ご無沙汰しました。
東日本大震災発生以来、一度は自分の目で見ておきたいと思っていた東北、
それも原発被災地である福島に行ってきました。
北三陸に行くことは3回とも計画だけで、脚の病気のため実現しませんでしたが、
福島行きは、地元の健康友の会の秋の旅行に参加することが出来ました。
10月初めに3度目の蜂窩織炎の入院から退院できた時点から、
極力静養に努め、夜の外出は控え、必死でした。周囲には危ぶむ声もありましたが
何とか出発にこぎつけることが出来ました。
地元の原発事故について被災者の様々な願いを組織しながら「原発
問題住民運動全国連絡センター代表委員」という長い肩書を持つ伊
東達也氏に被災地いわき市、広野町、楢葉町、富岡町を案内して頂
きました。
放射能のために、人が住めなくなった震災の傷跡そのままの富岡町、
除染で洗浄されて、新築のようにきれいになった家々はあるのだけれど人がいない楢葉町、
人は住んでいて、コンビニなどもあるけれど、津波でさらわれた家の土台だけが残っているところが、
そこここに見られる広野町などなど。
木々は紅葉しはじめて自然は息づいているのですが、人が住んでいない、いえ住めない町々には、
胸が苦しくなりました。
そして、目に見えない放射能にむしばまれた地域は、
いわゆる地震や津波に被災した土地とは明らかに異なる様相を呈していました。
昼間しか入れないひなんちいきや、いまだにいる間も入れない強制避難地域ともに
生きものがいないのです。
自然が秋を迎えているのに、田畑は雑草だけが生い茂り、目にした生きものはイノシシ2頭だけでした。
除染が住んだ地域は、家屋がまるで新築のようにきれいなのですが、
人間が住んでいない場所は何とも言い難い空気が漂い、胸が苦しくなってきました。
人間が追い払われた空間です。
ここに住んでいた人たちは、仮設住宅や、県外の受け入れ地域で仮の生活を営んでいるのです。
家族がバラバラになり、故郷をおわれ、安心して帰ることも出来ず、
住む家を無くし、生業を無くし、家族を失い、希望を失い・・・・・。
でも何とか生き抜こうと力をふりしぼっているのです。
苦しみと不安は続き、ストレスの多い生活です。
彼ら自身に何の非があったわけでもないのに、
受けた被害に対しては極めて乏しい支援しか受けられてないため、将来が全く見通せないという。
それに加害者である東電は賠償を低額にすることばかり考えていると。
あのソ連でさえ、被災者については移り住む家を提供し、働く場所を提供したというのに。
豊かな経済力を持つ日本の政府や東電は殆ど責任をとっていません。
たまりかねた被災者の方たちは、元の生活をかえせという裁判闘争を開始されたと聞きました。
私たちのこれからの安全な未来のためにも原発を無くすこと、
現在の被災者の方々のために原発事故の完全な賠償をすること。
あの冷え切った命が感じられない町々を実際に見たことによって、
私は決して福島を忘れることはないだろうと思いました。
東日本大震災発生以来、一度は自分の目で見ておきたいと思っていた東北、
それも原発被災地である福島に行ってきました。
北三陸に行くことは3回とも計画だけで、脚の病気のため実現しませんでしたが、
福島行きは、地元の健康友の会の秋の旅行に参加することが出来ました。
10月初めに3度目の蜂窩織炎の入院から退院できた時点から、
極力静養に努め、夜の外出は控え、必死でした。周囲には危ぶむ声もありましたが
何とか出発にこぎつけることが出来ました。
地元の原発事故について被災者の様々な願いを組織しながら「原発
問題住民運動全国連絡センター代表委員」という長い肩書を持つ伊
東達也氏に被災地いわき市、広野町、楢葉町、富岡町を案内して頂
きました。
放射能のために、人が住めなくなった震災の傷跡そのままの富岡町、
除染で洗浄されて、新築のようにきれいになった家々はあるのだけれど人がいない楢葉町、
人は住んでいて、コンビニなどもあるけれど、津波でさらわれた家の土台だけが残っているところが、
そこここに見られる広野町などなど。
木々は紅葉しはじめて自然は息づいているのですが、人が住んでいない、いえ住めない町々には、
胸が苦しくなりました。
そして、目に見えない放射能にむしばまれた地域は、
いわゆる地震や津波に被災した土地とは明らかに異なる様相を呈していました。
昼間しか入れないひなんちいきや、いまだにいる間も入れない強制避難地域ともに
生きものがいないのです。
自然が秋を迎えているのに、田畑は雑草だけが生い茂り、目にした生きものはイノシシ2頭だけでした。
除染が住んだ地域は、家屋がまるで新築のようにきれいなのですが、
人間が住んでいない場所は何とも言い難い空気が漂い、胸が苦しくなってきました。
人間が追い払われた空間です。
ここに住んでいた人たちは、仮設住宅や、県外の受け入れ地域で仮の生活を営んでいるのです。
家族がバラバラになり、故郷をおわれ、安心して帰ることも出来ず、
住む家を無くし、生業を無くし、家族を失い、希望を失い・・・・・。
でも何とか生き抜こうと力をふりしぼっているのです。
苦しみと不安は続き、ストレスの多い生活です。
彼ら自身に何の非があったわけでもないのに、
受けた被害に対しては極めて乏しい支援しか受けられてないため、将来が全く見通せないという。
それに加害者である東電は賠償を低額にすることばかり考えていると。
あのソ連でさえ、被災者については移り住む家を提供し、働く場所を提供したというのに。
豊かな経済力を持つ日本の政府や東電は殆ど責任をとっていません。
たまりかねた被災者の方たちは、元の生活をかえせという裁判闘争を開始されたと聞きました。
私たちのこれからの安全な未来のためにも原発を無くすこと、
現在の被災者の方々のために原発事故の完全な賠償をすること。
あの冷え切った命が感じられない町々を実際に見たことによって、
私は決して福島を忘れることはないだろうと思いました。