TBA

(仮)

自分で選ぶということ

2018-12-18 | テレビ番組

きのうあたりからそんなには寒くないかも。

でも、うっかり薄着で外に出たら寒かったけど。


ゆうべ寝ようとしたら、

母親が寝てる部屋から、どどーんってすごい音がした。

なんかあったかと思って部屋に入ったら、

棚の上にあったいろんなものが床に崩れ落ちてた。

ここ何年かのうちに積みあがったなにか。


もう夜中だったので、

もう崩れませんようにってお祈りしながら、

とりあえず元に戻しておいた。

次に時間あるときまでそのまま崩れませんように。

もう一回お祈りしておこう。




「100分de名著」スピノザ第3回


自由意志の否定。

本性に従っているときに自由を感じる。

そうでないときは不自由。

外部の原因による強制。

受動と能動 「やっている」か「やらされている」か

自分で選択しているようで、選択させられている。


結局、絶対神の意志っていう考え方が根底にあるのかな。


過剰に責任を負う必要はないという意味で、

言わんとしていることはわかる。

たぶん、追い込まれてしまう人って、

なにもかも自分の責任だと思い込む人が多いように思うし。


ただ、自己責任がまったくない、

というふうな論調に利用されてしまうとちょっと違うと思ってしまう。


カツアゲの例があったけれど、

たしかに最終地点ではお金を出すか出さないかの二択になってしまってるけれど、

もっと前の時点では、繁華街には行かないとか、

究極的には家から一歩も出ないとか、

そもそもカツアゲに遭わないようにするっていう選択もあったはず。


どこまでが自己責任なのか。


シリアの人なんかだと問題になってたのはたぶん、

行くなって言われてるところになぜ行ったのか、

行くならなぜ安全策を講じなかったのか、というところ。

だれが見ても危険がないところで拘束されて人質になったのだとしたら、

そんな議論にはならないはず。


当人にとって喜ばしくない状況に陥ったときに、

誰かのせいにするために「自己責任」なんてないと強弁しているようにも。

そんな無責任でいいのかな。


もうひとつ考え方を変えると、カツアゲに遭ったとしても、

かわいそうな輩に恵んであげてると考えることもできるし、

暴力に遭っても意地でもお金を出さない選択もできなくはない。


外部からの強制があったとしても、なにを選ぶかは自分の選択でもある。

"不登校を選ばされた"と思っているのと、

学校に行かないということを自分で決めたっていうことは違う。


「百鬼夜行シリーズ」の「絡新婦の理」なんかにもそういうのあったような。



あと、都合の悪いことはなんでもかんでも他人のせいにして、

自分は被害者の立場に立っておけばいいっていうように、

悪用されてしまう危険が潜んでそうな気もする。

陰謀論にもつながりそうだし。


被害者になることで"楽"なほうを選びやすくなるというのも本末転倒。


追い込まれて全部自分のせいって自分を責めてしまう人と

自由意志なんてないから全部他人のせいって開き直る人と、

両極端になるのもいかがなもんか思うし、

いろんな考え方があっていいのだと思うけれど…


それと「選ぶ」っていうことは、

自分自身に対して責任を持つことでもあるし、

誇りをもつということでもあるような。


日本というところはむかしから、

台風や地震や火山に津波といろんな災害に遭ってきた。

今年のいろんな災害でも外国人観光客は一斉にいなくなったりしたけれど、

それでも自分たちの先祖はこの土地にずっと暮らすことを選んできたし、

今も海外に逃げようとはなかなか考えない。

誰か外部から強制されてこの日本に住まわされてるわけではないはず。

自分たちで選んで守ってきた土地っていうこともあるのではないかな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする