NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#345 ザ・アイズリー・ブラザーズ「That Lady」(T-Neck)

2024-03-16 08:29:00 | Weblog
2024年3月16日(土)

#345 ザ・アイズリー・ブラザーズ「That Lady」(T-Neck)






ザ・アイズリー・ブラザーズ、72年リリースのシングル・ヒット曲。ルドルフ、ロナルド、オケリー、アーニー、マーヴィンのアイズリー兄弟、義弟のクリス・ジャスパーの作品。ロナルド&ルドルフ・アイズリーによるプロデュース。

アイズリー・ブラザーズは1954年結成の兄弟グループ。オハイオ州シンシナティ出身、同州ブルーアッシュに移住してボーカル・グループを始める。RCAレーベルと契約、59年シングル「Shout」でデビュー。

初のヒットはセプターレーベルから62年にリリースした「Twist And Shout」(パート・バーンズのカバー)。

64年にニュージャージーで彼ら自身のレーベル、T・ネックを設立。その頃、渡英前のジミ・ヘンドリックスが彼らのバックバンドに参加し、「Testify」などのレコーディングを残していたのは有名な話である。

T・ネックレーベルは成功せず、その後モータウンと契約、66年に「This Old Heart Of Mine(Is Weak For You)」でヒット。後続ヒットが出ないまま、68年にモータウンを去る。

T・ネックを復活させ、ブッダレーベルと販売契約して69年にリリースした「It’s Your Thing」が全米2位の大ヒット。これでようやく、アイズリー・ブラザーズの人気が安定するようになる。

以降ギターのアーニー、ベースのマーヴィン、キーボードのジャスパーらがあいついで参加、演奏するバンドとしてもパワー・アップしていく。

70年代は「Love The One You’re With」(スティーヴン・スティルスのカバー)「Pop That Thang」といったヒットを連発して、いわば彼らの快進撃の時代が到来する。本日取り上げた「That Lady」も、その波に乗って73年にリリース、大ヒットしたナンバーだ。

この曲はもともと、64年に「Who’s That Lady」のタイトルでUAレーベルよりリリースされたが、ヒットには至らなかったR&Bナンバー。これを70年代流にファンク・ロックにアレンジし再録音してリリースしたところ、3週連続で全米6位、R&Bチャートで2位と大ブレイクしたのだ。

当時の人気番組「ソウル・トレイン」に出演した時の彼らのパフォーマンスを観ていただこう。ロナルドのファルセット・ボーカルをフィーチャーしたメロウなファンク・サウンドが実にカッコいいが、中でも目を引くのはストラトキャスターを弾く、アーニーの姿だろう。

ヘア・バンドをしたスタイル、そしてストラトのソフトなディストーション・トーンは、既にこの世を去っていた天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリックスをモロに彷彿とさせる。別のソウル・トレインの回では、ジミヘンばりに歯で弾くシーンまであるぐらいだから、アーニー自身が意識していたのは100%間違いあるまい。

事実、アーニーは60年代に兄たちと共演している様子をじかに見たことで、ジミに大きな影響を受けていたそうである。

その鮮烈なジミヘン体験(まさに!)が、この一曲を新しく甦らせる原動力となったのである。

このアイズリー・ブラザーズの70年代ファンク・サウンドは、日本でも意外と信奉者が多い。その代表例は、やはり山下達郎だろう。彼の初期の作品群を聴けば、それは納得いただけるはず。

この曲を収めた73年のアルバム「3+3」も大ヒットとなり、最終的には200万枚以上を売り上げたという。

白人ロックのセンスを取り入れながらも、独自の黒いフィーリングを保持して、オール・アメリカンにアピールしたザ・アイズリー・ブラザーズ。70年の長きにわたって、第一線で活躍しているそのパワーは、やはり唯一無二のものだ。その音の洪水に、ぜひ溺れてみてくれ。






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音曲日誌「一日一曲」#344 ドクター・ジョン「Iko Iko」(Atco)

2024-03-15 07:37:00 | Weblog
2024年3月15日(金)

#344 ドクター・ジョン「Iko Iko」(Atco)






ドクター・ジョン、72年リリースのシングル・ヒット曲。ジェイムズ・シュガーボーイ・クロフォードの作品。ジェリー・ウェクスラー、ハロルド・バティストによるプロデュース。全米73位。5thアルバム「Dr. John’s Gumbo」に収録。

米国のシンガー/ピアニスト、ドクター・ジョンについては「一日一枚」で2回取り上げだが、共にどちらかといえばジャズ寄りのアルバムだったので、今回はドクター初期のニューオリンズ・サウンドに注目してみたい。

ドクター・ジョンことマルコム・ジョン・レベナック・ジュニアは1943年ルイジアナ州ニューオリンズ(以下NO)生まれ。もともとはギターをメインに弾いており、50年代からマック・レベナックの名前で活動していた。左手の重傷によりギターを断念、ピアノにシフトする。

67年にアルバム「Gris Gris(グリ・グリ)」でドクター・ジョンの名前でソロデビューを果たす。なぜその芸名になったかについてはいろいろと来歴があるが、書くと長くなるので割愛させていただく。

ひとつだけ説明しておくならば、ドクターというのは、西洋医学の医師ではなく、ブードゥー教の司祭、つまりまじない師の意味である。

そういう呪術的な、おどろおどろしい演出(実際その司祭の扮装でジャケ写にうつっている)で衝撃的なデビューをしたわけだが、単なる際物に終わらず、NO伝統のR&Bをきちんと継承したサウンドにより、ドクターは高い評価を得ることになった。

本日取り上げた「Iko Iko」はNOのフォークソング。それをR&Bシンガー、ジェイムズ・シュガーボーイ・クロフォード(34年生まれ)が「Jock-A-Mo」というタイトルでチェッカーレーベルより54年にシングル・リリースしている。

シュガーボーイ版は、ホーンをフィーチャーした、いかにも陽気でダンサブルなR&Bナンバーだ。ラテン色も濃い。

そして65年にはNOの女性ボーカル・グループ、ディキシー・カップスが「Iko Iko」としてカバー、全米20位のヒットとなった。これが、世間的には一番知られているバージョンだろうな。

これをさらに7年後、再び甦らせたのが、ドクター・ジョン版の「Iko Iko」というわけだ。

はっきりとしたセカンド・ライン・ビートにのせて、ドクターがその特徴ある塩辛声で、がなるように歌う。そして、転がるようなピアノ・ラインが続く。心地よいグルーヴが印象的なナンバー。

このキャッチーなサウンドでドクターは、NOサウンドを代表するアーティスト、プロフェッサー・ロングヘア(1918-1980)を継ぐ存在となったのだ。

「Iko Iko」はその後も幾つものアーティストにカバーされて、スタンダード化している。例えば、女性ボーカルグループ、ベル・スターズ、NOのインディアン民族色の強いザ・ワイルド・マグノリアス、レゲエシンガー、ジャスティン・ウェリントンとスモール・ジャムなど。

