TBA

(仮)

言葉とは 置き換えられないものなはず

2018-10-11 | テレビ番組

きょうは雨が降ったりやんだりだし、

湿気もあってせんたくものもかわかない。

あいかわらず足も痛いし。


すわってしまえばなんとかなるんだけど、

移動の歩きがつらいし、車の乗り降りもつらい。


となりにぎゅうぎゅうに詰められると、

ほんとに手も足も出なくなる。


せまい駐車場でとりあえず広いところに、

一瞬だけ停めて荷物だけおろして、

すぐに出ようとしたら、二台ほど軽自動車が入ってきた。

どうやらおともだちらしく、手を振りあったあとに、

自分の車のとなり、一つ空いたスペースに、

一台は頭から(!)もう一台はその左となりにバックで。

まさかの運転席のドアがぶつかる状態。

で、詰め詰めに止めてるもんだから、

二人ともすごくきゅうくつそうに車から出る始末。


この人たちがとなりじゃなくてよかった、と思ってたら、

もう一台おばさまの軽。

4ドアなんだけど左の後ろがぼっこりへこんでる。


あわてて車を出しましたとさ。


そのあとはなるべくドアを目いっぱい開けられる場所に。




「100分de名著」見た。

大きい本屋さんで探したら新潮文庫は1巻だけなかった。

いやいや1巻ないとダメでしょうと思って、

在庫の検索をしてみたら13冊…

いやいや、どこに?


で、図書館に行けてないのでまだ借りられてない。

いらいらするし読まないほうがいいのかな。


でも、ギルバートのエピソードはなぜか知ってる。

何年も口きかなかったっていうやつ。

なにで知ったんだろう。


アンの個性がどうこうっていうより、

まわりの人がいい人すぎるだけのような。


ふつうはせっかく作った服に文句をつけようもんなら、

「もう着ないでいい」って言われてもおかしくない。


まず自分が変わることが必要なはずで、

ふつうはそんなにチャンスはもらえない。

ボタンを一回掛け違えたら一生そのまま。


アンはしあわせだったけど、

まわりの人の忍耐やがまんはあたりまえのものではないし、

自分の意見だけを押し通すのはわがままでしかない。

それを認めない人がいたとして批判されるべきでもない。

寛容を強要することこそ不寛容。


そして自分の不幸をすべて赤毛のせいにしていたアンだけど、

そうやって"不幸"を他人のせいにする人は少なくない。

他人のせいにしてる間は成長もしないし、なにも変わらない。

まさに「思考停止」状態。


こういう番組自体、うっかりすると、

そうなりがちな危険性は持ってるとは思うのだけど、

「安全基地」だとか「身体性」「ミラーニューロン」

「黄金の法則」「脱学校化」などなど、

講師の人の聞き心地のいい言葉への言い換えのせいで、

なんかうすっぺらい感じがしてしかたがない。


よく駅の売店にあるような、

「赤毛のアンに学ぶ人生論」的な本みたいな。


簡単に言い換えられないからこそ、本を読む意味があるのだろうと思うから、

彼の言葉で言い換えたものは、彼のフィルターを通った彼の考えでしかない。

我田引水とまでは言わないけれど。



まあ「お声がけ」なんていうのは、

「ギリギリセーフ」とか「皮肉として書いた」と並んで、

今年の真の流行語大賞にノミネートされていいくらいだし。
コメント
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