なく突っ込みたくなるのもやまやまですが、遅ればせながら公の機関がそういう見解をあらためて認識してみせるのは、きっと意味のあることだと思います。
ちょっと遅すぎた気がしないでもないけどね。
もう一度いいますが、イジメの傍観者はすなわち加害者です。
いえ、ある意味実行犯より悪いといってもいい。
少なくとも私の意見では、実行犯よりもっと許せないのが傍観者ですね。
ってこんなこと力説してますが、とりたてて私が苛められてたわけではありません。というより、自覚の上では苛められてると思って気にしたことはなかったですね特に。
でも、とりわけ小中学校の頃だと、いじめる生徒やいじめられる生徒が必ずいました。
そうするときまって不思議な現象がおこるんですが、いじめている生徒に追従していじめる側に加わる生徒が必ずいるんです。
ここでいう「いじめる側」というのは、直接手を下す人間だけではありません。
いじめている人間をさらに煽るような言動をするとか、見て見ぬフリするのなんかも十分に「いじめる側」ですよ。
不思議...そう、それは私にとって「不思議」以外の何物でもない行為です。
だって、いじめている張本人には(たとえそれがどんなにくだらなくて一方的で逆ギレめいた理由であっても)それなりにいじめに走る理由があると思うんですよ。
相手への逆恨みかもしれないし、単に自分がイライラしてるのかもしれません。いわば理性を失っちゃった状態にあるわけですね。
しかし、周囲の人間にはわざわざその人をいじめる理由なんて何もないはずでしょう。少なくとも、同じ時に同じ相手をいじめる理由を持った人がそんなに大勢現れるなんてありえないはずです。
なのになんで自分まで一緒にイジメに加わるのか、わけがわかりません。
私は小学校に入って初めてイジメを目にした時からそう思っていたので、はなから苛める側には加わりませんでした。
クラスの皆から無視されている人だろうが、喋りたければ喋りますよ。
周囲の人間が勝手にいじめの標的に選んだくらいで、自分まで友達付き合いを変える必要はないです。
だって私にはその人をいじめる理由が何もなかったんだもの。当然です。
これは私の正義感からしたことではなく、たんなる自己中の一環です。
そういえば中学にあがるときも、「髪を短くしないといじめられる」といわれたって自分は長い髪を手放す気にはならなかったからそうしませんでしたし、通学の自転車も皆が乗ってる高くてダサイ指定自転車を買わないといじめられるといわれましたが、それにはとても乗る気になれなかったので違うモデルを買いました。
いずれも私がやりたいようにやったところで誰にも迷惑をかけるものではありませんから、勝手にやっております。自己中ってことですな。
だから私の態度は全然褒められたものじゃないんですが、もしこんな自己中ばっかりならこんなにもイジメが社会問題になることはないのではないかという気がしないでもないです(笑)。
そもそも、仲間はずれを極端に恐れて、目立たぬよう人と同じにするのを良しとする風潮がこういう大掛かりなイジメを生んでいるのだと、私は思います。
もし「人と違うことをしたくない」というくだらないことこのうえない理由でイジメに加わる人間が一人もいなくなれば、いじめる側が理性を失ったたった一人(あるいは数名)だけになるわけで、いじめられている人をかばう人も現れるでしょうし、いじめる側をいさめる人もいるでしょう。
いずれにしてもいじめる側のテンションが下がり、たいして長続きしないはず。
いじめる側に加わらなかったために、自分をいじめの標的にする程度の人間とは、付き合う価値もありません。そんな人の存在は気にしなくてよいと思います。
どうしても気にしてしまうのなら、学校を替えるなり通うのをやめるなりすればよいのです。
とまあそんなわけで、超個人的な見解を述べさせていただきますと、私はいじめや犯罪の首謀者とか世界征服を企む悪の帝王(←これはむしろ好き)よりもずっと、他人の顔色をうかがってとりあえず長いモノに巻かれとけ的な人間の方が、いっっっっとう許せないのであります。
そこまで大きなスケールじゃなくて日常でも、仲良しグループから仲間はずれにされるのを恐れるあまり自分の意志というものが持てない生き方はシ~ンジラレナ~イと思っている今日この頃。
そんなのはほんとの「仲良しグループ」じゃないんで、さっさと見切りをつけちまいな。と江戸っ子ばりにお節介を焼いてしまいます。
まあ、これって逆立ちしても他人と同じになれない人間の開き直りかもしれませんが(笑)。
痛ましい事件の増加を受け、あわててお役所が対策機関を設け、「傍観者も加害者である」と至極真っ当なことをわざわざ声明にしましたね。