「Iko Iko」はいってみればNOサウンドのシンボルのような曲なのである。その歌詞も、ビートも。

筆者的には、かつてはハード・ロック一辺倒だった自分の音楽的嗜好を、セカンド・ラインという異種のビートを通じて、アメリカン・ミュージック全般に向けさせてくれた曲でもある。

「Gumbo」レコーディングに先立ち、ドクター・ジョンはローリング・ストーンズに招かれて、アルバム「Exile On Main Street」のレコーディングにコーラスとして参加しており(マック・レベナック名義)、そのアルバムは「Gumbo」リリースの一か月後に完成している。

世界一のロック・バンドにもその実力を評価されたことで、ドクター・ジョンはNOローカルの枠を越えて、世界的な知名度を得るようになる。

ドクターの出世作、NOサウンドの象徴的ナンバー、「アイコ・アイコ」。そのノリはまっこと強力無比だぜ。




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音曲日誌「一日一曲」#343 ハンブル・パイ「I Don’t Need No Doctor」(A&M)

2024-03-14 07:47:00 | Weblog
2024年3月14日(木)

#343 ハンブル・パイ「I Don’t Need No Doctor」(A&M)








ハンブル・パイ、71年11月リリースのライブ・アルバム「Peformance Rockin’ The Filmore」からの先行シングル・ヒット曲。ニック・アシュフォード、ヴァレリー・シンプスン、ジョー・アムステッドの作品。ハンブル・パイによるプロデュース。全米73位。

英国のロック・バンド、ハンブル・パイは、69年結成。何度も解散、再結成されており、現在もオリジナル・メンバーのジェリー・シャーリーを中心に活動が続いているが、私たちリスナーの印象に強く残っているのは、やはり最初の69年から75年までの、約6年間の彼らだろう。

それも大きく分ければ、第1期と第2期に分かれる。前者はピーター・フランプトン在籍時代、後者は71年後半にフランプトンが脱退して、元コロシアムのデイヴ・クレム・クレムスンが参加していた時代である。

「Performance〜」はまさにフランプトン時代最終期のライブコンサートを収録したアルバムで、アルバムのリリースを待たずして彼はバンドを離れる。

演奏場所は、米国ニューヨーク市のフィルモア・イースト。満場のオーディエンスを相手に繰り広げた、歴史に残るとまで言われた熱演を、2枚のLPレコードに収録したこのアルバムは、全米21位のヒットとなった。

本日取り上げた「I Don’t Need No Doctor」は、もともとレイ・チャールズが66年にヒットさせた曲。レイ・チャールズ・フリークとして知られる、ハンブル・パイのスティーヴ・マリオットがこの曲をステージのラスト・ナンバーとして選んだのも当然だろうな。

さらに辿っていけばこの曲、R&Bデュオ「アシュフォード&シンプスン」として知られるニック・アシュフォード、ヴァレリー・シンプスン夫妻らが作曲したナンバーである。夫アシュフォードのソロ曲として66年8月にリリースしたものの、ヒットはしなかった。

だが、いい曲にはすぐに目敏い(いや目は見えないけど)レイ・チャールズが気に入って10月にはカバー・リリース、世間に広く知られるようになった。

そして、再びカバーしてこの曲を永遠のスタンダードたらしめたのが、彼らハンブル・パイというわけである。

爆発的なイントロに始まり、アグレッシブなリフ、そしてマリオットの沸騰寸前の激しいシャウトが、オーディエンスの耳を襲う。

中間部には、フランプトンの流れるようなギター・ソロ、そしてオーディエンスとの熱いコール・アンド・レスポンスが延々と続く。

最後は、オーディエンスの期待を貯めに貯めて、再度の大爆発! いやー、これ以上のホットなライブがあるだろうか。9分以上という長尺もまるで意識させず、あっという間に時間が過ぎてしまう。

オリジナル、レイ・チャールズ版さえも上回る、熱過ぎるパッションがこのパフォーマンスには満ち満ちている。

その後も本曲は、幾つものアーティストによってカバーされている。若いリスナーには、ハンブル・パイよりもジョン・メイヤーによるバージョンの方がお馴染みかも知れない。

当世三大ギタリストのひとり、メイヤー君も、ギターではさすがに頑張っているのですが、ことボーカルにおいては、やはりマリオット御大には、足元にも及ばないな、というのが筆者の個人的意見であります。メイヤー・ファンには悪いけど。

真にソウルを感じさせる白人ボーカリストと言えば、スティーヴ・マリオットをおいて他にない、というのが小5の頃からその手の音楽を聴き続けて55年あまりの、ワタシの結論なのです。






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音曲日誌「一日一曲」#342 エディ・テイラー「Bad Boy」(Vee-Jay)

2024-03-13 07:46:00 | Weblog
2024年3月13日(水)

#342 エディ・テイラー「Bad Boy」(Vee-Jay)






エディ・テイラー、55年リリースのシングル・ヒット曲。テイラー自身の作品。

エディ・テイラーは、筆者がもっとも愛好する黒人ブルースマンのひとりなのだが、これまでほとんど取り上げることがなかった。強いて言えば、ジミー・リードを取り上げる時に、ついでに紹介した程度か。

本日、改めて彼のことを紹介させていただこう。エディ・テイラーことエドワード・テイラーは1923年ミシシッピ州ブノワ生まれ。農村に育ち、独学でギターを習得。幼なじみの友人が2歳年下のジミー・リードで、テイラーはリードにギターとハープを手ほどきする。

同州リーランド周辺の酒場などで演奏した後、48年にシカゴに移住。リードと共にヴィージェイレーベルの初契約アーティストとなる。リードは53年よりシングルをリリースしていく。

以降、テイラーは人気シンガーとなったリードのバッキングをつとめながらも、自らのシングル曲も少しずつ発表していく。その中でも、最もよく知られているのが、この「Bad Boy」だろう。

55年にリリースされた本曲は、リードのハープをフィーチャーしたスロー・ブルース。ブルース・スタンダードのひとつに挙げてもいい名曲だ。

エディ・テイラーの魅力は、どうしてもそのシブいギター・プレイを中心にして語られがちだが、どっこい彼の声もなかなかいい味わいがあると、筆者個人としては思う。

少しエグみのある個性的な声質が、ブルースのようなパーソナルな音楽には非常にフィットしている。

そしてテイラーが作るメロディは、シンプルで覚えやすいものが多い。また、歌詞にもグッと来るものがある。

「Bad Boy」はテイラー自身の境遇が歌詞に反映されている。ミシシッピの田舎を飛び出て汽車に乗り、遠い大都会シカゴに、単身やって来た不良青年(テイラー)。頼る者とてなく、ひとり強く生きていかねばならない。

心細さの一方、愛する女さえいればなんとかなるさというほのかな希望もある。こんな都市生活者の心情を、シンプルな歌にまとめるのが、テイラーは実にうまい。

翌年にはシングル「Big Town Playboy」をリリース、「Bad Boy」と共に、テイラーの代表曲となる。

前作と比べると、いかにも快活で自信に満ちた雰囲気のあるナンバーだ。そしてその「プレイボーイ」はその後終生、テイラーのニックネームともなる。その後シカゴ・ブルース界において、サイドマン、フロントマンの両面で30年の長きにわたって活躍する彼の、原点とも言える。

この2曲を続けて聴くと、ただのポッと出の不良青年から、都会生活をわがものとして、小粋にブルースを奏でる遊び人へと成長するさまが感じられるね。

個人的にはどちらかと言えば「Bad Boy」のやるせなく、頼りなげな感じが好きで、ブルース・セッションでもかなりの頻度で取り上げて演奏しております。

エディ・テイラーの独特の節回し、ソリッドなギターの響き、ジミー・リードの哀感たっぷりのブロー。これぞ、ブルースの真骨頂。何度聴いても飽きるということのない一曲。

この曲を生み出しただけでも、エディ・テイラーの名前は永遠にブルース史に刻まれてもいいと、筆者は思っている。

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音曲日誌「一日一曲」#341 10cc「Rubber Bullets」(UK)

2024-03-12 07:44:00 | Weblog
2024年3月12日(火)

#341 10cc「Rubber Bullets」(UK)






10ccのサード・シングル曲。73年リリース。メンバーのグレアム・グールドマン、ケヴィン・ゴドリー、ロル・クレームの作品。10ccによるプロデュース。

英国のロック・バンド、10ccは72年デビューの4人組。以前「一日一枚」でアルバムを取り上げたことがあるが、その「愛ゆえに」は2人編成になってからの作品なので、今回はオリジナル・ラインナップでの楽曲を取り上げてみたい。

元々バンドマンやプロデューサーであった彼らが集合、ジョークっぽいバンド名をつけて、シングル「Donna」で72年8月にレコード・デビューする。ドゥーワップ風のノスタルジックな曲調がうけてか、瞬く間に全英1位の大ヒットとなる。ちなみに、これはゴドリー=クレームコンビの作品。

元々は短期プロジェクト程度のつもりで録音した曲が意外やヒットして、10ccはパーマネント・バンドへと変化していく。

幸先のよいスタートを切った彼らが、翌年6月、1曲おいてサード・シングルで再び大ヒットを出す。それが本日取り上げる「Rubber Bullets」だ。

本曲ではロル・クレームがリード・ボーカルを取っており、そのファルセット・ボイスといい、コーラスといい、もろアメリカンなサウンドといい、かなりビーチ・ボーイズ、あるいはフィル・スペクターあたりを意識した爽快なポップ・チューンに仕上がっている。スマッシュ・ヒットも納得のいく出来映えである。

とはいえその歌詞内容は、サウンドの脳天気な雰囲気とは裏腹に、かなり毒を含んだものである。「10ccらしさ」として度々語られることのひとつに、「諧謔のきいた歌詞」があるが、この作品あたりから、既にその流れは始まっているのだ。

メンバーのエリック・スチュアートが後のインタビューで語ったところによると、歌詞の題材は、71年9月に起こった、米国ニューヨーク州アッティカの刑務所の、囚人暴動事件だと言う。あまりに劣悪な生活環境に対して改善を要求して、暴力的な手段で囚人が刑務所の役人と交渉したのだが、看守側、囚人側双方に37人もの犠牲者が出た。

この痛ましい事件をモチーフにして、刑務所で開かれたダンス・パーティで起きた惨劇を、華麗なポップ・ソングに仕立ててしまった。その手腕、さすが手だれのソングメーカー、10ccである。

リスナーもそのごきげんなビートに身体を揺らしながら「おかしな歌詞だな」ぐらいにしか思っていなかったのだろうが、よくよく聴けば、相当ヤバい表現が含まれている。「I love to hear those covicts squeal(囚人たちの叫び声を聞くのが大好きだ)」とかね。

この曲はヒットしたものの、一時BBCでは流れていなかったという話も残っている。刑務所の事件と称しながら実は当時の北アイルランド紛争のことを歌った曲だと解釈して、ポール・マッカートニーの曲「Give Ireland Back to Irish」などと同様に放送禁止になったらしい。お上って、すぐそういう邪推をするよね(笑)。

それでも、その後一応誤解は解けたようで、同年の12月のBBCテレビ「トップ・オブ・ザ・ポップス」には10ccが登場、この曲を堂々と演奏している(全て当て振りだけどね)。それも観ていただこう。

60年代的な懐かしさと、70年代の新しさが見事に溶け合ったサウンドは、今聞いても実にカッコいい。

初期のういういしい10ccを代表するナンバー。乗って踊って、当時の空気感を味わってみてほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#340 マンフレンド・マンズ・アース・バンド「Blinded By The Light」(Bronze)

2024-03-11 07:48:00 | Weblog
2024年3月11日(月)

#340 マンフレンド・マンズ・アース・バンド「Blinded By The Light」(Bronze)









マンフレンド・マンズ・アース・バンド、76年リリースのシングル・ヒット曲。ブルース・スプリングスティーンの作品。マイク・アペル、ジム・クレテコスによるプロデュース。

マンフレンド・マンズ・アース・バンド(以下アース・バンド)は英国のロック・バンドで、71年に結成された。

60年代に自らの名前をバンド名として、「マイティ・クイン」「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」など数多くのヒットを出していたマンフレンド・マン(キーボード)がリーダーで、ミック・ロジャース、コリン・パッテンデン、クリス・スレイドが当初のメンバーであった。

72年にファースト・アルバムをリリース。以前のマージー・ビート的なポップ・ロック路線から一転、マンのシンセサイザーをフィーチャーした、プログレッシヴ・ロックを追求するバンドとなった。

年に1、2枚のアルバムをリリースしたものの、一般的なポップ・リスナーからの受けは芳しくなく、シングル・ヒットとも無縁なバンドであったが、76年に大転機が訪れた。

万年地味を絵に描いたようなバンドがいきなり、全米1位の大ホームランをブチかましたのである。それがこの「Blinded By The Light(邦題・光に目もくらみ)」である。

76年リリースのアルバム「The Roaring Silence(邦題・静かなる叫び)」のオープニング・チューンとして収録されたこの曲は、7分余りという長さの大曲。

これをシングル・エディットして、先行リリースしたところ、見事スマッシュ・ヒットとなり、アルバムの売り上げにも大きく影響を与えた(全米10位)。

この曲は元々、米国のシンガー、ブルース・スプリングスティーンが73年、デビュー・シングルとしてリリースしたナンバー。それを約3年後に、アース・バンドカバーしたわけである。

正直言うと筆者は、アース・バンドがヒットさせた当時、元曲の存在をまったく知らなかった。このイカした曲が誰の作品か、気にも留めていなかった。おおかた、リーダーのマンフレンド・マンが作曲したんだろうなと、考えていたのだ。

もちろん、作曲したブルース・スプリングスティーンのことは知っていた。すでに74年の「Born To Run(明日なき暴走)」の大ヒットで、わが国でもけっこう人気を獲得していたからだ。

しかし、そこから遡ってデビュー・アルバム「Greetings From Asbury Park(アズベリー・パークからの挨拶)」を聴く、というほどファンでなかった筆者は、当然「Blinded By The Light」のオリジナルのこともまるで知らなかった。