おいおい。
今さらどんだけ当たり前のことを言ってんだい。
わたしゃそんなこととっくの昔に知ってたよ。
...と容赦なく突っ込みたくなるのもやまやまですが、遅ればせながら公の機関がそういう見解をあらためて認識してみせるのは、きっと意味のあることだと思います。
ちょっと遅すぎた気がしないでもないけどね。
もう一度いいますが、イジメの傍観者はすなわち加害者です。
いえ、ある意味実行犯より悪いといってもいい。
少なくとも私の意見では、実行犯よりもっと許せないのが傍観者ですね。
ってこんなこと力説してますが、とりたてて私が苛められてたわけではありません。というより、自覚の上では苛められてると思って気にしたことはなかったですね特に。
でも、とりわけ小中学校の頃だと、いじめる生徒やいじめられる生徒が必ずいました。
そうするときまって不思議な現象がおこるんですが、いじめている生徒に追従していじめる側に加わる生徒が必ずいるんです。
ここでいう「いじめる側」というのは、直接手を下す人間だけではありません。
いじめている人間をさらに煽るような言動をするとか、見て見ぬフリするのなんかも十分に「いじめる側」ですよ。
不思議...そう、それは私にとって「不思議」以外の何物でもない行為です。
だって、いじめている張本人には(たとえそれがどんなにくだらなくて一方的で逆ギレめいた理由であっても)それなりにいじめに走る理由があると思うんですよ。
相手への逆恨みかもしれないし、単に自分がイライラしてるのかもしれません。いわば理性を失っちゃった状態にあるわけですね。
しかし、周囲の人間にはわざわざその人をいじめる理由なんて何もないはずでしょう。少なくとも、同じ時に同じ相手をいじめる理由を持った人がそんなに大勢現れるなんてありえないはずです。
なのになんで自分まで一緒にイジメに加わるのか、わけがわかりません。
私は小学校に入って初めてイジメを目にした時からそう思っていたので、はなから苛める側には加わりませんでした。
クラスの皆から無視されている人だろうが、喋りたければ喋りますよ。
周囲の人間が勝手にいじめの標的に選んだくらいで、自分まで友達付き合いを変える必要はないです。
だって私にはその人をいじめる理由が何もなかったんだもの。当然です。
これは私の正義感からしたことではなく、たんなる自己中の一環です。
そういえば中学にあがるときも、「髪を短くしないといじめられる」といわれたって自分は長い髪を手放す気にはならなかったからそうしませんでしたし、通学の自転車も皆が乗ってる高くてダサイ指定自転車を買わないといじめられるといわれましたが、それにはとても乗る気になれなかったので違うモデルを買いました。
いずれも私がやりたいようにやったところで誰にも迷惑をかけるものではありませんから、勝手にやっております。自己中ってことですな。
だから私の態度は全然褒められたものじゃないんですが、もしこんな自己中ばっかりならこんなにもイジメが社会問題になることはないのではないかという気がしないでもないです(笑)。
そもそも、仲間はずれを極端に恐れて、目立たぬよう人と同じにするのを良しとする風潮がこういう大掛かりなイジメを生んでいるのだと、私は思います。
もし「人と違うことをしたくない」というくだらないことこのうえない理由でイジメに加わる人間が一人もいなくなれば、いじめる側が理性を失ったたった一人(あるいは数名)だけになるわけで、いじめられている人をかばう人も現れるでしょうし、いじめる側をいさめる人もいるでしょう。
いずれにしてもいじめる側のテンションが下がり、たいして長続きしないはず。
いじめる側に加わらなかったために、自分をいじめの標的にする程度の人間とは、付き合う価値もありません。そんな人の存在は気にしなくてよいと思います。
どうしても気にしてしまうのなら、学校を替えるなり通うのをやめるなりすればよいのです。
とまあそんなわけで、超個人的な見解を述べさせていただきますと、私はいじめや犯罪の首謀者とか世界征服を企む悪の帝王(←これはむしろ好き)よりもずっと、他人の顔色をうかがってとりあえず長いモノに巻かれとけ的な人間の方が、いっっっっとう許せないのであります。
そこまで大きなスケールじゃなくて日常でも、仲良しグループから仲間はずれにされるのを恐れるあまり自分の意志というものが持てない生き方はシ~ンジラレナ~イと思っている今日この頃。
そんなのはほんとの「仲良しグループ」じゃないんで、さっさと見切りをつけちまいな。と江戸っ子ばりにお節介を焼いてしまいます。
まあ、これって逆立ちしても他人と同じになれない人間の開き直りかもしれませんが(笑)。