インターネットもYoutubeもウィキぺディアも、いやプロモーション・ビデオさえなかった当時、洋楽関係の情報を入手するのは、とても難儀だったのだ。とにかく、レコード本体を手に入れる以外に、気になったアーティストの音を聴く手段は、ほぼほぼなかった。

というわけで、スプリングスティーンのオリジナルの存在を知り、実際に聴くのは、だいぶん後年のことになる。ロック・ファンとしては、お恥ずかしい限りだが。

そこで、二度ビックリ。プログレ系のアース・バンドがスプリングスティーンをカバーしたということ自体にも驚いたが、それ以上に、オリジナルとカバーがまるで別の曲のように聴こえたこともサプライズだった。

スプリングスティーンのオリジナルは、わりとオーソドックスな、R&B、ロックンロール的なスタイル。対してアース・バンドによるカバーは、緩急自在、変幻自在の万華鏡のようなプログレ・ハード・ロックだ。

言ってみれば、深淵を垣間見るような、奥深いサウンド。エコー、コーラス、シンセサイザーの使い方が実に秀逸だ。

歌い方もかなり異なり、少しラフなスプリングスティーンに対し、アース・バンドの当時のボーカル、クリス・トンプソンの方がよりテクニカルであり、繊細でもある(要するに、うまい)。

一聴して、同じ曲とは思えない。正直言って。アレンジの力ってスゴい!

だからこそ、リスナーにとってアース・バンドによるバージョンは、スプリングスティーンのカバーというよりは、まったくの新曲のように聴こえたのだと思う。

新鮮なものへの驚きこそが、ヒットの原動力。

アース・バンドはその後もアルバムをリリースし続け、いったん87年に解散したものの、91年に再結成して、なんと今もなお、活動を続けているという。

ヒット曲を出すことよりも、自分たちのやりたい音楽、質の高い音楽を追求することで、現在も地道にリスナーの支持を得ているのである。

ポピュラリティと高い音楽性の、奇跡の両立。マンフレンド・マンズ・アース・バンドは、それを具現化した稀有のバンドだと思う。

ただ一発のメガヒットといっても、とても並みのバンドには出せるものではない。リーダー、マンのサウンド感性は、ハンパじゃないと思うよ。




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音曲日誌「一日一曲」#339 スモール・フェイセズ「You Need Loving」(Decca)

2024-03-10 08:54:00 | Weblog
2024年3月10日(日)

#339 スモール・フェイセズ「You Need Loving」(Decca)






スモール・フェイセズのファースト・アルバムに収録された一曲。メンバーのスティーヴ・マリオット、ロニー・レーン、およびウイリー・ディクスンの作品。ジョン・パントリー、ドン・アーデンによるプロデュース。

英国のロック・バンド、スモール・フェイセズは「一日一枚」の方で2回取り上げているので、詳細については省かせていただくが、65年にバンド結成してまもなく、デッカレーベルからシングル「Whacha Gonna Do About It」でデビュー、チャート14位となったものの、しばらく人気は出なかった。

同年のセカンド・シングル「I’ve Got Mine」で火はつかず、翌年の3枚目「Sha La La La Lee」のヒットでようやくメジャーな存在となった。

そんな、まだブレイク前の65年5月にリリースしたのが、ファースト・アルバム「Small Faces」である。この中には、当時彼らがライブで毎回のようにオープニングで演奏していたナンバーも収められており、それがこの「You Need Loving」だった。

もともとこの曲は、62年にマディ・ウォーターズがリリースしたシングル曲「You Need Love」で、ウイリー・ディクスンの作品。

バックでは名手アール・フッカーがスライド・ギターを、ジョン・ビッグムース・ウォーカーがオルガンを奏でている。なかなかの佳曲だったが、チャートインには至らなかった。

ワンコードで延々と演奏される、このグルーヴ感あふれる曲に着目したマリオットとレーンのコンビは、歌詞の一部を変えて、バンドのレパートリーとした。

アルバムリリースの当初は、ふたりの名前だけがクレジットされていた。ちなみにディクスンは彼らのアルバム内容を知らなかったので格段のお咎めはなく、後に彼に配慮してか、名前が追加された。

ステージでは一番最初に演奏され、その激しいビートでオーディエンスを揺さぶり引きずり込んだ、そういうナンバーだったようだ。言ってみれぱ「つかみの一曲」。

オリジナルのマディのバリトン・ボイスとはまったく違った、超ハイトーンの声を持つマリオットの、エモーショナルなボーカル、そしてオリジナルとは大きく異なる荒々しいビート、ギター・プレイ。

他のモッズ系バンドとはひと味違った、強烈な個性がこのナンバーには横溢している。もしこの曲がシングル・カットされていたならば、リスナーに相当なショックを与えて結構なヒットになっていた可能性はあるな。

ところで、この「You Need Love」そして「You Need Loving」は、のちにゴジラの如く別の形態へと進化して、とんでもないヒット曲となる。

ロック通の方ならば、すぐにピンと来るだろう。そう、レッド・ツェッペリンの「Whole Lotta Love(胸いっぱいの愛を)」である。

「Whole Lotta Love」はZEPの69年リリースのセカンド・アルバム「Led Zeppelin II」のオープニング・トラックであり、同年に英国以外の世界各国でシングルリリースされ、米国では最初のスマッシュ・ヒット(全米4位)となった。日本でも同様である。

タイトルこそ変えてあるがこの曲、一聴すれば瞭然、間違いなく上記2曲のリメイクにほかならない。

いってみればこの曲がZEPをコアなロックファンだけでなく、ポップス・リスナー全般にまで知らしめたキラー・チューンとなったわけだが、オリジナルバージョン以上にスモール・フェイセズのバージョンが、それに与えた影響の大きさを感じさせる。サウンドにおいても、ボーカルにおいても。

実際、ZEPのメンバー、プラントとペイジはスモール・フェイセズのライブを好んで観に来ていたという。当然、「You Need Loving」も聴いているわけで、イカした曲探しに余念のないプラントたちのアンテナに引っかかるものがあったに違いない。

両者の歌詞の共通点などから、影響について細かく論じていくことも出来るのだが、やたら長ったらしくなってしまうので、そういうのはインターネットの専門サイトに任せておこう。

要は、先人のカッコいい音をいかに上手くパクるかが、ロックのキモ。

ロバート・プラントも、自分と同じぐらいハイトーン・ボイスを誇る先輩スティーヴ・マリオットを観て、大いにインスパイアされるものがあったはずだ。

それが「Whole Lotta Love」に結実した、そういうことだろう。

延々と続く、ワンコードの強力なグルーヴ。即興の歌詞を付け加えて、際限なく広がる言葉の洪水。

レッド・ツェッペリンの大成功へのレールを引いたのは、先輩バンド、スモール・フェイセズであったのだ。

歴史に「もし」を持ち込むのはナンセンスであることを承知で言えば、もし「You Need Loving」がシングルリリースされて大ヒットしていれば、ポップス史、ロック史は今とは違うものに変わっていたという気がする。

「Whole Lotta Love」の前形態、改めてじっくりと聴いてみてくれ。






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音曲日誌「一日一曲」#338 ジミー・ロジャーズ「Rock This House」(Chess)

2024-03-09 08:53:00 | Weblog
2024年3月9日(土)

#338 ジミー・ロジャーズ「Rock This House」(Chess)









ジミー・ロジャーズ、59年リリースのシングル曲。。ロジャーズ自身の作品。レナード・チェス、フィル・チェスによるプロデュース。

黒人ブルース・ミュージシャン、ジミー・ロジャーズは1924年ミシシッピ州ルールヴィル生まれ。アトランタ、メンフィスで育ち、ハープとギターを習得する。

イリノイ州イースト・セントルイスに移って、プロ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタート。仲間にはロバート・ジョンスンの義理の子、ロバート・ロックウッド・ジュニアがいた。

40年代半ばにシカゴに移住。ここからいよいよトップ・プロへの道が始まった。ハーレム・レーベルで46年ごろ初レコーディング。当時はハーピスト兼シンガーであった。

47年、マディ・ウォーターズの最初のバンドに、リトル・ウォルターと共に加入。ここでのギター・プレイが注目され、その一方でソロ・シンガーとしてもレコーディングするようになる。

50年のシングル「That’s All Right」がヒット、その後も少しずつリリースし、54年の「Chicago Bound」が代表曲となる。

マディ・バンドには54年まで在籍、その後ソロで独立、「Walking By Myself」を56年にヒットさせる。アルバムは長らくリリースしていなかったが、70年にチェス時代の編集盤「Chicago Bound」を発表、ロング・セラーとなる。筆者もそのアルバムでロジャーズの音を初めて聴いている。

本日取り上げたのは、59年にリリースしたシングル曲。アルバムとしては、84年の編集盤、チェス・マスターズ・シリーズの「Jimmy Rogers」に収められている。

のっけから、彼のスピーディなプレイが炸裂するジャンプ・ナンバーで、とにかくノリがいい。それと、ボーカルもなかなかキレ味がある。

一般的には、ロジャーズの歌声はのほほん、ほんわかとした癒し系と見られているが、この曲では早口でビシッと決めている。

ビル・ヘイリーの「Rock Around The Clock」にも通ずる、ノリの良さがある。

ギターについても、他の彼の代表曲やマディ・バンドでの演奏に比べると格段にスピーディで、ところどころジャズィなイデオムも交えたテクニカル・プレイだ。

「ド」が付くぐらい、50年代シカゴ・ブルースの典型みたいな、いつものロジャーズとはひと味違った世界が味わえるのだ。

ロジャーズは、アップテンポでロッキンなこの曲を、T・ボーン・ウォーカーにとっての「T-Bone Shuffle」のような、彼自身を代表するようなナンバーにしたかったのだと思う。スローやミディアム系のイメージの強いロジャーズではあったが。

せっかくこの曲を取り上げたので、チェス時代よりずっと後の時代のバージョンも取り上げておこう。

93年リリースのライブ盤、「Jimmy Rogers with Ronnie Earl And The Broadcasters」(Crosscut)における演奏である。91年録音。

1953年生まれの白人ブルース・ギタリスト、ロニー・アールとそのバンド、ザ・ブロードキャスターズをバックに行ったライブ、これが本当にご機嫌な出来なのだ。

ジミーはオリジナルの持つジャンプ風味を生かしながらも、モダンなブルース・ギター・スタイルを織り込んだ至芸を披露する。そして、若い頃に比べると、だいぶん塩辛味の増したシブいボーカルも。

バックのノリも最高だ。ドラムスのパー・ハンスンの叩き出すシャッフルはさすがの本場モノ。ハープのシュガー・レイ・ノーシアも、かつてのロジャーズの盟友リトル・ウォルターを彷彿とさせる深いトーンでブロー。極め付けは、デイヴ・マックスウェルの転がるようなピアノ・ソロ。まさに、絶好調のサウンド。

若いロジャーズも、67歳のロジャーズも、甲乙つけ難い好演。ノレる、ノリまくれるブルースとは、まさにこいつだ。

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音曲日誌「一日一曲」#337 アルバート・キング「Bad Luck Blues」(Parott)

2024-03-08 07:59:00 | Weblog
2024年3月8日(金)

#337 アルバート・キング「Bad Luck Blues」(Parott)






アルバート・キングのファースト・シングル曲。1954年リリース。彼自身の作品。

これまで「一枚」「一曲」で何度となく取り上げてきたアルバート・キングだが、いいものはいくら聴いても変わらずいい。そういうわけでマイ・フェイパリット・ブルースマン、再三のご登場である。

アルバート・キング(以下アルバート)は1923年ミシシッピ州インディアノーラ生まれ。5歳の頃、母親と共にアーカンソー州フォレストシティに移住、農民として働き、独学でギターを習得する。

50年に同州オセオラのブルースクラブ経営者と知り合い、同地に移住してハウス・バンドに加入する。数年後さらにインディアナ州ゲイリーに移って、ジミー・リード、ジョン・ブリムらと知り合い、一緒に活動するようになる。当時はドラムスを担当していた。

ネルスンという本名を、人気スターのB・B・キングにあやかって、キングという芸名に変えたのもその頃だ。

アルバート自身の名義での初レコーディングは、53年11月、パロット・レーベルにおいてのセッションである。

本日取り上げた「Bad Luck Blues」は、以前取り上げた「Won’t Be Hangin’ Around」(61年録音)などと共に、チェスのコンピレーション盤「Door to Door」に「Bad Luck」のタイトルで収められているので、比較的簡単に音源を購入出来る。

筆者も、それで初めて聴いたクチである。「Door to Door」のアルバム・タイトルは、言うまでもなく、本曲の歌詞にちなんだものであろう。

曲のパーソネルは、アルバートのボーカル、ギターに加えてジョニー・ジョーンズのピアノ。他のギター、ベース、ドラムスについては不明である。

ある意味、アルバートの出世曲である「Born Under A Bad Sign」のプロトタイプとも言える歌詞内容。

貧しく、教育もろくに受けられなかったため、いわゆる文盲で、その日暮らしを続けてきたアルバートの生活実感から生まれたブルース。嘘偽りのない心情が淡々とそこに語られている。

なんとか極貧生活から這い出して、子供の頃から目指していたプロのミュージシャンにはなったものの、豊かとはおよそ言えない現状。果たして、明るい未来はあるのか?

アルバートのまだどこか頼りなげなギター、そしてそれに絡むジョニー・ジョーンズのメランコリックなプレイがいかにも印象的なスロー・ブルース。

およそ派手さはないものの、味わいは深い。あえてシャウトしないソフトなボーカルに、アルバートらしさを感じるね。

すでに三十路を迎えた遅咲きのブルースマン、アルバート・キング。だが、快進撃はようやくこれから始まるのだ。

オセオラやゲイリーでの鳴かず飛ばず時代を経て、アルバートは次にセントルイスに移住する。そこで初めて人気シンガーとなり、ボビン・レーベルで8枚のシングルをリリース、61年には「Don’t Throw Your Love on Me So Strong」でR&Bチャート14位というヒットを出す。

さらに66年にはスタックス・レーベルと契約、翌67年に「Crosscut Saw」「Born Under A Bad Sign」とヒットを立て続けに出したことで、彼の名前は全国的なものとなり、白人ファンをも獲得する。

最初の小さい一歩ではあったが、このファースト・レコーディングがあったからこそ、アルバート・キングのプロ・キャリアは始まったのだ。お馴染みのゴリゴリのギター・プレイとは違った側面が見えて興味深い一曲、ぜひチェックしてみて。

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音曲日誌「一日一曲」#336 アーサー・コンリー「Sweet Soul Music」(Atco)

2024-03-07 07:02:00 | Weblog
2024年3月7日(木)

#336 アーサー・コンリー「Sweet Soul Music」(Atco)






アーサー・コンリー、1967年のシングル・ヒット曲。コンリー自身、オーティス・レディング、サム・クックの共作。レディングによるプロデュース。

アーサー・コンリーは46年ジョージア州マッキントッシュ郡生まれの黒人シンガー。同州アトランタで育ち、10代はアーサー&ザ・コルヴェッツというグループのフロントマンとして活動、NRCレーベルより3枚のシングルをリリース(63〜64年)。

ソロシンガーとなり、ボルチモアのRu-Jacレーベルからリリースした「I’m a Lonely Stranger」(64年)が当時トップシンガーのオーティス・レディングの目に止まり、レディング自身のJotisレーベルより再録音版がリリースされる快挙となる。

その後、ふたりは67年にじかに会うことになる。彼らはソウルの先駆者サム・クック(64年没)の曲「Yeah Man」を改作した「Sweet Soul Music」を作って、マッスル・ショールズでレコーディング、コンリーのシングル曲としてAtco傘下のFameレーベルより67年2月にリリースした。

これが、とんでもない大ヒット。全米2位となっただけでなく、全英で7位となったほか、ヨーロッパの多くの国でトップ10入りを果たしたのである。ミリオンセラーを記録、ゴールド・ディスクを受賞している。

その内容は、どストレートなソウル・ミュージックへの賛歌。歌詞には、レディング、コンリーが愛好する他のアーティストの名前や曲名などを、ふんだんに織り込んでいる。100パーセント、ソウルへのオマージュなのである。

ざっと例を挙げてみると、サム&デイヴの「Hold On, I’m Comin’」、ウィルスン・ピケットの「Mustang Sally」、ミラクルズの「Going to a Go-Go」、ルー・ロウルズの「Love Is a Hurtin’ Thing」などなど。レディング自身の「Fa-Fa-Fa-Fa-Fa(Sad Song)まで入っているのが、微笑しい。

もちろん、ソウルの帝王、ジェイムズ・ブラウンも最大級の敬意を持って取り上げられている。

言って見れば、「企画もの」ソングなのだが、コンリーの達者なボーカルのおかげで、単なるイロモノでなく本物のソウル・ミュージックに仕上がっている。

この大ヒットの勢いをかりて、コンリーは67年中に2枚のアルバムをアトランティックレーベルよりリリースしている。一躍、スターダムにのし上がったのである。

しかしその後の67年12月、レディングは飛行機事故のため亡くなっており、彼らのコラボレーションはこの曲だけで終わることとなってしまったのは、いかにも残念である。

余談だが、クレジットは当初ふたりの名前だけだったが、クックのビジネス・パートナーのJ・W・アレクサンダーが「クックの曲を無断使用している」と訴訟し、裁判の結果、クックの名前を連名で入れることで解決している。

コンリーのその後はといえば、「Shake, Rattle & Roll」など何曲かの小ヒットを出したものの、当然ながら「Sweet Soul Music」のような大当たりは二度と出なかった。2匹目の泥鰌は、やはりいなかったのである。

70年代半ばに活動拠点をヨーロッパに移し、2003年に57歳で亡くなるまでマイペースの音楽活動、プロデューサーとしての活動を続けた。

「一発屋」の典型のようなコンリーの生涯だが、人生にただの一度、規格外の大当たりを出せただけでも、相当な才能と強運の持ち主だったんだなと思うよ。

この曲は極東の小国、日本においてさえ、けっこう話題になり、ソウルファンを増やすことにつながった。

かのオーティス・レディングさえ「ドック・オブ・ベイ」のヒットまでは、わが国ではほぼマイナーな存在であり、マニアにしか聴かれていなかったことを思えば、この「スウィート・ソウル・ミュージック」こそが、日本におけるソウルの火付け役だったのではないだろうか。

何度も聴いたよというオールド・ファンも、初めて聴くよというヤング・リスナーも、心を沸き立たせてやまないナンバー。ぜひ、聴いてみてくれ。

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音曲日誌「一日一曲」#335 ジョン・プライマー「Hard Times」(Blues House Productions)

2024-03-06 07:31:00 | Weblog
2024年3月6日(水)

#335 ジョン・プライマー「Hard Times」(Blues House Productions)






ジョン・プライマーの2022年リリースのアルバム「Hard Times」よりタイトル・チューン。プライマー自身の作品。

黒人ブルースマン、ジョン・プライマーは、1945年ミシシッピ州カムデン生まれの79歳。小作農の家庭に育ち、幼い頃に父親を亡くしたため、母親がシカゴに出稼ぎに行き、自分は地元に残る。農作業の傍ら、粗末な手作り楽器でブルースを歌う日々を送る。

18歳になりシカゴに移住、ミュージシャンとしてのキャリアが始まる。メンテナーズというバンドでバーやクラブでの演奏を続けたのち、68年にソウル系のブラザーフッド・バンドに参加してフロントで歌うようになる。

79年に名プロデューサー、ウィリー・ディクスンに認められてシカゴ・ブルース・オールスターズに参加、マディ・ウォーターズとも共演を果たす。

マディ・バンドのメンバーを引き継いだレジェンダリー・ブルース・バンドを結成、80年から83年まで活動する。

これによりプライマーは、名実ともにシカゴ・ブルース界のトップに立ったのである。

80年代はそういったオールスター・バンド、あるいはマジック・スリムやジェイムズ・コットンとの共演、客演でのレコード・リリースが多かったが、90年代よりソロ名義でのリリースを行うようになる。

日本にも2001年にパークタワー・ブルース・フェスティバル出演のため来日を果たしている。

本日取り上げるのは、彼の一番最近のスタジオ録音盤から。プロモーションのためのミュージック・ビデオを観ていただこう。

リアル・ディール・ブルース・バンドを率いての演奏。メンバーにはハーモニカのスティーヴ・ベル(キャリー・ベルの息子)、ピアノのジョニー・イグアナらの実力派がいる。

ここでプライマーはマディ・バンドにいたギタリスト、サミー・ローホーンから学んだというスライド・ギターを、レスポールで奏でている。

プライマーがかつて師事したマディ・ウォーターズの「Rollin’ And Tumblin’」を彷彿とさせる曲調の、いなたいデルタ・ブルース・スタイル。

曲中、プライマーは1972年開業、2003年まで営業していた、シカゴのサウスサイドにあったブルース・クラブ、チェッカー・ボード・ラウンジの跡地を訪問する。

シカゴはブルースのメッカとはいえ、ブルース専門の店の経営は決して楽とはいえない。若手のミュージシャンたちも、なかなか育たない現状、ブルースの先行きは明るくない。一時は繁盛したチェッカー・ボード・ラウンジも、歳月と共に寂れて、閉じられることになってしまった。

そんな意味も込めて「ハード・タイムズ(不況期)」というタイトルがつけられたのだと思う。

とはいえ、流行からは取り残されても、ブルースという音楽はなかなかに「しぶとい」。老いたブルースマンは、死ぬまでブルースを歌い続けるのだ。

バディ・ガイに次ぐ現役ブルースマンの最古参、生きる伝説(レジェンド)ジョン・プライマーの、バリバリのプレイ、歌声を味わってくれ。

80年近い歳月が、彼の声に例えようのない凄みを与えている。

今もなお最もタフな大御所ブルースマン、それがジョン・プライマーなのだ。

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音曲日誌「一日一曲」#334 ジェフ・ベック&ロッド・スチュアート「People Get Ready」(Epic)

2024-03-05 07:22:00 | Weblog
2024年3月5日(火)

#334 ジェフ・ベック&ロッド・スチュアート「People Get Ready」(Epic)






ジェフ・ベック、85年リリースのアルバム「フラッシュ」より。カーティス・メイフィールドの作品。ベック自身、ナイル・ロジャーズ、アーサー・ベイカー他によるプロデュース。

昨日に続いて、メイフィールドのジ・インプレッションズ時代の、シングル・ヒット曲のカバー・バージョンである。

ギターのベックとボーカルのスチュアートのつながりは、一般的に第1期と呼ばれるジェフ・ベック・グループ(67-69年)の結成以来である。

その後、ふたりは別々のグループで活動して、大きな成功を収めていくことになるのだが、時にこのような形で共演をして、旧交を温めている。

オリジナルはインプレッションズ、65年リリースのシングル曲。アルバム「People Get Ready」よりカットされている。

その歌詞は、当時盛り上がっていた米国の公民権運動をモチーフとしている。公民権運動とは平たく言えば、さまざまな差別を受け続けていた黒人に、基本的人権を認めるよう政府に要求する社会運動だ。

インプレッションズは甘いラブソングを歌う一方で、こういった社会問題に切り込んだ曲をもいくつも作っていたのだ。

ゴスペルの影響の強いメロディ・ラインを持つスロー・バラードである本曲は、全米14位、R&Bチャートでも3位と、堂々たるセールスを達成した。メイフィールドがソロで独立した後も、彼のライブにおける重要なレパートリーとなっている。

今日はジェフ・ベック公式のミュージック・ビデオを観ていただこう。米国の片田舎の民衆に混じってギターを弾くベック、歌うスチュアートのふたりが描かれる。

ベックが携えるのは、当時愛用のテレキャスター。これをフィンガー・ピッキングしているのが印象的である。ベックばアルバム「フラッシュ」以降、ビック弾きよりも指弾きがメインとなっていく。

指弾きならではの微妙なニュアンス表現を、そのギター・プレイに感じとって欲しい。

歌いながら女性とダンスするスチュアートに、微笑みを禁じえない。モテ男ロッド・スチュアートといえば、やっぱりオンナっ気なしじゃ彼といえないしね(笑)。

本曲は 、98年にグラミーの殿堂入りを果たした。20世紀の名曲のひとつと、認められたのである。作者メイフィールドが、57歳の若さで亡くなる1年前のことであった。

ベックがこよなく愛したメイフィールドの音楽を、盟友スチュアートがその強力なハスキー・ボイスで歌い上げて、曲の魅力をフルに表現した一編。

オリジナルバージョン、メイフィールドバージョンと共に、いつまでも聴き継がれていくに違いない。

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音曲日誌「一日一曲」#333 ジ・インプレッションズ「I’m So Proud」(ABC)

2024-03-04 06:50:00 | Weblog
2024年3月4日(月)

#333 ジ・インプレッションズ「I’m So Proud」(ABC)






ジ・インプレッションズ、1964年のヒット・シングル曲。メンバー、カーティス・メイフィールドの作品。ジョニー・ペイトによるプロデュース。

ジ・インプレッションズは58年テネシー州チャタヌーガにて結成されたルースターズが前身の、黒人コーラス・グループ。シカゴに移って、ジェリー・バトラー、カーティス・メイフィールドを加えて「ジェリー・バトラー&ジ・インプレッションズ」となった。62年にバトラーが脱退。以後はメイフィールドがリードする3人体制となった。

63年リリースの「It’s All Right」が全米4位の大ヒット、人気を不動のものとする。本日取り上げた「I’m So Proud」は翌64年に出した一連のヒット曲のひとつで、R&Bチャート14位、全米14位と、黒人、白人共にアピールしたナンバーだ。63年のアルバム「The Never Ending Impressions」所収。

筆者はもちろんリアルタイムでこの曲を聴いて知っている訳ではない。なにせまだ小学1年、洋楽のヨの字も知らなかった頃だからだ。

初めて聴いたのは、オリジナルではなく、ベック・ボガート&アピス(BBA)の武道館ライブ盤のカバー・バージョンでだった。73年、高校1年の頃だ。

BBAのメンバー、ティム・ボガート、カーマイン・アピスが生み出すコーラス・ハーモニーが実にカッコよくて、「いったい誰の作品?」という疑問がわいた。調べると、カーティス・メイフィールドとある。

当時メイフィールドは72年の映画「スーパーフライ」の主題曲などのヒットで人気のソロ・シンガーであり、筆者もその存在を知っていたが、その彼が60年代にはインプレッションズというグループにいて、その立役者であったことも初めて知ったのである。

この「I’m So Proud」は、いかにもストレートなラブ・バラード。Proudという言葉は「誇らしい」「誇りに思う」などと訳されがちだが、この曲の場合はもう少し軽いニュアンスで「喜びに思う」ぐらいの感じだ。要するにベタベタな恋人讃歌。

メイフィールドの高めの声を主軸に展開される、この上なく甘いコーラス。バックの3連サウンドも、いかにも万人受けのするジェントルなアレンジ。こりゃ、ヒットするわな。

BBAのリズム隊、ボガート&アピスもヴァニラ・ファッジ時代からこういうソウル・ナンバーを好んでカバーしていたし、ベックも黒人音楽全般を愛好していたからこそ、武道館でもこういうナンバーをハード・ロックに交えて演奏したんだろうな。

ジ・インプレッションズはこの曲のリリース後も、「Keep On Pushing」「Amen」そしてロッド・スチュアートら多数のカバーを生んだ「People Get Ready」といった名曲を生み続けた。

70年にメイフィールドが独立した後も、メンバーを入れ替えつつ81年までアルバムを出しているが、メイフィールドの歌声、ソングライティングの才能が生かされた62年から70年までの3人時代が、やはり彼らの全盛期。

伸びやかでスウィートなハーモニーを、とくと楽しんどくれ。

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音曲日誌「一日一曲」#332 ジョニー・ウインター「Mojo Boogie」(Alligator)

2024-03-03 07:49:00 | Weblog
2024年3月3日(日)

#332 ジョニー・ウインター「Mojo Boogie」(Alligator)






ジョニー・ウインター、86年リリースのアルバム「3rd Degree」よりオープニング・ナンバー。J・B・ルノアーの作品。ウインター自身とディック・シャーマンによるプロデュース。

昨日取り上げたJ・B・ルノアーが50年代初頭にJ.O.B.レーベルでシングル・リリースしたナンバーである。原題は「The Mojo」。そのご、66年にアルバム「Alabama Blues!」で再録音しており、「The Mojo Boogie」と改題している。

オリジナルはサックスの入ったジャジィなバンド・サウンド、再録音はアコースティック・ギターとドラムスのシンプルなアレンジ。

ウインターによるカバーはルノアーとはかなり趣きを変えて、彼の激しいスライド・ギター・プレイを前面に押し出したアレンジとなっている。

ウインターはこの曲をステージでもよく演奏しており、ライブ映像も残っている。例えば、87年のスウェーデンにおける演奏。ここではベーシストが同時にハープも吹いているのが、やたらと目を引く。しかも、なかなかの巧者である。アメリカって、本当にミュージシャンの層が厚いよな。

歌詞の一部を紹介しておこう。

I been to New Orleans, I sure had a wonderful time
I been to New Orleans, I sure had a wonderful time
I was high, high as a Georgia pine

You know, the gypsy carried me down on Rampart Street
I seen everybody that I wanted to meet
She said, “Hey Johnny., stop and listen to me,
“They got somethin’ that knock you off a your feet

Its called the mojo boogie
Its called that Mojo boogie
“They call it mojo boogie, begin to slide on down”

ニューオーリンズに行ったときは、サイコーの時間を過ごせた
ニューオーリンズに行ったときは、サイコーの時間を過ごせた
まるで、ジョージアの松の木みたいにハイだったぜ

ジプシー女がランパート・ストリートに連れてってくれた
そこで会いたい人全員に会った
彼女は言った、「ねえジョニー、聞いて。あいつらはあんたを打ちのめすような何かを持ってるわ」

それはモジョブギ
それはモジョブギ
「それはモジョブギ、滑り落ちていくわ」(筆者による拙訳、一部訳ワカメなのはご勘弁を)

この歌詞を読めば、誰もが当然、ある曲のことを思い出すだろう。そう、マディ・ウォーターズの「Got My Mojo Workin’」である。

ジプシー女が登場し、怪しげな占いをしてラッキー・アイテム、モジョを渡してくれるという話。あるいは同じマディの「I’m Your Hoochie Coochie Man」にも似たようなくだりがある。

それらの曲に共通して登場するのが、本曲のモチーフでもある魔法のアイテム「モジョ」だ。

人を惹きつけ、意中の女性をやすやすと落とせるというこの「モジョ」の正体は何なのか?

インターネットの辞書によれば、ブードゥー教における呪術ということになっているが、それ以上の詳しいことはよく分からない。ブードゥー教に入信していない部外者は、推察するしかない。

正体がよく分からないからこそ、この「モジョ」という言葉には、我々を引き付けてやまないものがある。

そして上記のマディの曲や、ライトニン・ホプキンスの「Mojo Hand」、そしてルノアーの「The Mojo」といった曲を生み出すモチベーションとなったのだ。

ウインターもまた、この「モジョ」への興味からルノアーの曲を取り上げようという気になったのだろう。

ノリの良さはピカ一のシャッフル。キャッチーなメロディ・ライン。意味深な歌詞。陽性のブルースの魅力を凝縮したような一曲である。ぜひ、一緒に口ずさんでみて欲しい。




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音曲日誌「一日一曲」#331 J・B・ルノアー「Mamma Talk To Your Daughter」(Parrot)

2024-03-02 07:42:00 | Weblog
2024年3月2日(土)

#331 J・B・ルノアー「Mamma Talk To Your Daughter」(Parrot)








J・B・ルノアー、1954年リリースのシングル・ヒット曲。ルノア自身のオリジナル。

ルノアーは1929年、ミシシッピ州モンテセロ生まれのブルースマン。JBというのは実は略名ではなくて、それ自体がファーストネームなんだそうだ。

ルノアー(Lenoir)というのはフランス系っぽい姓だが、本人はもっぱら「ラノー」という読み方をしていたという。

父親は農業の傍らギタリストをやっていて、その影響により、幼少期よりブラインド・レモン・ジェファースンをよく聴くようになる。

10代前半、ニューオーリンズでサニーボーイ二世、エルモア・ジェイムズらと知己を得る。

49年、20歳にしてシカゴに移住、当地のブルース・ボス、ビッグ・ビル・ブルーンジーの助力により、メンフィス・ミニー、マディ・ウォーターズらと共演する機会を得る。

翌年よりレコーディングを開始、デビュー・シングルの「Korea Blues」や次の「Deep In Debt Blues」といった社会風刺ネタのブルースをリリースして異彩を放った。

「Eisenhower Blues」もそういった時事ネタのブルースだったが、政府当局から圧力ががかり、発禁扱いとなってしまう。再発版では歌詞を変えて「Tax Paying Blues」という曲となった。その他、「I’m In Korea」「Alabama Blues」「Vietnam」といった社会派のブルースが何曲もある。

そんな反骨精神に満ちた「闘うブルースマン」のルノアーだったが、一方で普通に男女関係のあれこれを歌う曲も作って、ヒットを出している。

それが「Eisenhower Blues」と同じ54年にリリースした、この「Mamma Talk To Your Daughter」である。

ユーモラスな歌詞と歌い口で、またたく間にヒット。R&Bチャートで11位を獲得する。他のミュージシャンに何度もカバーされており、その代表例が88年リリースのロベン・フォードのアルバム「Talk To Your Daughter」に収録されたタイトル・チューンだろう。

本欄をお読みになっている皆さんの大半は、フォード版でこの曲を知ったと思う。彼のステージでの定番曲でもあるしね。

ルノアーのオリジナル版はといえば、その30年以上前の録音だけあって、いかにも古めかしい、シカゴ・ブルース・サウンドだ。J・T・ブラウンと思われるテナー・サックスをフィーチャー、いかにもノリがいい。

もうひとつ、66年の再録音バージョンも紹介しておこう。こちらはルノアーのアコースティック・ギターをフィーチャーした、電化される前のいなたいデルタ・ブルース調。

これにフレッド・ビロウの、まるで祭り太鼓のように賑やかなドラムスが、曲にウキウキとした気分を与えていて、なんともグッド。

ルノアーの作品でユーモラスな曲調のものとしては、他にも「Don’t Touch My Head!!!」「Daddy Talk To Your Son」など多数ある。

言って見れば、政治という硬派ネタ、男女関係という軟派ネタは、ルノアーの歌のテーマの表と裏をなしており、どちらも風刺やユーモアを利かせて調理するのが、ルノアー流と言えるだろう。

70年を経て、いまだに多くのミュージシャン、リスナーに愛される小粋なブルース・チューン、「Mamma Talk To Your Daughter」。筆者も、時々セッションで歌ってます。

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